——夕暮れの薬草畑。
夕暮れの薬草畑は、光だけが先に静かになっていく。
葉の縁が金に滲み、風に揺れるたび、香りが薄くほどけた。
土の湿り気。
乾きかけた草の苦味。
指先に残るミントの冷たさ。
私は畝の間に膝をついて、根を傷つけないように指を潜らせる。
引き抜いた薬草の土を払って、籠へ。
同じ動作を繰り返すと、心も落ち着くはずだった。
なのに今日は、落ち着かない。
胸の奥に、言葉にならないざわめきが居座っている。
隣の影が、少しだけ動いた。
鎧が草を擦る音。
それから、どすん、と重さ。
レオンさんが畝の端に腰を下ろしたのだと分かった。
彼は何も言わない。
いつものことだ。
でも今日は、いつもより……沈黙が近い。
私は手を止めずに、背中だけで彼の気配を測る。
剣を握る人の手が、薬草の束を運ぶのに慣れてしまったこと。
その指先が擦れていること。
それを見て、嬉しいのに、怖い。
守られる、という形が苦手だ。
誰かの善意に乗った瞬間、私は“返さなきゃ”と思ってしまう。
笑って、頷いて、「大丈夫」と言って。
でも、この人は違う。
前に立つ盾みたいに見えて、どこかいつも、同じ高さへ来ようとする。
肩に力が入っているのに、視線だけは私から逸らさない。
籠の取っ手を握る指に、力が入った。
関節が白くなる。
今なら。
夕暮れが、背中を押してくれる気がした。
「……レオンさん」
短く呼ぶと、隣の空気がわずかに変わる。
返事はない。
けれど、聞いている。
その気配だけで、胸が熱くなった。
この人は、いつも私の少し前に立つ。
危ないとき、寒いとき、誰かの視線が刺さるとき。
背中で風を受けて、私の前を塞ぐ。
ありがたい。
本当に、ありがたいのに。
その背中を見るたび、私は思ってしまう。
私は“守られる側”に固定されるんじゃないか、と。
いつかまた、役目や価値で測られる場所へ戻されるんじゃないか、と。
だから私の口から出る言葉は、いつだって遠回りになる。
本当は、簡単な一言が欲しいだけなのに。
私は息を吸う。
畑仕事の延長みたいな声を作る。
ただの確認、ただの雑談……そう言い訳できるように。
「どうして、ずっと……私の隣にいてくれるんですか?」
言い終えた瞬間、風が一拍遅れて止まったように感じた。
薬草の葉が、動かない。
遠くの鳥の声が、薄くなる。
レオンさんは、瞬きを一度だけして——黙った。
沈黙が落ちる。
落ちた沈黙は、ひどく重いのに、荒々しくない。
拒絶じゃない。
言葉を探している沈黙だ。
レオンさんの沈黙は、いつも優しい。
答えを急がない。
私の言葉が整うまで、待つ。
それが、また怖い。
待ってくれる人に、私は弱い。
彼の喉が、こくりと動く。
鎧の内側で、胸が一度だけ深く膨らむ。
それでも、何も出てこない。
彼の手が腰の辺りへ下りる。
剣の柄に触れる癖で、何もない空を掴みかけて——やめた。
空振りが、妙に痛々しい。
私は視線を落とした。
踏み固められた畝の道。
小さな石。
夕日の影が、ゆっくり伸びていく。
重かったのかもしれない。
答えたくない問いだったのかもしれない。
そう思って、口の中が苦くなる。
「……ごめんなさ——」
言いかけたところで、レオンさんの拳が小さく握られた。
ただ拳を作っただけなのに、震えている。
冷えじゃない。夕暮れはまだ、寒くない。
私は籠をそっと地面に置いた。
草の上に。
音を立てないように。
両手を膝の前で重ねる。
逃げない、と身体で伝えるみたいに。
長い沈黙のあと。
彼は、ようやく口を開いた。
「……俺は」
掠れた声だった。
いつもの低い声とは違う。
胸の奥から引きずり出したみたいな声。
その声だけで、私の目の奥が熱くなる。
まだ何も言われていないのに。
レオンさんは、夕日の方を見たまま続けた。
視線を合わせたら、言葉が崩れてしまうみたいに。
「俺はあんたを守りたかったんじゃない」
言葉が、ゆっくり落ちる。
土に染みる水みたいに、逃げ場なく広がる。
私は、過去の光景を思い出してしまう。
神殿の白い廊下で、騎士たちの視線から私を隠すように、彼が一歩前へ出た日。
王宮で、私の手首に残った痣を見て、唇を固く結んだ日。
守るという言葉が、彼の中でどれだけ重かったのか。
私は想像するしかない。
けれど今、彼がその言葉を否定したことが、なぜだか嬉しくて、怖かった。
守る、という言葉は前へ出る。
盾になる。
相手を“後ろ”に置く。
それが優しさだって知っているのに。
私の心は、あの形が怖い。
守られる場所は、いつだって窮屈で、孤独だから。
レオンさんは一度、言葉を噛んだ。
喉が鳴る。
次の一言までの間が、痛いほど長い。
夕日がもう少し沈んだ。
畑の杭が影になり、私たちの足元へ斜めの線を引く。
時間が、終わりへ向かっているのが分かる。
だからこそ、今ここで落ちた言葉は、戻らない。
「あんたの隣にいたかった」
呼吸が止まる。
「それだけだ」
たった一行。
不器用で、無駄がなくて、逃げ道もない。
なのに、胸の奥をまっすぐ撃ち抜く。
隣にいる、という言葉は前に出ない。
引っ張らない。
支配しない。
同じ景色を、同じ速さで見ようとする。
私が欲しかったのは、きっとそれだ。
そう思った瞬間、身体の力が抜けそうになった。
目の奥がじわりと熱い。
泣くつもりなんてなかったのに、涙は勝手に溜まる。
こぼれる前に笑って誤魔化そうとして——失敗した。
「……っ」
息が震えて、声にならない。
頬に落ちた雫が、土の匂いを少しだけ濃くした。
私は袖で拭う。
拭っても、また溢れる。
止まらない。
レオンさんが、初めて私の方を見た。
夕日の中で、その目だけが妙に近い。
困ったように、でも、逃げない目。
「……変か」
ぶっきらぼうな問い。
いつもなら、私が笑って否定して終わらせる言い方。
でも今は、終わらせたくない。
私は首を振った。
何度も、小さく。
「……嬉しいです」
嬉しい。
それは嘘じゃない。
でも、嬉しいだけじゃない。
この言葉を受け取ってしまったら、私は次の言葉を返さなきゃいけない気がする。
釣り合う答えを。
綺麗な形にして。
急いで。
それが怖い。
今の私には、まだ——準備ができていない。
「でも……ごめんなさい」
声が揺れて、みっともない。
それでも言う。
「今すぐ、ちゃんと……答えを返せる自信が、ないです」
拒んだと思われたらどうしよう。
傷つけたらどうしよう。
怖くて、息が浅くなる。
それなのに、レオンさんの表情は変わらなかった。
怒りでも、戸惑いでもない。
ただ、噛み砕くみたいな、静かな理解。
「……分かってる」
短い返事。
それだけで、肩から力が抜けた。
この人は急がない。
急がせない。
私の返事が“はい”でも“いいえ”でもないことを、この人は受け止めてしまう。
受け止めて、抱えて、どこにも投げない。
そんな人に、私はどうやって正しい答えを返せばいいんだろう。
その優しさが——ずるい。
私の心が追いつくのを待ってくれる優しさに、甘えてしまいそうになる。
涙が、もう一度落ちた。
私は笑えないまま、言ってしまった。
「……ずるいです」
レオンさんは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を落とした。
耳の先が夕日のせいじゃなく、赤い気がした。
「……悪い」
低い声で、短く。
謝罪の形なのに、どこか大事に抱えるみたいな響きだった。
薬草畑が、静かに呼吸する。
干し草の匂いが甘くなる。
沈む光が、私たちの影を長く伸ばしていく。
私の中で、何かがほどけていく。
それは“守られる怖さ”じゃない。
隣にいたい、と言われたときにだけ生まれる、温かい不安。
その不安は、私の足を縛らない。
ただ、次の一歩を慎重にさせる。
私は籠を抱え直した。
作業を終えて屋敷へ戻らなきゃいけない。
いつもの道を歩く。
いつもの時間に戻る。
でも、もう“いつも”のままではいられない。
たった一行が、私の世界の中心をずらしたから。
立ち上がろうとしたとき、袖の端が引かれた。
さっきと同じ。
握りしめない。
引き寄せない。
ただ、離さないための力。
私は息を止めて、振り向く。
夕暮れの中で、レオンさんは一度だけ、喉を鳴らした。
言葉を飲み込む癖みたいに、唇を結んで——ほどく。
私も、言葉を探す。
「ありがとう」では足りない。
「嬉しい」だけでは逃げになる。
でも、恋の言葉を返すには、私はまだ幼すぎる。
この世界で“好き”は、簡単に誓いと責任に変わってしまうから。
それでも。
袖を掴む指先の熱に、私はほんの少しだけ身を預けた。
今の私にできる精一杯で、隣へ寄る。
そして。
静かに、私の名前を呼んだ。
「凛」
——次話「素直になれない夜」――次の一手が、運命を動かす。