S02-P01 「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました

第33話: 素直になれない夜

第3アーク · 3,661文字 · draft

——レオンの言葉が嬉しいほど、凛は「私なんかでいいのか」という恐怖に沈む。

夜の家は、音が少ない。
 でも静かではない。
 薪(まき)がはぜる小さな音。湯気(ゆげ)が鍋(なべ)の縁を撫(な)でる音。古い木の壁が、ゆっくり息をする音。

私はその全部に、耳を尖(とが)らせてしまう。
 眠ればいいのに。
 目を閉じたら、あの夕暮れがまた目の裏に浮かぶから。

「……隣にいたかった。それだけだ」

声はもう、ここにはない。
 それなのに胸の奥だけが、遅れて熱くなる。
 嬉しい。確かに、嬉しい。
 嬉しいはずなのに——その熱は、痛みに変わる。

私は膝の上で、指を組んだ。
 指先が冷たい。爪の根元が白くなる。
 呼吸を整えようとして、逆に浅くなる。

返事を、しなきゃ。
 そう思うほど、喉が固まった。

あの人の目は、逃げなかった。
 怖いほど真っ直ぐで、優しさを言い訳にしない。
 だから私も、言い訳で逃げたくなかった。

でも——答えが出ない。
 出ない自分が、嫌だ。
 嫌なのに、どうしても止まれない。

台所の扉の向こうで、足音がした。
 薄いスリッパが板を擦る、ゆっくりした音。

「凛ちゃん。起きてる?」

エルザさんの声は、火のそばみたいにあたたかい。
 私は慌(あわ)てて背筋を伸ばした。
 もう遅いのに、叱られるわけじゃないのに。

「……はい。すみません、起こしましたか」
 言いながら、自分の声が硬いのが分かる。
 笑おうとして、口角だけが引きつった。

扉が少しだけ開いて、灯りが細い線になった。
 エルザさんが顔を覗(のぞ)かせる。
 白い髪をゆるく結い、肩に毛織(けお)りのショールを掛けていた。

「起こされるほど眠れてないよ。ほら、手が冷たい顔してる」

私は何も言えずに、毛布の端を握った。
 握る力だけが増えて、指が痛い。

エルザさんは部屋に入って、私の隣に座った。
 椅子が軋(きし)む。
 その音に、胸が小さく跳ねる。

「お茶、淹(い)れてきたの。香り、好きでしょう」

カップから立つ湯気に、乾いた薬草の匂いが混じっている。
 いつも畑で嗅(か)ぐ匂いより、丸くて甘い。
 喉の奥の固まりが、少しだけほどけた。

「……ありがとうございます」

両手でカップを包むと、掌(てのひら)がじわりとほどける。
 あたたかい。
 あたたかいのに、私はまだ息が苦しい。

エルザさんは、私の顔をじっと見た。
 値踏みじゃない。
 作業の出来不出来を測る目でもない。
 ただ、私の「今」を見ている目。

「嬉しい顔と、苦しい顔が同居(どうきょ)してる。今日は、何があったの」

私は言葉を探した。
 探して、すぐに諦(あきら)めた。
 見透(みす)かされている。
 隠すほど、不器用に見えるだけだ。

「……嬉しいことが、ありました」
 喉が鳴って、次の言葉が引っかかる。
 私はカップの縁を見つめた。
 液面に灯りが揺れて、目が痛くなる。

「でも……返事ができないんです」

言った瞬間、胸の奥がざわついた。
 嬉しい、の後に続ける言葉として、あまりに汚い気がした。
 嬉しさを汚しているのは、私だ。

エルザさんは眉を寄せない。
 「うん」とだけ頷(うなず)いた。

「なんで?」

責める「なんで」じゃない。
 湯気みたいに柔らかいのに、逃げ道を塞ぐ「なんで」。

私は息を吸った。
 吸うほど、肺の内側が痛い。
 言えば、楽になる。
 でも言ったら、きっと戻れない。

「……私なんかで、いいのかって」

声が小さすぎて、自分でも聞き取れないほどだった。
 それでもエルザさんは、ちゃんと聞こえたみたいに頷いた。

「そう思っちゃうんだね」

優しく肯定されると、逆に怖い。
 否定される準備をしていたから。
 私はその準備を外されて、剥(は)き出しのままになった。

「だって……」
 言葉が続かない。
 指が震えて、カップの縁が微(かす)かに鳴った。

私は、役に立つことしかしてこなかった。
 役に立たない自分は、邪魔になる。
 邪魔になったら、捨てられる。
 捨てられる前に、もっと頑張らなきゃ。

その順番が、身体の奥に焼き付いている。

前の世界でも、そうだった。
 白い光の天井。止まらない時計の針。
 指先のささくれに染みる消毒液。
 「お疲れ様」の声が、刃みたいに背中へ刺さる。

まだ頑張れるだろ。
 まだ動けるだろ。
 寝たら終わりだろ。

私は笑って頷いた。
 頷ける自分が、価値だと思った。

倒れたとき、手は空だった。
 守りたかったものも、好きだったものも。
 最初から抱えていなかったみたいに、軽かった。

——だから。

私はこの世界で、やっと息をしたいと思った。
 畑の匂いを「好き」だと思った。
 火のあたたかさに、身を寄せたいと思った。

なのに、その瞬間に怖くなる。
 幸せの形に触れたら、いつか必ず奪われる気がして。
 奪われる前に、自分から手を離してしまう。

「私は……」
 声が、喉の奥で擦れる。
 「私が隣にいるって、きっとその人の迷惑で……」

言い終わる前に、エルザさんの手が私の手の上に重なった。
 指の節が少しだけごつごつしている。
 畑を触ってきた手だ。
 それが、私の震えを包む。

「凛ちゃん」

呼ばれただけで、胸がきゅっと縮んだ。
 “聖女様”じゃない。
 役目じゃない。
 名前の呼び方ひとつで、私はこんなに弱くなる。

エルザさんは、私の目を見た。
 逃がさない。
 でも、痛くない。

「迷惑かどうかは、相手が決めることだよ」

私は唇を噛(か)んだ。
 それでもまだ、奥の方が抵抗する。
 相手が決めてくれても、私が受け取れない。
 受け取った瞬間、自分が許せなくなる。

「……私、何も返せないです」
 声が震えて、息が吸いきれない。
 「何かしてあげられないのに……もらうのが、怖い」

エルザさんは、私の手をそっと引いて、両手で包み直した。
 指先を温めるみたいに、ゆっくり。

「返さなくていいよ」

それは、簡単に言える言葉じゃない。
 私は知っている。
 “返さなくていい”と言う人ほど、見返りを求めない人ほど、私は信じられなくなる。

だって私はずっと、見返りの形でしか愛を知らなかった。

「凛ちゃん」
 もう一度、名前。
 「幸せになっていいんだよ」

その言葉が、胸の底へ落ちた。
 落ちて、ずっとそこに沈んでいた硬い塊(かたまり)へ触れた。

ぱき、と。
 音のない音で、何かが割れた気がした。

私は息を吸い込んだ。
 吸い込んだ分だけ、目の奥が熱くなる。
 こらえようとしたのに、まぶたの端から溢(あふ)れた。

「……っ」

声が出ない。
 喉が痛い。
 胸が痛い。
 痛いのに、少しだけ軽い。

涙が頬を伝って、顎(あご)へ落ちた。
 毛布の上に小さな染みが増える。
 自分の涙の温度が、こんなにあたたかいなんて知らなかった。

「……いいんですか」

やっと言えた言葉は、子どものみたいに頼りなかった。
 私は怖かった。
 許されたら、もう頑張れなくなるんじゃないかって。
 頑張れなくなった私が、誰にも必要とされなくなるんじゃないかって。

エルザさんは、私の頬を指の背で拭った。
 指先じゃなくて、背。
 傷つけないように。

「いいの」
 断言だった。
 「凛ちゃんはね、もう十分やった。ここにいるだけで、ちゃんと偉い」

偉い、なんて。
 そんな評価は欲しくないはずなのに。
 “点数”みたいな言葉のはずなのに。
 今の私は、それに縋(すが)りつきそうになる。

でも、エルザさんの目は点数をつけていない。
 勝ち負けを決めていない。
 ただ、そこにいていいと、置いてくれている。

私は肩を震わせて泣いた。
 泣くのを止めようとして、止められなかった。
 止めないでいい、と身体が初めて知ってしまった。

「ごめんなさい……」
 謝罪が先に出る癖が、まだ抜けない。

エルザさんは首を横に振った。
 「謝らないで。泣くのは、悪いことじゃない」

その言葉に、さらに涙が出た。
 胸の内側に溜(た)まっていたものが、湯気みたいに抜けていく。
 息が、ようやく深くなる。

しばらく、私は泣いていた。
 エルザさんは何も言わず、ただ手を握っていてくれた。
 薪がはぜる音が、規則正しく聞こえる。
 夜の匂いが、少しだけ甘くなった。

涙が落ち着いてきたころ、私は袖で頬を拭いた。
 袖が湿って、冷たい。
 でも、前みたいにそれが怖くなかった。

「……まだ、すぐには変われないと思います」
 私は正直に言った。
 「また『私なんか』って言うと思う」

エルザさんは笑った。
 小さく、皺(しわ)が増える笑み。
 「それでいいよ。言ってもいい。ただ、戻っておいで」

戻っておいで。
 その言葉は、道しるべみたいだった。
 迷ってもいい。転んでもいい。
 でも、帰っていい場所がある。

私はカップを置き、両手を膝の上に戻した。
 指が、さっきより少しだけ素直だ。

胸の奥で、まだ怖さは残っている。
 幸せを受け取ることへの、古い恐怖。
 でもその怖さの隣に、別の小さなものが芽を出している。

——明日。

私は目を閉じて、息を吸った。
 火の匂い。お茶の香り。木の家のぬくもり。
 ここにいる私を、誰も追い出さない夜。

明日、言おう。
 怖いままでもいい。
 声が震えてもいい。
 それでも——答える。

「……エルザさん」
 呼ぶと、彼女が「なあに」と返した。

私は小さく頷いた。
 自分に向けて、頷いた。

「明日、返事をします」

言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
 幸福はまだ遠い。
 でも、手を伸ばすことくらいは、許していい気がした。

明日。
 レオンさんに。

——次話「大神官の追放」――ざまぁの歯車が、さらに加速する。

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