S03-P01 異世界SLA99.99% ~元SEは今日も魔法インフラを落とさない~

第1話: せめて、次は定時で帰りたい

第1アーク · 4,682文字 · revised

アラートが鳴っている。

画面に叩きつけられるように表示される赤いログの洪水を、九条諒(くじょうりょう)は血走った目で追っていた。サーバールームの冷気が首筋を刺す。空調の低い唸りと、ラックに並んだ機器のファンが回る音。その無機質な和音の中に、監視システムの警告音が容赦なく割り込んでくる。

——三日目だ。

もう三日、この部屋から出ていない。正確に言えば、仮眠室で四時間だけ横になった。それを「出た」と数えるなら、だが。

「九条さん、またアラート増えてます。東日本リージョンのDNS、応答遅延が閾値超えました」

後輩の木村が端末を覗き込みながら声を上げる。声が微かに震えているのは、三日間の緊張と疲労のせいだろう。九条は責める気にはなれなかった。自分だって同じだ。

「……見えてる。さっきのBGPルートの変更が波及してるな。切り戻しの手順書、A3の棚の上から三番目」

「手順書あるんですか」

「僕が書いた。先月のヒヤリハットの後に」

木村がバインダーを引っ張り出す音を背中で聞きながら、諒はログを追い続ける。

原因の切り分けは得意だ。どこから壊れて、どこに波及して、何が連鎖しているか。それを冷静に見極めるのが、インフラSEとしての自分の取り柄だと思っている。

だが、今回は規模が違った。

基幹ネットワークの老朽化した機器がファームウェアの不具合で暴走し、経路情報を汚染した。それがBGPで伝播(でんぱ)し、複数のリージョンに波及。冗長構成が正常に機能せず、というより、ドキュメントと実際の構成が乖離していて、切り替え手順が使い物にならなかった。

ドキュメントが嘘をつく。現場のエンジニアなら誰でも知っている悪夢だ。

「九条さん、名古屋拠点から電話です。向こうもDNS引けなくなったって」

「……名古屋は佐藤さんに任せてある。手順書は共有フォルダの障害対応マニュアルv3.2。パスワードはいつもの」

「佐藤さん、さっき倒れて帰りました」

諒の指がキーボードの上で止まった。

「……倒れた?」

「過呼吸で。救急車は呼ばなくて大丈夫だったみたいですけど、奥さんが迎えに来て」

佐藤は三十二歳。子供が生まれたばかりだ。先週、デスクの上にベビー服の写真を飾っていた。

「わかった。名古屋の分も僕がやる。木村、東日本のDNSはさっきの手順書でいけるから、一人で頼む」

「え、九条さん一人で両方見るんですか?」

「一人に依存するのがリスクなのは知ってる。でも今は人がいない。それだけの話だ」

言いながら、自分の声がひどく遠くに聞こえた。


携帯が震える。画面を見る気力がなかったが、チラと目をやる。

未読メッセージ十七件。そのうち十二件は障害関連の業務連絡。三件は上司からの「進捗は?」。

残り二件は——

……見なくていい。もう、見る理由がない。

二ヶ月前に別れた彼女からのメッセージは、とうに来なくなっていた。最後に届いたのは一週間前で、「荷物取りに行きます」という事務的な一文だった。

付き合って二年。プロポーズしようと思っていた。指輪まで買った。

でも、そのプロポーズの約束をした日に、大規模障害が起きた。

「ごめん、今日は無理になった」

あの一言で、すべてが終わった。彼女は怒らなかった。怒るほどの期待も、もう残っていなかったのだと思う。

「諒くんはいつも、私より障害の方が大事だよね」

違う、と言いたかった。でも言えなかった。その日もサーバールームにいたからだ。

九条諒は、大事なものの優先順位を間違える人間だった。

自覚はあった。直す気もあった。でも直す暇がなかった。というのは言い訳で、直す暇を作らなかっただけだ。障害対応のスケジュールは組めるのに、自分の人生のスケジュールは組めない。

笑えない冗談だ。


四日目に入った。

木村は仮眠室に押し込んだ。若い体を壊させるわけにはいかない。名古屋の佐藤は復帰の見込みなし。大阪の山田は別件で動けない。

チームリーダーは自分だ。最後に残るのは、いつも自分だ。

コーヒーの空き缶が足元に転がっている。何本目かは覚えていない。コンビニの菓子パンを最後に食べたのがいつだったかも曖昧だ。

ログを追う。原因を切り分ける。手順を組み立てる。実行する。確認する。次の障害に移る。

その繰り返し。終わらない。一つ直せば別の場所が壊れる。モグラ叩きだ。

画面がぼやける。

目の焦点が合わない。左胸の奥に、鈍い痛みが走る。疲労だろう、と思った。三日も寝ていなければ当然だ。

キーボードを打つ指が、妙に冷たい。空調のせいだと思った。サーバールームは年中低温に保たれている。機械のためには最適な環境だが、人間のための場所ではない。

人間のための場所ではないところで、人間が限界を超えて働いている。

おかしな話だ、と諒は思った。

自分たちが守っているインフラは、何百万人もの日常を支えている。その通信が止まれば、病院の連絡網が落ち、物流の管理が崩れ、誰かの「普通の一日」がほんの少し壊れる。

だから止めるわけにはいかない。止めるわけには……

胸の痛みが、鳩尾(みぞおち)まで広がった。

「……っ」

息が、うまく吸えない。

椅子から立ち上がろうとして、膝が折れた。冷たい床に手をつく。タイルの感触が掌に伝わる。サーバールームの床はフリーアクセスフロアで、配線が下を通っている。そんなことを今さら考えている自分に、少しだけ笑えた。

——死ぬのかな。

意外と冷静にそう思った。障害対応中は、パニックになっても意味がない。状況を切り分けて、優先順位をつけて、できることをやる。それが鉄則だ。

だが今回の障害は、自分の体で起きている。そして復旧の手順書は、誰も書いていない。

視界が暗くなっていく。ラックのLEDが、点滅する星のように見えた。緑。橙。赤。アラートの色だ。この三日間、ずっと見続けてきた色。

ファンの音が遠くなる。

最後に頭に浮かんだのは、彼女の顔でも、家族の顔でもなかった。

——せめて、次は定時で帰りたい。

それが、九条諒の最期の願いだった。


最初に感じたのは、温かさだった。

サーバールームの冷気ではない。柔らかい、自然な温もり。陽の光の温度。

風の音がする。木の葉が揺れる乾いた音。鳥の声。遠くで誰かが話す声。聞き取れない言葉。日本語ではないのか? いや、意味はわかる。でもイントネーションが妙に古めかしい。

布の感触がある。粗い、手織りの生地。化繊ではない。肌に少しだけ引っかかる素朴な質感。

匂いがする。干し草と、土と、微かに甘い花のような。コーヒーとサーバーの埃の匂いではない。

——僕は、死んだはずだ。

意識が少しずつ輪郭を取り戻していく。死んだはずだ。サーバールームで倒れて、胸が痛くて、息ができなくなって。

なのに、息ができている。

体が軽い。三十五年分の疲労が溶けたような、妙な軽さ。

目を開ける。

木の天井が見えた。

丸太を組んだ、素朴な(はり)白漆喰(しっくい)の壁。小さな窓から差し込む午後の光が、埃の粒子を金色に照らしている。

ここは、どこだ。

体を起こそうとして、気づいた。

手が、小さい。

自分の手を目の前にかざす。三十五歳の、キーボードを叩き続けて硬くなった指ではない。細くて、柔らかくて、まだ何も握り締めていない少年の手だ。

心臓が跳ねた。

「——起きたか、リオン」

声がした。振り向くと、部屋の入り口に女性が立っていた。四十代くらいの、日に焼けた肌の女性。エプロンをした、農家のお母さん、という言葉が自然に浮かんだ。

リオン。

その名前を聞いたとき、頭の中に情報が流れ込んできた。(せき)を切ったように、この体の持ち主の記憶が流れ込んできた。十五年分の記憶が。

リオン。ルーンフェル村の農家の息子。十五歳。

剣の才能なし。魔法の適性なし。

村では「何の取り柄もない子」と言われている。

そして、九条諒の記憶も、ある。三十五年分の、サーバーとネットワークと障害対応と、守れなかった約束の日々が。

「……母さん」

声が出た。自分の声ではない。いや、今の自分の声だ。少年の、まだ変声期を過ぎて間もない声。

「顔色が悪いよ。また畑で倒れるんじゃないかと思ったら、部屋で寝てるし。飯できてるから、動けるなら来な」

女性——リオンの母親は、それだけ言って奥に引っ込んだ。

一人になった部屋で、リオンは——九条諒は——自分の手を見つめた。

転生。異世界転生。

小説やアニメの設定だと思っていた概念が、今、自分の身に起きている。サーバールームで死んで、異世界の少年として目を覚ました。

混乱するべき場面だろう。パニックになるべきだろう。

だが、三日間の障害対応を経て死んだ男の精神は、奇妙な耐性を備えていた。想定外の事態に遭遇したとき、最初にやるべきことは決まっている。

——まず、現状を把握する。

窓に近づいた。外を見る。

緑の丘陵地帯に、小さな家々が点在している。石造りと木造が混在した、中世ヨーロッパ風の……いや、それとも少し違う。家々の間を、かすかに光る線が地面に走っている。青白い、幾何学的な紋様。

リオンとしての記憶が教えてくれる。あれは水浄化の魔法陣(まほうじん)と、畑の農地管理魔法陣を繋ぐ魔力(まりょく)パスだ。この村の生活インフラを支える、基盤の一部。

それを見た瞬間、九条諒の中の何かが微かに反応した。

インフラ。

社会を支える、見えない基盤。誰も気にしないが、止まれば全てが崩れるもの。

前の世界では、それはサーバーとネットワークだった。

この世界では、魔法陣、なのか。

窓の外の光景を眺めながら、リオンは小さく息を吐いた。

「……定時で帰れる世界だといいんだけど」

答える者はいない。

遠くで鳥が鳴いている。風が麦畑を揺らしている。魔法陣の淡い光が、午後の陽射しの中でほとんど見えないほど微かに瞬いている。

穏やかな世界だった。

少なくとも——今のところは。


階下から、母親の声が聞こえた。

「早く来ないと冷めるよ!」

リオンは窓辺を離れ、部屋を出た。

ギシ、と。古い木の床が(きし)んだ。狭い階段を降りていく。足が勝手に動く。十五年間この家で暮らしてきた体の記憶が、考えるより先に正しい段を踏む。

食卓には素朴な料理が並んでいた。硬めのパン、根菜のスープ、チーズのかけら。前世のコンビニ飯とは違う、誰かが手をかけて作った食事。

「いただきます」

口をつけたスープは、温かかった。

その温度が、サーバールームの冷たい床の記憶を、少しだけ遠くに押しやった。

前の人生のことは、ゆっくり整理すればいい。今は、この温かいスープがある。この体がある。この世界がある。

死んだはずの人間に、「次」が与えられた。

なら、せめて——

「……今度こそ、定時で帰る人生にしよう」

スープの器を両手で包みながら、リオンは誰にも聞こえない声で呟いた。

母親が怪訝そうな顔をした。

「何か言ったかい?」

「いえ、美味しいなと思って」

「当たり前だよ。私が作ったんだから」

母親が笑った。諒の、いやリオンの母親が。この世界で、この体に、ちゃんと母親がいる。

その事実が、不思議と胸に沁みた。

窓の外で、魔法陣の光が、ほんの一瞬だけ強く瞬いた。

——まるで、何かを歓迎するように。

もっとも、それはただの魔力の揺らぎかもしれない。前世のSEとしての諒なら、「たまたま負荷が変動しただけだろう」と片付けるところだ。

でも今日くらいは、少しだけロマンチックに解釈してもいい気がした。


【あとがき】
過労死からの転生。サーバールームの冷気と異世界のスープの温もりの対比が、この物語の原点です。インフラSEの第二の人生、お付き合いいただければ幸いです。

文字数: 4,682