——レオンの言葉が嬉しいほど、凛は「私なんかでいいのか」という恐怖に沈む。
夜の家は、音が少ない。
でも静かではない。
薪がはぜる小さな音。湯気が鍋の縁を撫でる音。古い木の壁が、ゆっくり息をする音。
私はその全部に、耳を尖らせてしまう。
眠ればいいのに。
目を閉じたら、あの夕暮れがまた目の裏に浮かぶから。
「……隣にいたかった。それだけだ」
声はもう、ここにはない。
それなのに胸の奥だけが、遅れて熱くなる。
嬉しい。確かに、嬉しい。
嬉しいはずなのに——その熱は、痛みに変わる。
私は膝の上で、指を組んだ。
指先が冷たい。爪の根元が白くなる。
呼吸を整えようとして、逆に浅くなる。
返事を、しなきゃ。
そう思うほど、喉が固まった。
あの人の目は、逃げなかった。
怖いほど真っ直ぐで、優しさを言い訳にしない。
だから私も、言い訳で逃げたくなかった。
でも——答えが出ない。
出ない自分が、嫌だ。
嫌なのに、どうしても止まれない。
台所の扉の向こうで、足音がした。
薄いスリッパが板を擦る、ゆっくりした音。
「凛ちゃん。起きてる?」
エルザさんの声は、火のそばみたいにあたたかい。
私は慌てて背筋を伸ばした。
もう遅いのに、叱られるわけじゃないのに。
「……はい。すみません、起こしましたか」
言いながら、自分の声が硬いのが分かる。
笑おうとして、口角だけが引きつった。
扉が少しだけ開いて、灯りが細い線になった。
エルザさんが顔を覗かせる。
白い髪をゆるく結い、肩に毛織りのショールを掛けていた。
「起こされるほど眠れてないよ。ほら、手が冷たい顔してる」
私は何も言えずに、毛布の端を握った。
握る力だけが増えて、指が痛い。
エルザさんは部屋に入って、私の隣に座った。
椅子が軋む。
その音に、胸が小さく跳ねる。
「お茶、淹れてきたの。香り、好きでしょう」
カップから立つ湯気に、乾いた薬草の匂いが混じっている。
いつも畑で嗅ぐ匂いより、丸くて甘い。
喉の奥の固まりが、少しだけほどけた。
「……ありがとうございます」
両手でカップを包むと、掌がじわりとほどける。
あたたかい。
あたたかいのに、私はまだ息が苦しい。
エルザさんは、私の顔をじっと見た。
値踏みじゃない。
作業の出来不出来を測る目でもない。
ただ、私の「今」を見ている目。
「嬉しい顔と、苦しい顔が同居してる。今日は、何があったの」
私は言葉を探した。
探して、すぐに諦めた。
見透かされている。
隠すほど、不器用に見えるだけだ。
「……嬉しいことが、ありました」
喉が鳴って、次の言葉が引っかかる。
私はカップの縁を見つめた。
液面に灯りが揺れて、目が痛くなる。
「でも……返事ができないんです」
言った瞬間、胸の奥がざわついた。
嬉しい、の後に続ける言葉として、あまりに汚い気がした。
嬉しさを汚しているのは、私だ。
エルザさんは眉を寄せない。
「うん」とだけ頷いた。
「なんで?」
責める「なんで」じゃない。
湯気みたいに柔らかいのに、逃げ道を塞ぐ「なんで」。
私は息を吸った。
吸うほど、肺の内側が痛い。
言えば、楽になる。
でも言ったら、きっと戻れない。
「……私なんかで、いいのかって」
声が小さすぎて、自分でも聞き取れないほどだった。
それでもエルザさんは、ちゃんと聞こえたみたいに頷いた。
「そう思っちゃうんだね」
優しく肯定されると、逆に怖い。
否定される準備をしていたから。
私はその準備を外されて、剥き出しのままになった。
「だって……」
言葉が続かない。
指が震えて、カップの縁が微かに鳴った。
私は、役に立つことしかしてこなかった。
役に立たない自分は、邪魔になる。
邪魔になったら、捨てられる。
捨てられる前に、もっと頑張らなきゃ。
その順番が、身体の奥に焼き付いている。
前の世界でも、そうだった。
白い光の天井。止まらない時計の針。
指先のささくれに染みる消毒液。
「お疲れ様」の声が、刃みたいに背中へ刺さる。
まだ頑張れるだろ。
まだ動けるだろ。
寝たら終わりだろ。
私は笑って頷いた。
頷ける自分が、価値だと思った。
倒れたとき、手は空だった。
守りたかったものも、好きだったものも。
最初から抱えていなかったみたいに、軽かった。
——だから。
私はこの世界で、やっと息をしたいと思った。
畑の匂いを「好き」だと思った。
火のあたたかさに、身を寄せたいと思った。
なのに、その瞬間に怖くなる。
幸せの形に触れたら、いつか必ず奪われる気がして。
奪われる前に、自分から手を離してしまう。
「私は……」
声が、喉の奥で擦れる。
「私が隣にいるって、きっとその人の迷惑で……」
言い終わる前に、エルザさんの手が私の手の上に重なった。
指の節が少しだけごつごつしている。
畑を触ってきた手だ。
それが、私の震えを包む。
「凛ちゃん」
呼ばれただけで、胸がきゅっと縮んだ。
“聖女様”じゃない。
役目じゃない。
名前の呼び方ひとつで、私はこんなに弱くなる。
エルザさんは、私の目を見た。
逃がさない。
でも、痛くない。
「迷惑かどうかは、相手が決めることだよ」
私は唇を噛んだ。
それでもまだ、奥の方が抵抗する。
相手が決めてくれても、私が受け取れない。
受け取った瞬間、自分が許せなくなる。
「……私、何も返せないです」
声が震えて、息が吸いきれない。
「何かしてあげられないのに……もらうのが、怖い」
エルザさんは、私の手をそっと引いて、両手で包み直した。
指先を温めるみたいに、ゆっくり。
「返さなくていいよ」
それは、簡単に言える言葉じゃない。
私は知っている。
“返さなくていい”と言う人ほど、見返りを求めない人ほど、私は信じられなくなる。
だって私はずっと、見返りの形でしか愛を知らなかった。
「凛ちゃん」
もう一度、名前。
「幸せになっていいんだよ」
その言葉が、胸の底へ落ちた。
落ちて、ずっとそこに沈んでいた硬い塊へ触れた。
ぱき、と。
音のない音で、何かが割れた気がした。
私は息を吸い込んだ。
吸い込んだ分だけ、目の奥が熱くなる。
こらえようとしたのに、まぶたの端から溢れた。
「……っ」
声が出ない。
喉が痛い。
胸が痛い。
痛いのに、少しだけ軽い。
涙が頬を伝って、顎へ落ちた。
毛布の上に小さな染みが増える。
自分の涙の温度が、こんなにあたたかいなんて知らなかった。
「……いいんですか」
やっと言えた言葉は、子どものみたいに頼りなかった。
私は怖かった。
許されたら、もう頑張れなくなるんじゃないかって。
頑張れなくなった私が、誰にも必要とされなくなるんじゃないかって。
エルザさんは、私の頬を指の背で拭った。
指先じゃなくて、背。
傷つけないように。
「いいの」
断言だった。
「凛ちゃんはね、もう十分やった。ここにいるだけで、ちゃんと偉い」
偉い、なんて。
そんな評価は欲しくないはずなのに。
“点数”みたいな言葉のはずなのに。
今の私は、それに縋りつきそうになる。
でも、エルザさんの目は点数をつけていない。
勝ち負けを決めていない。
ただ、そこにいていいと、置いてくれている。
私は肩を震わせて泣いた。
泣くのを止めようとして、止められなかった。
止めないでいい、と身体が初めて知ってしまった。
「ごめんなさい……」
謝罪が先に出る癖が、まだ抜けない。
エルザさんは首を横に振った。
「謝らないで。泣くのは、悪いことじゃない」
その言葉に、さらに涙が出た。
胸の内側に溜まっていたものが、湯気みたいに抜けていく。
息が、ようやく深くなる。
しばらく、私は泣いていた。
エルザさんは何も言わず、ただ手を握っていてくれた。
薪がはぜる音が、規則正しく聞こえる。
夜の匂いが、少しだけ甘くなった。
涙が落ち着いてきたころ、私は袖で頬を拭いた。
袖が湿って、冷たい。
でも、前みたいにそれが怖くなかった。
「……まだ、すぐには変われないと思います」
私は正直に言った。
「また『私なんか』って言うと思う」
エルザさんは笑った。
小さく、皺が増える笑み。
「それでいいよ。言ってもいい。ただ、戻っておいで」
戻っておいで。
その言葉は、道しるべみたいだった。
迷ってもいい。転んでもいい。
でも、帰っていい場所がある。
私はカップを置き、両手を膝の上に戻した。
指が、さっきより少しだけ素直だ。
胸の奥で、まだ怖さは残っている。
幸せを受け取ることへの、古い恐怖。
でもその怖さの隣に、別の小さなものが芽を出している。
——明日。
私は目を閉じて、息を吸った。
火の匂い。お茶の香り。木の家のぬくもり。
ここにいる私を、誰も追い出さない夜。
明日、言おう。
怖いままでもいい。
声が震えてもいい。
それでも——答える。
「……エルザさん」
呼ぶと、彼女が「なあに」と返した。
私は小さく頷いた。
自分に向けて、頷いた。
「明日、返事をします」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
幸福はまだ遠い。
でも、手を伸ばすことくらいは、許していい気がした。
明日。
レオンさんに。
——次話「大神官の追放」――ざまぁの歯車が、さらに加速する。