グレンの工房は、いつも鉄と炭の匂いがした。
壁には古い魔法陣の原本が何十枚も貼られ、作業台には使い込まれた工具が整然と並んでいる。すべてに手垢がしみ込み、年月の重みが漂っていた。
レンはその工房の隅に座り、グレンが淹れた薬草茶を受け取った。茶から立ちのぼる湯気が、秋の冷えた工房の空気に白く揺れている。
「小僧、少し話がある」
昨日の夕方、グレンがそう言った時の表情が、いつもと違っていた。
普段は「師匠と呼べ」と怒鳴るか、「わしの時代は三年かけた」と昔話をするか——そのどちらかだ。だが昨日の顔には、そのどちらの色もなかった。
静かで、重い目だった。
「じいさん、話って何だ」
「師匠と呼べと何度——いや、今日はいい」
グレンが自分のぶんの茶を注ぎ、作業台の向かい側に腰を下ろした。白い髭が胸元で揺れる。灰色の目が、レンを真っ直ぐに見ていた。
「お前の魔法は速い」
「……ああ」
「凄い。わしの六十年を、お前は一日で超えることがある」
レンは黙った。グレンがこんなふうに素直に褒めるのは珍しい。褒めた後に何かが来る——そう直感した。
「じゃがな」
来た。
「お前自身は、何を大切にしておるのだ?」
レンの手が止まった。薬草茶の湯気が、ゆらりと立ちのぼっている。
「……何って」
「お前は毎日、魔法陣を書いている。ゴーレムを動かしている。街を発展させている。速く、正確に、効率よく。だが——お前はそれをやりながら、何を感じておる?」
答えが出てこなかった。
効率よく動かすこと。自動化すること。最適化すること。それが目的で、それが手段で——そこに感情が入る余地があるのか、考えたことがなかった。
グレンは茶を一口飲み、カップを置いた。
「昔話をしてもいいか」
「じいさんの昔話は長い」
「今日のは短い。——わしの弟子の話じゃ」
***
「わしがまだ五十の頃——もう二十年以上前になるのう。一人の弟子がおった」
グレンの声が、少し低くなった。
「才能があった。手先が器用で、魔力の制御も正確で、わしが教えた技を三日で自分のものにした。十年に一人の逸材——いや、それ以上じゃったかもしれん」
レンは黙って聞いていた。グレンが弟子の話をするのは初めてだった。
「その弟子は、速かった。わしが一日かける魔法陣を、半日で仕上げた。しかも精度が落ちん。むしろわしより正確な時もあった」
「優秀だったんだな」
「ああ。だからわしは油断した」
グレンの灰色の目が、窓の外——工房の向こうに広がる街を見た。木々の葉は紅と黄に燃え、晩秋の風が枝を揺らしている。
「弟子は、いつしか『速さ』だけを追い求めるようになった。一日の魔法陣を半日で仕上げたら、次は四分の一にしたい。四分の一を八分の一にしたい。どんどん速く、どんどん多く」
「……それの何が悪い?」
「悪くはない。最初はな」
グレンが茶碗を両手で包んだ。分厚い指。火傷の跡が無数にある、職人の手だった。
「速くなるために、弟子は手を抜くようになった。一つ一つの魔法陣に込めていた——何と言えばいいか、こう、手の温もりのようなもの。それを省くようになった」
「手の温もり?」
「うまく言えんのじゃ。魔法陣の性能には関係ない。けれど、わしの魔法陣を使ってくれる人間は、それがあるかないかを感じ取る。不思議なもんでな」
レンは、エルナの言葉を思い出した。
——機械じゃ、味が出ないの。
あの時は「非科学的だ」と返した。だがグレンの話を聞いていると、同じ何かを別の角度から見ている気がした。
「弟子は量産するようになった。速く、正確に、大量に。性能だけなら申し分ない魔法陣が、次から次へと仕上がった」
「それで?」
「誰にも選ばれなくなった」
グレンの声が、静かだった。
「他にも魔法陣技師はおる。性能が同じなら、人は何で選ぶか。——信頼じゃよ。この技師が、心を込めて書いたものだという信頼。弟子の魔法陣にはそれがなくなっていた」
「……」
「弟子はわしの工房を去った。自分では気づいておらなんだ。なぜ仕事が来なくなったのか、最後までわからなかった」
グレンがレンを見た。
「効率だけを追い求めると、大事なものを見落とす。わしはそれで弟子を一人失った」
工房の中が静かだった。窓の外で鳥が鳴いている。遠くでゴーレムが石材を運ぶ音が聞こえる。秋の虫の声が、昼間でもかすかに聞こえるようになっていた——夏の盛りには蝉の声に掻き消されていた音が、今は工房の静けさの中に溶け込んでいる。
「小僧」
「……なんだ」
「お前に同じ道を歩んでほしくないんじゃ」
レンは、答えられなかった。
答えられない自分に、気づいていた。
前世でも同じだった。効率を追い求めて、人間関係を切り捨てた。恋人に「あなたといても効率が悪い」と言って振られた。同僚に「ミーティングの時間が無駄だ」と言って孤立した。
サーバールーム火災で死んだ時——助けに来てくれる人間は、一人もいなかった。
「……じいさん」
「なんじゃ」
「俺は——まだ、わからない」
グレンは、少しだけ笑った。皺だらけの顔が、穏やかに緩んだ。
「わからんなら、いい。今はわからんでいい。——ただ、忘れるな。お前の周りにいる人間を、効率で測るなよ」
レンは、薬草茶を飲み干した。
ぬるくなっていた。だが——悪くない味だった。
***
工房を出ると、街の中央広場にメイラが立っていた。
荷物をまとめた背嚢を背負い、白いローブの裾が風に揺れている。傍らには馬車が一台。王都行きの定期便だ。秋口から冬にかけては便が減ると聞いた——この便を逃すと、次は十日後になる。
「レンさん」
メイラがこちらに気づいて、小走りに駆け寄ってきた。丸眼鏡の奥の淡いグリーンの瞳が、少し潤んでいるように見えた。
「王都に戻るんだな」
「はい。学院への報告と、研究論文の中間発表がありまして」
「論文?」
「レンさんの生成魔法に関する考察です。……あの、勝手にまとめてすみません」
「いや、構わない。むしろ嬉しい」
メイラの頬が、ほんのりと赤くなった。眼鏡の奥の目が泳ぐ。
「あ、あの。研究報告が終わったら——」
メイラが言葉を選ぶように、視線を落とした。背嚢の紐を指先でいじっている。
「また来ます。必ず」
その声は、研究者の報告ではなかった。
レンにはわからなかったが——メイラが顔を上げた時、その眼差しには論文に書けない何かが滲んでいた。
「ああ。待ってる」
レンがそう返した時、背後で気配がした。
振り返ると、パン工房の入口にエルナが立っていた。洗い物の手を止めて、こちらを見ている。その表情は——いつもの仏頂面より、少しだけ硬い。
メイラが馬車に乗り込んだ。窓から手を振る。レンが手を振り返す。
馬車が動き出し、街道の向こうに小さくなっていく。木々のトンネルをくぐるように、紅葉の中に消えていった。
「……行ったか」
レンが呟いた時、横からカイルが現れた。どこにいたのか、壁に背を預けてパンをかじっている。
「なあレン」
「何だ」
「お前、二股かけてんのか?」
レンは三秒ほど意味を考えた。
「……二股って何のフォークだ」
カイルが天を仰いだ。
「そういうとこだぞ」
「何がだよ」
「メイラが泣きそうな顔してたの、気づいてなかっただろ」
「泣きそう? 普通に笑ってただろ」
カイルがパンの最後のひと欠片を口に放り込み、レンの肩をばんと叩いた。
「お前さ、魔法とかゴーレムとか、そういうのには天才なんだろうけど。人の気持ちに関しては——」
「関しては?」
「壊滅的だ」
レンは反論しようとして、やめた。前世で恋人に振られた時のことが、頭をよぎったからだ。
「……否定はしない」
「わかってんなら直せよ」
「直し方がわからない」
「それを俺に訊くな。俺は脳筋だ」
カイルは笑いながら去っていった。
***
夕方。
レンがゴーレムの稼働報告を確認していると、パン工房の方向から足音が近づいてきた。
エルナだった。
手に、小さな籠を持っている。中には見慣れない形のパンが入っていた。丸くもなく、四角くもなく——ねじれたリボンのような形。表面に細かい粒がまぶしてある。
「新メニューの試食。感想聞きたいだけだから」
エルナはそう言って、籠をレンの前に差し出した。目を合わせていない。
「新メニュー?」
「木の実とはちみつのねじりパン。焼き加減が難しくて、まだ調整中」
レンはパンを手に取った。温かい。焼きたてだ。
ひと口かじる。
外側はかりっとした食感で、噛み進めると木の実の香ばしさが広がる。はちみつの甘さが後から追いかけてきて、小麦の風味と溶け合う。ねじった形のおかげで、食感のムラが——いや、ムラではない。噛むたびに違う味わいが出てくるように設計されている。
「……美味い」
短い感想だった。だがレンの語彙では、それが最上級だった。
エルナの肩が、ほんの少し跳ねた。
「……そ」
それだけ言って、エルナは背を向けた。
背を向けたまま、一歩、二歩と歩いて——立ち止まった。
「あんた」
「何だ?」
「……あの研究者の子、また来るの?」
「メイラか? ああ、研究が終わったら戻ってくると言ってた」
「ふーん」
エルナの声が、平坦だった。平坦すぎた。
「べつに。聞いただけ」
エルナはそのまま工房に戻っていった。
レンは残りのパンをかじりながら、首を傾げた。
何か引っかかる。だが、何が引っかかるのかがわからない。
いつものことだ。
頭の中で、カイルの声が再生された。
——壊滅的だ。
「……否定はしない」
二度目のその言葉は、独り言だった。
***
夕暮れ。
レンは村の外れの丘に立った。
いつもの場所だ。エルナと初めてここに来た日のことを覚えている。あの時はまだ、ただの辺境村だった。
今は違う。
眼下に広がるのは、小さな街だった。
藁葺き屋根の家々の間に、新しい石造りの建物がいくつも建っている。交易路に沿って商店が並び、中央広場では夕方の市場が賑わっている。ゴーレムたちが石材や木材を運び、職人たちがそれを受け取って加工している。
街の外側では、ゴーレムが耕作を終えた畑が整然と広がっていた。秋の収穫が終わり、冬に備えて土を休ませている区画もある。交易路の向こうから、荷を満載した商人の馬車が一台、砂埃を上げてやってくるのが見えた。遠く、街の北端ではイグニスが接続した精霊ネットワークの結節点——精霊灯と呼ばれる青白い光柱が、夕闇に浮かび始めている。
人が増えた。
パン工房の前には行列ができている。鍛冶場からは槌の音が響く。子供たちが広場で走り回り、犬が吠え、商人が声を張り上げている。
たった半年前、ここには何もなかった。
「この街は——俺が作った」
レンは呟いた。
スキル【生成AI】。ゴーレム。魔法陣。精霊ネットワーク。
その全てを使って、レンはこの場所を辺境村から街へと変えた。効率的に。合理的に。最適化して。
だが——
目を凝らすと、見えるものが違ってくる。
パン工房の行列は、エルナが毎朝四時に起きて焼いているから存在する。鍛冶場の槌の音は、グレンが腰の痛みをこらえながら弟子に教えているから鳴っている。市場の賑わいは、商人たちが自分の足で遠くから荷を運んできたから生まれている。
子供たちの笑い声は——ゴーレムには作れない。
グレンの言葉が、胸の中で響いた。
——効率だけを追い求めると、大事なものを見落とす。
ヴォルフの言葉も重なった。
——これは剣の形をした鉄だ。剣じゃない。
エルナの言葉も。
——機械じゃ、味が出ないの。
全員が、違う言葉で同じことを言っている。
レンの中で、前世の記憶が静かに浮かんだ。AIスタートアップのCTOとして、あらゆるものを自動化した日々。効率を極限まで追い求めて——最後に残ったのは、サーバールームの炎と、助けに来ない静寂だった。
「この街を動かしているのは——」
風が吹いた。晩秋の風だ。丘の草がなびき、枯れ始めた穂先が金色に光る。遠くからパンの焼ける匂いが、かすかに漂ってきた。
「俺じゃない」
レンは目を閉じた。
「ここに住む人たちだ」
それは、答えではなかった。まだ、言葉にしきれない。大切にすべきものが何なのか、効率では測れないものの正体が何なのか——まだわからない。
でも、わからないということがわかった。
前世の自分は、それすらわからなかった。
グレンが言った。「わからんなら、いい」と。
その言葉が、今は少しだけ——救いに感じた。
レンが目を開けた時、丘の向こう——北東の山脈の稜線に、淡い光が見えた。
山の向こう側。夕日とは逆の方角だ。
自然の光ではない。何かが、あの山脈の向こうで発光している。
レンは目を細めた。
「……何だ、あれ」
イグニスが炎の球体で浮かんできた。
「地脈の乱れだ。あの方角——二、三日の距離に、何かがある」
「何か?」
「わからん。だが精霊力が集中している。……少し、嫌な予感がするな」
レンは、光る山脈をしばらく見つめていた。
夕日が沈み、空が紫に染まっていく。街の灯りが一つ、また一つと点り始める。精霊灯の青白い光と、窓から漏れる暖炉の橙色の光が、秋の闇に混ざり合う。
あの光の正体は、まだわからない。
だが——明日から、わからないことが増える。
それは悪いことではない気がした。