秋晴れの午後、カイルが口を開いた瞬間——レンは、これから何が起きるのか、まるで予想していなかった。
広場の木陰。鍛錬を終えたカイルは汗を拭きながら、魔法陣の調整をしているレンの隣に座った。銀杏に似た街路樹の葉が黄色く色づき始めていて、時折ひらひらと落ちてくる。
カイルは腕を組み、何か考えるように唸り——そして、突然言った。
「なあレン。お前、エルナちゃんのこと好きだろ」
レンの手が止まった。
魔法陣の上に浮いていた光の文字列が、ぶるっと震えた。
「……は?」
「いや、だから。好きだろ、エルナちゃんのこと」
レンは本気でわからないという顔をした。眉間に皺を寄せ、首を傾げ、それから——
「何の話だ。好感度パラメータの話か?」
カイルは天を仰いだ。
「お前マジで鈍いな」
「鈍いって何が。俺は今、ゴーレムの制御魔法陣を最適化してるんだが」
「いいから聞け。お前、パン工房に通ってるだろ」
「エルナの焼くパンが美味いからだ。立地と品質のバランスが——」
「違う。パンが目的じゃないだろ」
レンは真顔で答えた。
「パンが目的だが?」
カイルが頭を抱えた。その表情が全てを物語っていた——この男は本気で何を言われているのかわかっていない。
「お前さ、エルナちゃんと話してる時、声変わってるぞ」
「変わってない」
「変わってる。俺の耳は確かだ」
「お前の耳は戦闘以外では信用できない」
「戦闘の耳のほうが鋭いんだよ! 人間の本音は声に出る。師匠——いや、じいさんも同じこと言ってた」
レンは肩をすくめた。
「カイル。俺とエルナは効率的な協力関係だ。俺が街の開発を進め、エルナが食料供給の拠点を担う。互いの役割が噛み合っている。それだけだ」
「それ、好きって言ってるのと同じだぞ」
「全然違う。協力関係と感情的な依存は別の概念だ」
カイルが黙り込んだ。口を開きかけて閉じ、もう一度開きかけて——結局、溜息をつくだけだった。
レンには、カイルがなぜそこまで呆れているのかが本気でわからなかった。
***
午後の遅い時間、レンが研究室代わりの小屋にいると、メイラがやってきた。
腕に分厚い紙束を抱えている。眼鏡のレンズが秋の日差しを反射して、表情が読みにくい。だが、頬がうっすら赤い。
「レンさん、これ……先日の実験結果をまとめました」
レンが受け取る。紙の束——メイラが手書きで整理した、生成魔法陣の比較分析だ。
「……メイラ、これ全部手書きか?」
「は、はい。魔法陣の微細な差異は転写だと消えてしまうので……手で写すしかなくて」
レンが紙をめくる。一枚一枚、びっしりと記号と注釈が書き込まれている。丁寧な文字。図解も精密で、魔法陣の構造が一目でわかるように色分けまでされている。
「これは……すごいな。この整理の仕方、俺には絶対できない」
メイラの頬が、さらに赤くなった。視線が泳いでいる。嬉しいのを隠そうとして、隠しきれていない。
「そ、そんな。わたしは自分の研究のためにまとめただけですから……レンさんのお役に立てたなら、その……嬉しいですけど」
「助かる。特にこの三ページ目、魔法陣の版ごとの差分比較。これがあると修正箇所が一瞬で特定できる」
「あ、ありがとうございます……!」
メイラはレンの隣に座った。二人で紙束を広げ、魔法陣の構造について話し始める。
レンにとっては、純粋に学術的な喜びだった。優秀な研究者が自分の仕事を正確に理解し、整理してくれる。前世のスタートアップで、こんなドキュメントを書いてくれるメンバーがいたら三顧の礼で迎えていた。
メイラの肩が、少しだけ近い。レンはそのことに気づいていなかった。
「この魔法陣の回路、ここで分岐してますよね。従来の理論だと一本道が最適なはずなんですが——」
「ああ、それ。並列処理させたかったんだ。一本道だと精霊への命令が直列になって、待ち時間が発生する」
「なるほど……! 並列化の発想は、既存の文献にはありませんでした。レンさん独自の——」
メイラが顔を上げた瞬間、レンの横顔が近かった。
「——っ」
メイラは素早く視線を紙に戻した。耳まで赤くなっているのが、横から見てもわかった。
レンは気づいていない。完璧に気づいていない。
仮にこの場面をデータ化して分析にかけても、レンは「室温の上昇」としか報告しないだろう。
***
その光景を、レンは窓の外に目を向けた時に思い出した。
いや——正確に言えば、窓の外にエルナが立っていた。
パン工房からの帰り道らしい。研究小屋の前でエルナが足を止めているのが見えた。窓からレンとメイラが並んで座っているのが見えたのだろう。エルナの表情が、なぜかこわばっていた。
レンは小屋のドアを開けた。
「あ、エルナ」
「ちょうどいい。メイラが面白い分析を——」
「忙しいから」
エルナの声が、驚くほど冷たかった。唇が一文字に結ばれている。
レンは首を傾げた。
「……エルナ、どうした? 体調悪いのか?」
「……別に」
「顔色が——」
「別にって言ってるでしょ」
エルナは足早に去った。小麦色の髪が秋風に揺れる。その背中は、いつもより小さく見えた。
レンは窓際に立ったまま、首を傾げていた。
「……何か怒ってたな。何かしたか、俺」
研究小屋の中から、メイラの声が聞こえた。小さくて、どこか無理をしている声だった。
「……きっと、お疲れなんですよ」
「そうかもな。パン工房、最近忙しいって言ってたし」
レンは窓から離れ、再び魔法陣の資料に目を落とした。
メイラの表情は見えなかった。だが、声だけは——少し掠れていたような気がした。
***
夕方。レンが街の外れで作業の確認をしていると、カイルが薪割りをしているのが見えた。その手前に、エルナが立っている。
二人の声が、秋風に乗ってレンの耳に届いた。
「エルナちゃん、どうした。顔怖いぞ」
「怖くない」
「いや、怖い。魔物より怖い」
エルナが足を止めた。薪割り台の前に立つカイルを見上げている。
「……カイル」
「おう」
「あんたってさ、なんでもストレートに言うでしょ」
「まあな。回りくどいの苦手だし」
「じゃあ聞くけど。あたし、別に何も怒ってないし、何もモヤモヤしてない。わかった?」
カイルが斧を肩に担いだ。にやっと笑うのが見えた。
「それ、モヤモヤしてる奴の典型だぞ」
「してない」
「してる」
「してないって言ってるでしょ!」
エルナの声が大きくなった。顔が赤い。明らかに怒っている。だが——レンが見ている限り、何に怒っているのか、エルナ自身もわかっていないように見えた。
カイルが斧を振り下ろした。薪がきれいに割れた。
「まあ、わかんないならそのうちわかるさ。俺はそう思う」
「……意味わかんない」
エルナは唇を尖らせて去っていった。
レンは少し離れたところから、カイルに声をかけた。
「カイル」
「お、レン。聞いてたか」
「……エルナ、何に怒ってたんだ?」
カイルは割った薪を積みながら、呆れたような、憐れむような顔でレンを見た。
「お前なあ……」
「何だよ」
「……いや、なんでもない。そのうちわかる。たぶん」
レンは首を傾げたが、カイルはそれ以上何も言わなかった。
***
夜。レンが街の中央広場でゴーレムの点検をしていると、イグニスが人型化して隣に現れた。
「術者。一つ訊いていいか」
「なんだ」
「お前、人間の雌——いや、女という存在に対する認識力が著しく低くないか」
レンは手を止めた。
「……急にどうした」
「俺様はこの数百年、多くの術者と契約してきた。中には恋に狂って魔法が暴走した馬鹿もいた。だが——」
イグニスの金色の瞳が、レンを見据えた。
「お前は逆だ。目の前で何が起きても気づかない。数百年見てきた中で最も鈍い術者だ」
「鈍いって何が——」
「わたくしも同意見です」
背後から、冷たい声。
ノエルが水の球体から人型化し、銀青の髪を靡かせて立っていた。秋の夜風に周囲の湿度がわずかに上がり、息が白くなる。
「珍しいですね、あなたと意見が合うのは」
イグニスの目が細まった。
「……水の精霊。お前まで来たのか」
「ご主人様の危機的状況を、水脈を通じて察知いたしまして」
「危機って何だ」
レンが訊いたが、二体の精霊はレンを無視して顔を見合わせた。
「イグニス殿。あの眼鏡の嬢ちゃんが顔を真っ赤にしていたのは、ご存知で?」
「知っておる。パン屋の娘のほうも、さっきから不機嫌だ」
「原因は一つです」
「ああ」
二体の精霊が同時にレンを見た。
「「お前(あなた)だ」」
レンは目を丸くした。
「……何の話だ。俺は何もしてないぞ」
「何もしていないのが問題なのだと、わたくしは存じます」
「そうだ。この鈍さは病気に近い」
レンは二体の精霊を交互に見た。火と水の精霊が同じことを言っている。犬猿の仲のはずの二体が完全に意見を一致させている。
よほどのことなのだろう——が、何がよほどなのか、レンにはわからなかった。
「お前ら、今日やけに仲がいいな」
「「仲は良くない(ございません)」」
また同時だった。
遠くから、グレンの笑い声が聞こえた。
工房の前の椅子に座った老師が、月明かりの下で茶を啜りながら、こちらを見ている。膝に掛けた毛布が秋の夜の肌寒さを物語っている。
「若いのう……」
白い髭の奥で、にやにやと笑っていた。
「小僧はまだわかっておらんようじゃな。まあ、わかる時が来る。来なければ——」
グレンは茶碗を傾けた。
「筋肉バカとパン屋の嬢ちゃんがなんとかするじゃろ」
***
その夜遅く。
レンは一人で広場のベンチに座り、月を見上げていた。
秋の月が、やけに大きい。透き通った夜空に浮かぶ満月に近い月が、広場の石畳を青白く照らしている。
カイルの言葉が、頭の隅に引っかかっている。
——お前、エルナのこと好きだろ。
好き?
エルナのパンは美味い。それは事実だ。エルナの言葉は鋭い。それも事実だ。エルナがいると、なぜか魔法陣の設計に集中できなくなる。それは……効率的ではない。
でも、エルナがいないと、それはそれで何か物足りない。
今日、エルナが「忙しいから」と去っていった時、胸の奥に何かが引っかかった。小さくて、でも無視できない何か。エルナの背中が小さく見えた——あの感覚は、何だったのだろう。
——これは何のパラメータだ?
レンは首を振った。
考えても答えが出ない。データが足りない。感情というのは、プロンプトで制御できない変数だ。
と、そこで——
ゴゴン、と低い音が響いた。
街の南側。建設現場の方角だ。
レンが立ち上がる。
もう一度——ゴゴン。
地面が微かに揺れた。足裏に振動が伝わる。
レンは広場を駆け抜け、建設現場に向かった。
月明かりの中、建築用ゴーレム2号機「イヴ」が立っていた。
だが——動きがおかしい。
右腕が、命令もなく上下に揺れている。脚部が不規則に前後し、半歩進んでは半歩戻るを繰り返している。
レンはステータスウィンドウを開いた。
ゴーレム2号「イヴ」
状態: 自律判断モード——逸脱検知
直近動作: 構造最適化……対象未指定
警告: 制御魔法陣に不整合あり
「……何だこれ」
イヴの頭部が、ゆっくりとレンのほうを向いた。
その眼窩に埋め込まれた魔石が、不規則に明滅している。
レンの背筋を、冷たいものが走った。
「イヴ。停止命令」
『——対象、最適化……中です』
止まらない。
ゴーレムの右腕が持ち上がり、横にある建設途中の壁に向かった。
「イヴ! 停止!」
レンの声が、秋の夜の街に響いた。