辺境の空は、どこまでも広い。
リオンは丘の上に腰を下ろし、眼下に広がる風景を眺めていた。ルーンフェル村から始まって、近隣の四つの村を巡ったのがこの二ヶ月間。どの村でも魔法陣を診断し、直せるものは直し、応急処置が必要なものには手を打ってきた。
そして今日、最後の村、麦畑が広がるハーゼル村での作業を終えて、帰路についたところだった。
「……まとめるか」
リオンは背負い鞄から巻物を取り出した。前世の習慣で、訪問先ごとに所見を書き留めている。巻物には村の名前と、診断結果と、対応内容が並んでいる。前世ならExcelで管理していたところだが、この世界では羊皮紙とインクだ。
広げて、一覧する。
ルーンフェル村。水浄化魔法陣と農地魔法陣の魔力パス干渉。設定分離で解決済み。防壁魔法陣はシングル構成のまま、予算不足で冗長化見送り。管理者なし。
カーレン村。灯火魔法陣の出力低下。刻印の摩耗が原因。応急で再刻印したが、根本的には石板ごと交換が必要。前任の魔術師は三年前に亡くなり、後継者なし。
ブラント村。通信魔法陣の遅延。中継ノードの過負荷。トラフィックの分散が必要だが、そもそも中継の仕組みを理解している人間がいない。「昔からこうだ」で放置。
ミルデ村。農地魔法陣の異常動作。土壌管理の設定値が季節に合っていない。本来は時期ごとにパラメータを調整するものだが、手順が伝承されていない。「じいさんがやっていたが、死んだ」。
ハーゼル村。防壁魔法陣と農地魔法陣の同時運用で魔力が枯渇する問題。魔力供給の配分設計にそもそも無理がある。誰が設計したのかも不明。「古代からこうなっている」。
五つの村。五つの障害。
リオンは巻物を膝の上に置き、空を見上げた。
「……全部、同じだ」
どの村にも共通している問題。それは。
ドキュメントがない。
属人化している。
老朽化が進んでいる。
そして、誰もそれを問題だと思っていない。
「動いているから大丈夫」。
「壊れたら直せばいい」。
「昔からこうだ」。
前世でも、何百回と聞いたセリフだった。
「前の世界では、これを『技術的負債』って呼んでたんだよな……」
目を瞑ると、前世のオフィスが浮かぶ。深夜のサーバールーム。山積みのチケット。「なんで今まで放置してたんですか」と聞いても、返ってくるのは「動いてたから」。
この世界も、まったく同じだ。
古代魔術師が作ったインフラの上に、文明が乗っかっている。でも作った人はもういない。設計書もない。保守の手順も伝わっていない。
かろうじて動いているだけ。
そして、かろうじて動いているものはいつか必ず止まる。
リオンは巻物を巻き直し、鞄にしまった。
丘の上から見渡すと、遠くに各村の屋根が点々と見える。煙突から夕餉の煙が立ち上り、畑では農夫たちが帰り支度をしている。穏やかな風景だ。
でもリオンには、その風景の「裏側」が見えていた。
地中を走る魔力パス。村と村を繋ぐ魔法陣のネットワーク。軋み、劣化し、干渉し合いながら、なんとか動き続けているインフラ。
「一人じゃ、無理だな」
呟きは、風に消えた。
五つの村を回っただけで二ヶ月。診断はできる。原因の切り分けもできる。でも修復作業は一人では限界がある。刻印の再刻には精密な道具が要る。魔力パスの再配線には魔術の知識が要る。
おまけに、ヘルム集落の防壁新規構築まで引き受けてしまった。壊れた部品からのゼロベース組み上げ——あの案件だけでも、一人では何週間かかるかわからない。
そして何より自分一人で全部やっていたら、また前世と同じになる。
終わらない障害対応。
増え続けるチケット。
鳴り止まない呼び出し。
気づいたらサーバールームで倒れている。
「……それだけは、勘弁してほしい」
リオンは膝を抱え、額を乗せた。
前世の九条諒は、一人で抱え込んだ。チームリーダーなのに、部下に任せられなかった。「自分がやったほうが早い」。その判断が、属人化を生み、過労を生み、最後には自分を殺した。
同じ轍を踏むわけにはいかない。
考えを整理しよう。
リオンは鞄から新しい巻物を取り出し、地面に広げた。前世の癖で、問題を書き出すと頭がまとまる。
まず、辺境の魔法インフラが抱える問題。
一、保守運用の担い手がいない。魔術師は「新しい魔法を研究する」ことに興味があっても、「既存の魔法陣を維持する」ことには興味がない。前世でいう「開発はやりたいが運用はやりたくない」問題。
二、道具が足りない。魔法陣の刻印を修復するには、専用の工具と素材が必要だ。村の鍛冶屋では精度が足りない。王都から取り寄せると時間も金もかかる。
三、仕組みがない。定期点検の制度もなければ、障害時の連絡体制もない。壊れてから慌てる。毎回がインシデント対応だ。
四、知識が残らない。手順書も引き継ぎもない。一人が倒れれば、その村のインフラは誰も面倒を見られなくなる。
書き出してみると、ため息が出た。
前世の中小企業のIT部門とまったく同じ構図だ。
「……でも、逆に言えば」
リオンはペンを止めた。
前世では解決策を知っていた。実践する暇がなかっただけで。
チームを作る。役割を分担する。手順書を整備する。定期メンテナンスの仕組みを作る。ナレッジを共有する。一人に依存しない体制を築く。
前世でやりたくてもできなかったことを、この世界でやればいい。
チーム。
その言葉が頭の中で回り始めた。
リオン一人では、診断はできても修復は追いつかない。必要な人材は明確だ。
まず、魔術師。魔法陣の構造を理解し、魔力の操作ができる人間。理論よりも実践。学院で教わる「正しい魔法の使い方」ではなく、現場で手を動かせる感覚派が望ましい。
次に、職人。刻印の修復、工具の製作、素材の加工ができる鍛冶師か魔道具師。図面を読めて、精密な作業ができる人間。
そして——人と仕事を繋ぐ人間。依頼の受付、スケジュール管理、資材の調達、村との交渉。前世でいうプロジェクトマネージャーか営業。技術がわからなくても、仕事を回せる人。
三人。最低でも三人。
「工房が要るな」
拠点も必要だ。道具を置く場所、資材を保管する場所、作業する場所。ルーンフェル村の外れに、使われていない小屋があったはず。あそこを借りられれば——。
リオンは、気づけば巻物の余白に間取り図を描いていた。診断室、作業場、資材庫、資料室。前世のオフィスレイアウトを思い出しながら。
そしてふと、手を止めた。
自分がまた、前のめりになっている。
「……落ち着け」
深呼吸する。
焦るな。急ぐな。一気にやろうとするな。
前世の二の舞になるのは、こういうときだ。やるべきことが見えた瞬間に突っ走って、気づいたら一人で全部抱え込んでいる。
ペースを守れ。
まず仲間を見つけろ。
一人でやるな。
丘を下りて、村への道を歩いていると、荷馬車が追い越していった。御者台に座っていたのは、行商人のおじさんだ。時々ルーンフェル村に日用品を届けに来る。
「おう、リオンじゃないか。また遠出か?」
「ええ、ハーゼル村まで。魔法陣の診断です」
「はは、お前さんも忙しいな。最近どこの村でも名前を聞くぞ」
「……それ、あまり嬉しくないんですけど」
忙しいのは前世だけで十分だ。
「そういえば」
行商人は荷台に積んだ樽を叩きながら、思い出したように言った。
「鍛冶ギルドを破門になった腕利きの職人がいるって聞いたことあるか? ドルクっていう男。ギルドの親方と喧嘩して飛び出したらしいが、腕は確からしい。今はどこかの町外れで一人で鍛冶場を構えてるとか」
「鍛冶ギルドを破門……?」
「ああ。なんでも『図面も引かずに勘で打つな』とか親方にくってかかったとかで。頑固者だが、あの男が打った金具は十年使っても歪まないと評判だぞ」
図面を引く鍛冶師。
リオンの頭の中で、何かが引っかかった。
「……その人、今どこにいるか知ってます?」
「さあな。リグレットの町あたりじゃないか? 詳しくは知らんが」
行商人は手を振って去っていった。
リオンは立ち止まり、今の情報を反芻した。
図面を引く職人。ギルドの慣習に逆らってでも、正しい手順を重視する人間。
それは——リオンが求めている人材像に、かなり近い。
ルーンフェル村に戻ると、日はすっかり暮れていた。
村長の家に報告に行くと、村長は囲炉裏端で茶を飲んでいた。
「おう、リオン。ハーゼルはどうだった」
「防壁と農地の魔力配分に問題がありました。応急処置はしましたが、根本的には設計の見直しが必要です」
「ふむ……」
村長は茶を啜り、しばらく黙った。
「お前さん、一人で大丈夫か? 最近、顔色が悪いぞ」
「……自覚はあります」
嘘は言えなかった。二ヶ月間、五つの村を回って、休みらしい休みを取っていない。前世の悪い癖が顔を出し始めている。
「実は、村長にお願いがあるんですが」
「なんだ」
リオンは居住まいを正した。
「村の外れにある空き小屋、使わせてもらえませんか。工房を作りたいんです」
「工房? お前さんが?」
「はい。魔法陣の保守運用を、もっとちゃんとやる仕組みを作りたい。そのための拠点が必要です」
村長は眉を上げた。
「一人でやるのか?」
「いえ」
リオンは、はっきりと言った。
「仲間を集めます。僕一人じゃ無理です。手を動かせる魔術師と、道具を作れる職人と、仕事を回せる人。最低でも三人。チームを作ります」
村長はしばらくリオンの顔を見つめていた。
「……お前さんの目、最近変わったな」
「変わりました?」
「ああ。最初に水浄化魔法陣を直したときは、『頼まれたから直しただけ』って顔をしてた。今は——なんというか、覚悟が決まった目だ」
リオンは苦笑した。覚悟というか、諦めに近い。やらなければ、この辺境のインフラはいつか落ちる。落ちれば人が困る。困っている人を見て見ぬふりができるほど、僕は器用じゃない。
「小屋は好きに使え。どうせ誰も使っとらん。修繕は自分でやれよ」
「ありがとうございます」
村長の家を辞して、夜道を歩く。
見上げれば、星が降るようだった。前世では、ビルの谷間から見上げても星なんて見えなかった。
ふと、村の酒場の前を通りかかったとき、中から声が漏れてきた。
「——魔術学院を落第した娘がいるらしいぞ」
「ああ、エルナとかいう子だろ? 筆記試験がまるでダメで退学になったが、実技だけは教官が舌を巻いたとか」
「感覚で魔法を使うタイプか。学院じゃ評価されんわな」
「今は実家に戻ってるらしい。もったいない話だ」
リオンは足を止めた。
学院の筆記は壊滅的。でも実技は抜群。
理論より実践。感覚派の魔術師。
また、頭の中で何かが噛み合った。
魔法陣の保守運用に必要なのは、学術論文を書ける魔術師じゃない。現場で手を動かし、魔力を繊細に操作できる人間だ。理論は後から教えればいい。感覚は、教えて身につくものじゃない。
「……覚えておこう」
リオンは酒場を通り過ぎ、さらに歩いた。
自宅に戻り、机に向かう。
蝋燭の火が揺れる中、リオンは巻物を広げた。
今日一日で得た情報を整理する。
鍛冶ギルドを抜けた腕利きの職人、ドルク。手順と図面を重んじる男。
魔術学院を落第した感覚派の魔術師、エルナ。実技は折り紙付き。
あと一人。仕事を回せる人間。
リオンが巻物にペンを走らせていると、ふと思い出した。先日、カーレン村で魔法陣を修理したとき、村人が言っていた。
「あの村の商人の娘さん、すごいぞ。十三で帳簿をつけ始めて、父親の店の売上を倍にしたとか。ミーナっていう子だ。商才があるっていうか、数字に強いっていうか……」
帳簿がつけられて、交渉ができて、数字に強い。
技術はわからなくても、仕事を回せる人間。
パズルのピースが、少しずつ揃い始めている。
リオンは巻物から顔を上げ、窓の外を見た。
星空の下、村は静まり返っている。
前世の僕は、チームを作ることに失敗した。
そう、思った。
九条諒はチームリーダーだった。部下がいた。でも本当の意味でチームを作れなかった。「自分がやったほうが早い」と仕事を抱え込み、部下には雑務だけを振り、ナレッジは自分の頭の中にしか残さなかった。
その結果が——過労死だ。
リオンになった今、もう一度チャンスがある。
今度こそ、ちゃんとチームを作る。
一人に依存しない。
手順書を書く。ナレッジを共有する。役割を分担する。
全員が同じ情報を持ち、誰が抜けても回る体制を作る。
前世でできなかったことを——この世界でやる。
「この世界にも運用保守が必要だ」
口に出すと、不思議と腹が据わった。
戦う力はない。華やかな魔法も使えない。
でも——インフラを守る仕事は、誰かがやらなければならない。
前世では、それを「地味で報われない仕事」だと思っていた。
でも今は違う。
水が出ること。畑が実ること。明かりが灯ること。防壁が村を守ること。
それを当たり前に維持する仕事は——この世界を支える仕事だ。
リオンは巻物を丸め、蝋燭を吹き消した。
明日から動こう。
まずは工房の小屋を見に行く。修繕の計画を立てる。
そしてドルクという鍛冶師の居場所を探す。エルナという魔術師の情報を集める。ミーナという商人の娘について聞いてみる。
やることは山ほどある。でも——焦るな。
「定時で帰るために、まずは仕組みを作る」
リオンは布団に潜り込みながら、小さく笑った。
前世の自分に伝えたい。
九条諒。お前が本当にやりたかったのは、こういうことだったんじゃないか。
障害を一人で直すことじゃない。
障害が起きない仕組みを作ること。
第二の人生で、ようやく出発点に立てた気がした。
翌朝。
リオンは村の外れに立ち、古い小屋を見上げていた。
壁は所々崩れ、屋根には穴が開いている。雑草が腰の高さまで伸びている。
「……これ、まずインフラの前に建物の修繕が必要だな」
呟いて、苦笑する。
でも——悪くない。ゼロからのスタートだ。
前世は、すでに壊れかけたシステムの上で走り続けるしかなかった。
今度は、自分で基盤から作れる。
リオンは腕まくりをして、雑草を掻き分けながら小屋に足を踏み入れた。
窓から差し込む朝日が、埃だらけの床を照らしている。
ここが——新しい始まりの場所だ。
辺境の、小さな工房。
ここから、この世界の運用保守が始まる。
リオンは深く息を吸い、頷いた。
「さて——まずは掃除からだな」
【あとがき】
第1アークの締めくくり。五つの村を回って見えた課題は、前世の中小企業IT部門そのもの。工房設立と仲間集め、第2アークへの橋渡しとなる回です。