アラートが鳴っている。
画面に叩きつけられるように表示される赤いログの洪水を、九条諒は血走った目で追っていた。サーバールームの冷気が首筋を刺す。空調の低い唸りと、ラックに並んだ機器のファンが回る音。その無機質な和音の中に、監視システムの警告音が容赦なく割り込んでくる。
——三日目だ。
もう三日、この部屋から出ていない。正確に言えば、仮眠室で四時間だけ横になった。それを「出た」と数えるなら、だが。
「九条さん、またアラート増えてます。東日本リージョンのDNS、応答遅延が閾値超えました」
後輩の木村が端末を覗き込みながら声を上げる。声が微かに震えているのは、三日間の緊張と疲労のせいだろう。九条は責める気にはなれなかった。自分だって同じだ。
「……見えてる。さっきのBGPルートの変更が波及してるな。切り戻しの手順書、A3の棚の上から三番目」
「手順書あるんですか」
「僕が書いた。先月のヒヤリハットの後に」
木村がバインダーを引っ張り出す音を背中で聞きながら、諒はログを追い続ける。
原因の切り分けは得意だ。どこから壊れて、どこに波及して、何が連鎖しているか。それを冷静に見極めるのが、インフラSEとしての自分の取り柄だと思っている。
だが、今回は規模が違った。
基幹ネットワークの老朽化した機器がファームウェアの不具合で暴走し、経路情報を汚染した。それがBGPで伝播し、複数のリージョンに波及。冗長構成が正常に機能せず、というより、ドキュメントと実際の構成が乖離していて、切り替え手順が使い物にならなかった。
ドキュメントが嘘をつく。現場のエンジニアなら誰でも知っている悪夢だ。
「九条さん、名古屋拠点から電話です。向こうもDNS引けなくなったって」
「……名古屋は佐藤さんに任せてある。手順書は共有フォルダの障害対応マニュアルv3.2。パスワードはいつもの」
「佐藤さん、さっき倒れて帰りました」
諒の指がキーボードの上で止まった。
「……倒れた?」
「過呼吸で。救急車は呼ばなくて大丈夫だったみたいですけど、奥さんが迎えに来て」
佐藤は三十二歳。子供が生まれたばかりだ。先週、デスクの上にベビー服の写真を飾っていた。
「わかった。名古屋の分も僕がやる。木村、東日本のDNSはさっきの手順書でいけるから、一人で頼む」
「え、九条さん一人で両方見るんですか?」
「一人に依存するのがリスクなのは知ってる。でも今は人がいない。それだけの話だ」
言いながら、自分の声がひどく遠くに聞こえた。
携帯が震える。画面を見る気力がなかったが、チラと目をやる。
未読メッセージ十七件。そのうち十二件は障害関連の業務連絡。三件は上司からの「進捗は?」。
残り二件は——
……見なくていい。もう、見る理由がない。
二ヶ月前に別れた彼女からのメッセージは、とうに来なくなっていた。最後に届いたのは一週間前で、「荷物取りに行きます」という事務的な一文だった。
付き合って二年。プロポーズしようと思っていた。指輪まで買った。
でも、そのプロポーズの約束をした日に、大規模障害が起きた。
「ごめん、今日は無理になった」
あの一言で、すべてが終わった。彼女は怒らなかった。怒るほどの期待も、もう残っていなかったのだと思う。
「諒くんはいつも、私より障害の方が大事だよね」
違う、と言いたかった。でも言えなかった。その日もサーバールームにいたからだ。
九条諒は、大事なものの優先順位を間違える人間だった。
自覚はあった。直す気もあった。でも直す暇がなかった。というのは言い訳で、直す暇を作らなかっただけだ。障害対応のスケジュールは組めるのに、自分の人生のスケジュールは組めない。
笑えない冗談だ。
四日目に入った。
木村は仮眠室に押し込んだ。若い体を壊させるわけにはいかない。名古屋の佐藤は復帰の見込みなし。大阪の山田は別件で動けない。
チームリーダーは自分だ。最後に残るのは、いつも自分だ。
コーヒーの空き缶が足元に転がっている。何本目かは覚えていない。コンビニの菓子パンを最後に食べたのがいつだったかも曖昧だ。
ログを追う。原因を切り分ける。手順を組み立てる。実行する。確認する。次の障害に移る。
その繰り返し。終わらない。一つ直せば別の場所が壊れる。モグラ叩きだ。
画面がぼやける。
目の焦点が合わない。左胸の奥に、鈍い痛みが走る。疲労だろう、と思った。三日も寝ていなければ当然だ。
キーボードを打つ指が、妙に冷たい。空調のせいだと思った。サーバールームは年中低温に保たれている。機械のためには最適な環境だが、人間のための場所ではない。
人間のための場所ではないところで、人間が限界を超えて働いている。
おかしな話だ、と諒は思った。
自分たちが守っているインフラは、何百万人もの日常を支えている。その通信が止まれば、病院の連絡網が落ち、物流の管理が崩れ、誰かの「普通の一日」がほんの少し壊れる。
だから止めるわけにはいかない。止めるわけには……
胸の痛みが、鳩尾まで広がった。
「……っ」
息が、うまく吸えない。
椅子から立ち上がろうとして、膝が折れた。冷たい床に手をつく。タイルの感触が掌に伝わる。サーバールームの床はフリーアクセスフロアで、配線が下を通っている。そんなことを今さら考えている自分に、少しだけ笑えた。
——死ぬのかな。
意外と冷静にそう思った。障害対応中は、パニックになっても意味がない。状況を切り分けて、優先順位をつけて、できることをやる。それが鉄則だ。
だが今回の障害は、自分の体で起きている。そして復旧の手順書は、誰も書いていない。
視界が暗くなっていく。ラックのLEDが、点滅する星のように見えた。緑。橙。赤。アラートの色だ。この三日間、ずっと見続けてきた色。
ファンの音が遠くなる。
最後に頭に浮かんだのは、彼女の顔でも、家族の顔でもなかった。
——せめて、次は定時で帰りたい。
それが、九条諒の最期の願いだった。
最初に感じたのは、温かさだった。
サーバールームの冷気ではない。柔らかい、自然な温もり。陽の光の温度。
風の音がする。木の葉が揺れる乾いた音。鳥の声。遠くで誰かが話す声。聞き取れない言葉。日本語ではないのか? いや、意味はわかる。でもイントネーションが妙に古めかしい。
布の感触がある。粗い、手織りの生地。化繊ではない。肌に少しだけ引っかかる素朴な質感。
匂いがする。干し草と、土と、微かに甘い花のような。コーヒーとサーバーの埃の匂いではない。
——僕は、死んだはずだ。
意識が少しずつ輪郭を取り戻していく。死んだはずだ。サーバールームで倒れて、胸が痛くて、息ができなくなって。
なのに、息ができている。
体が軽い。三十五年分の疲労が溶けたような、妙な軽さ。
目を開ける。
木の天井が見えた。
丸太を組んだ、素朴な梁。白漆喰の壁。小さな窓から差し込む午後の光が、埃の粒子を金色に照らしている。
ここは、どこだ。
体を起こそうとして、気づいた。
手が、小さい。
自分の手を目の前にかざす。三十五歳の、キーボードを叩き続けて硬くなった指ではない。細くて、柔らかくて、まだ何も握り締めていない少年の手だ。
心臓が跳ねた。
「——起きたか、リオン」
声がした。振り向くと、部屋の入り口に女性が立っていた。四十代くらいの、日に焼けた肌の女性。エプロンをした、農家のお母さん、という言葉が自然に浮かんだ。
リオン。
その名前を聞いたとき、頭の中に情報が流れ込んできた。堰を切ったように、この体の持ち主の記憶が流れ込んできた。十五年分の記憶が。
リオン。ルーンフェル村の農家の息子。十五歳。
剣の才能なし。魔法の適性なし。
村では「何の取り柄もない子」と言われている。
そして、九条諒の記憶も、ある。三十五年分の、サーバーとネットワークと障害対応と、守れなかった約束の日々が。
「……母さん」
声が出た。自分の声ではない。いや、今の自分の声だ。少年の、まだ変声期を過ぎて間もない声。
「顔色が悪いよ。また畑で倒れるんじゃないかと思ったら、部屋で寝てるし。飯できてるから、動けるなら来な」
女性——リオンの母親は、それだけ言って奥に引っ込んだ。
一人になった部屋で、リオンは——九条諒は——自分の手を見つめた。
転生。異世界転生。
小説やアニメの設定だと思っていた概念が、今、自分の身に起きている。サーバールームで死んで、異世界の少年として目を覚ました。
混乱するべき場面だろう。パニックになるべきだろう。
だが、三日間の障害対応を経て死んだ男の精神は、奇妙な耐性を備えていた。想定外の事態に遭遇したとき、最初にやるべきことは決まっている。
——まず、現状を把握する。
窓に近づいた。外を見る。
緑の丘陵地帯に、小さな家々が点在している。石造りと木造が混在した、中世ヨーロッパ風の……いや、それとも少し違う。家々の間を、かすかに光る線が地面に走っている。青白い、幾何学的な紋様。
リオンとしての記憶が教えてくれる。あれは水浄化の魔法陣と、畑の農地管理魔法陣を繋ぐ魔力パスだ。この村の生活インフラを支える、基盤の一部。
それを見た瞬間、九条諒の中の何かが微かに反応した。
インフラ。
社会を支える、見えない基盤。誰も気にしないが、止まれば全てが崩れるもの。
前の世界では、それはサーバーとネットワークだった。
この世界では、魔法陣、なのか。
窓の外の光景を眺めながら、リオンは小さく息を吐いた。
「……定時で帰れる世界だといいんだけど」
答える者はいない。
遠くで鳥が鳴いている。風が麦畑を揺らしている。魔法陣の淡い光が、午後の陽射しの中でほとんど見えないほど微かに瞬いている。
穏やかな世界だった。
少なくとも——今のところは。
階下から、母親の声が聞こえた。
「早く来ないと冷めるよ!」
リオンは窓辺を離れ、部屋を出た。
ギシ、と。古い木の床が軋んだ。狭い階段を降りていく。足が勝手に動く。十五年間この家で暮らしてきた体の記憶が、考えるより先に正しい段を踏む。
食卓には素朴な料理が並んでいた。硬めのパン、根菜のスープ、チーズのかけら。前世のコンビニ飯とは違う、誰かが手をかけて作った食事。
「いただきます」
口をつけたスープは、温かかった。
その温度が、サーバールームの冷たい床の記憶を、少しだけ遠くに押しやった。
前の人生のことは、ゆっくり整理すればいい。今は、この温かいスープがある。この体がある。この世界がある。
死んだはずの人間に、「次」が与えられた。
なら、せめて——
「……今度こそ、定時で帰る人生にしよう」
スープの器を両手で包みながら、リオンは誰にも聞こえない声で呟いた。
母親が怪訝そうな顔をした。
「何か言ったかい?」
「いえ、美味しいなと思って」
「当たり前だよ。私が作ったんだから」
母親が笑った。諒の、いやリオンの母親が。この世界で、この体に、ちゃんと母親がいる。
その事実が、不思議と胸に沁みた。
窓の外で、魔法陣の光が、ほんの一瞬だけ強く瞬いた。
——まるで、何かを歓迎するように。
もっとも、それはただの魔力の揺らぎかもしれない。前世のSEとしての諒なら、「たまたま負荷が変動しただけだろう」と片付けるところだ。
でも今日くらいは、少しだけロマンチックに解釈してもいい気がした。
【あとがき】
過労死からの転生。サーバールームの冷気と異世界のスープの温もりの対比が、この物語の原点です。インフラSEの第二の人生、お付き合いいただければ幸いです。