朝日が差し込む前に、リオンはもう小屋の前に立っていた。
村の外れ。雑草に埋もれた石壁の小屋。屋根の端が崩れ、扉は蝶番が外れて傾いている。昨日の夕方に村長から使用許可をもらったばかりだが、夜明け前に目が覚めてしまった。
前世の癖だ。新しいプロジェクトが始まると眠れなくなる。
「……まずは現状把握から」
小屋の周囲を一周する。壁はところどころ石が抜けているが、構造自体は頑丈だ。屋根材の一部が腐っている。床は土間。窓は二つ。元は倉庫だったらしく、内部は広い。
前世のインフラ点検と同じ要領で、状態を巻物に書き出していく。
修繕箇所。屋根の補修。壁の穴埋め。扉の付け替え。窓枠の取り付け。床の整地。
必要な人手。一人では、かなりきつい。
「インフラの前にインフラか」
まるで、データセンターの建屋工事から始めるような話だ。
雑草を刈り始めて一時間ほど経った頃、背後から声がした。
「おう、もう始めとるのか」
振り返ると、村長のグラムが朝靄の中を歩いてくるところだった。白髪交じりの髪に日焼けした顔。手には大きな木箱を抱えている。
「村長。おはようございます」
「おはようさん。ほれ、差し入れだ」
木箱の中にはパンとチーズ、干し肉、水筒。
「まだ飯も食っとらんだろう」
「……すみません。つい」
「お前さんは放っておくと飯も食わずに働く」
パンをかじりながら、リオンは改装の計画を説明した。
「この小屋を工房にします。診断室と作業場、あと資材を保管する場所」
「ほう。本気だな」
「はい。ただ、一つ、最初に決めておきたいことがあるんです」
「なんだ」
「この工房は、夜は閉めます」
グラムが目を瞬いた。
「夜……閉める?」
「はい。依頼の受付は日の出から日没まで。夜間の対応はしません」
村長は、しばらくリオンの顔を見ていた。
「……なぜだ? 魔法陣の障害は夜にも起きるだろう」
「起きます」
リオンは頷いた。そして少しだけ、遠い目をした。
「前にいた場所では、僕は昼も夜も関係なく働いていました。呼び出されたら真夜中でも飛んでいく。休日も関係ない。二十四の刻、三百六十五日。ずっと」
グラムは黙って聞いていた。
「最初は使命感でした。自分がやらなきゃ止まる。だからいつでも対応する。それが正しいと思ってた」
前世の記憶がよぎる。
深夜二時の電話。サーバールームの冷気。三日目の徹夜。「九条、また障害だ」。「九条、週末だけど出られるか」。
——九条。九条。九条。
ある冬の夜、意識が途切れた。
「でも、人間は壊れるんです。体も、心も」
リオンは顔を上げた。
「今度は壊れる前に、ルールを決めます。夜は休む。緊急時の対応基準も、ちゃんと決める」
グラムは腕を組んで、じっとリオンを見ていた。
それから、ふっと表情を緩めた。
「お前さんは、まだ十五だぞ。十五の小僧が、そんな顔で働き方を語るもんじゃない」
グラムは笑った。でも、目は笑っていなかった。
「……だが、わしもな。若い頃に無理をして体を壊した口だ。毎日夜明けから夜更けまで畑を耕して、ぎっくり腰で三日寝込んだ。畑は誰も見なかった。三日で麦が一区画やられた」
グラムは空を見上げた。
「一人で全部やろうとすると、倒れたとき全部止まる。お前さんの言う通りだよ」
「……はい」
「夜閉めたきゃ閉めろ。わしが村の連中には言っておく」
リオンは、深く頭を下げた。
午前中いっぱい、小屋の中の残置物を運び出した。
壊れた農具、腐った木材、正体不明の壺。前の持ち主が残していったガラクタが山のように出てくる。前世の感覚でいえば、データセンターに放置された旧サーバーの撤去作業だ。
汗だくになって三往復した頃、入口に影が差した。
「……何をやっとるんじゃ」
ゴルドだった。白髪に鋭い目。煤だらけのエプロン。太い腕を組んで、小屋の中を不審そうに見回している。
「ゴルドさん。工房を作ろうと思って」
「工房じゃと? お前さんが?」
「魔法陣の保守運用の拠点です。診断と修理の依頼を受けて、計画的にメンテナンスしていく場所です」
ゴルドはしばらく無言で小屋を見回し、壁の石積みを叩き、天井を見上げた。小さく鼻を鳴らす。
「この屋根じゃ、次の雨で水浸しじゃ」
「ですよね……」
「壁の目地も甘い。冬には隙間風が入る。床が土間のままでは、精密な道具は錆びるぞ」
リオンは項垂れた。わかってはいたが、専門家に指摘されると堪える。
「……ゴルドさん、助言いただけませんか」
「わしは鍛冶師じゃ。大工ではない」
「でも、建物の構造はわかりますよね」
ゴルドはぶすっとした顔のまま、小屋の周囲をもう一周した。壁を叩き、柱を揺らし、基礎の石を蹴る。
「基礎はしっかりしとる。壁も石積みの核はまだ生きとる。屋根を葺き直して、目地を詰め直せば使えんことはない」
それから腰に差した巻尺を取り出した。
「屋根の寸法を測るぞ。突っ立っとらんで手伝え」
「え——あ、はい!」
ゴルドは不機嫌そうな顔のまま、手は正確に動いていた。壁の幅、天井の高さ、窓の位置。数値を読み上げ、リオンが巻物に書き取る。前世でいうサイトサーベイだ。
「ここが入口。南側に作業場。北側に資材庫。東の角に診断室を置け。窓一つで、暗くできるようにしろ。お前さんの診断は暗いほうが見えやすいじゃろう」
「え、なんでそれ知ってるんですか」
「見ればわかる。お前さん、診断するとき毎回光源を嫌がっておったじゃろうが」
さすがに五十年、現場を見てきた人間は違う。リオンが言語化できていなかった要件を、ゴルドは一瞬で見抜いた。
ゴルドは巻物を突き返した。
「言っておくが、わしは手伝わんぞ。助言はした。あとは自分でやれ」
背を向けて三歩歩いてから、振り返らずに言った。
「……屋根材は、わしの鍛冶場の裏に余りがある。勝手に持っていけ」
「——! ありがとうございます!」
「礼を言うな。邪魔だから片付けたかっただけじゃ」
午後。
トマスがやってきたのは、リオンが一人で屋根に登ろうとして梯子を滑らせた直後だった。
「リオン! 何やってるんだ! 一人でやる気か?」
「ああ、トマスさん。屋根の修繕を」
「待ってろ。着替えてくる」
十分後、作業着に着替えて戻ってきたトマスが梯子を支え、リオンが屋根に登る。腐った屋根材を剥がし、ゴルドの鍛冶場から運んできた板材を打ちつけていく。
リオンの腕は細く、金槌を振るたびに釘が曲がる。
「リオン、打ち方が違う。手首をこう」
「こ、こう?」
「もっとまっすぐ! お前、本当に体使う作業が苦手だな」
「……否定できない」
二人で作業を続けながら、トマスが聞いた。
「で、この工房、どういうルールでやるんだ? ゴルドのじいさんみたいに、何かあったら夜中でも飛んでくのか?」
リオンは屋根の上で手を止めた。
「……逆だよ。夜は対応しない。依頼は日中のみ」
トマスは目を丸くした。
「えっ。でも、夜に魔法陣が止まったらどうするんだ?」
「止まる前に手を打つ。定期メンテナンスで異常を検知して、壊れる前に直す。前にいた場所では、これを『予防保全』って呼んでた」
リオンは空を見上げた。
「それでも想定外は起きる。でも、想定外を減らす努力はできる。その努力をしないで夜中の呼び出しに耐えるのは——ただの根性論だ」
トマスは屋根の上からルーンフェル村を見下ろした。畑が広がり、煙突から煙が上がっている。
「リオン。お前さ、前にも言ってたよな。『暇なのが最高だ』って」
「うん。運用は、暇なのが一番いい。何も起きないのが理想なんだ」
「……変なやつ」
トマスは笑った。でも、否定はしなかった。
日が傾き始めた頃、作業の手を止めた。
「今日はここまでにしよう」
トマスは意外そうな顔をした。
「まだ明るいぞ?」
「疲れた状態で作業すると、精度が落ちる。精度が落ちると手戻りが増える。結局トータルの工数が増える。だから——疲れる前にやめる」
「……前にいた場所で学んだことか」
「身をもって、ね」
トマスは手を振って帰っていった。
一人になった小屋で、リオンはゴルドの間取り図を広げた。入口の横に掲示板を作ろう。工房のルールを書いて貼る場所だ。
巻物に文字を書く。
一、依頼受付は日の出から日没まで。
二、夜間の呼び出しには対応しない。
三、緊急対応が必要な場合は、翌朝一番で対処する。
四、定期メンテナンスを優先する。壊れる前に直す。
五、作業記録を必ず残す。
五箇条。前世では、こんなルールを掲げる余裕すらなかった。「サービスレベル? 24時間365日に決まってるだろ」。それが当たり前の世界だった。
「——前世の僕への手紙、みたいなもんだな」
九条諒が作れなかったルールを、リオンが作る。前世の二の舞だけは、絶対に御免だ。
翌日から、改装は着々と進んだ。
トマスが午前中だけ手伝いに来てくれた。ゴルドは「手伝わん」と言ったくせに、二日目の朝に扉用の蝶番を黙って置いていった。三日目には窓枠の金具。四日目、リオンが出かけている間に壁の目地が半分ほど塞がっていた。
「……ゴルドさん、手伝わないって言ってましたよね?」
「通りすがりに気になっただけじゃ」
トマスが堪えきれずに吹き出した。
五日目。屋根は完全に葺き替えられ、壁の穴は塞がり、新しい扉が取り付けられた。まだ中は空っぽだが、建物としてはもう立派に使える。
六日目の朝。
リオンは工房の入口に、木の看板を打ちつけた。
ゴルドに「字が汚い」と言われたので、トマスに代筆を頼んだ。トマスの字は、農家の青年にしては意外なほど丁寧だった。
——
魔法陣保守工房
依頼受付:日の出より日没まで
夜間対応:致しかねます
定時退勤推奨
——
村長のグラムが、朝の散歩がてら見に来た。
「ほう……『夜間対応、致しかねます』か。変わった工房だな」
「変わってますか?」
「鍛冶ギルドの工房は『いつでも承ります』と書いてあるぞ」
「いつでも承った結果、職人が疲弊して品質が落ちるんです。疲れた人間が魔法陣を触るのは、危険です」
グラムはゆっくりと頷いた。
「道理だな。好きにやれ。——そうだ、この工房、名前はあるのか?」
「名前……まだ決めてません」
「決めておけ。『リオンの小屋』じゃ格好がつかん」
グラムは笑いながら去っていった。
午後、ゴルドがふらりと現れた。
完成した工房の中を見回し、壁を叩き、床を踏み、天井を見上げる。
「……まあ、住めるようにはなったな」
「ゴルドさんのおかげです。蝶番も金具も」
「わしはやっとらん」
リオンはもう突っ込まないことにした。
ゴルドは入口の看板の前で足を止めた。
「……『夜間対応、致しかねます』。甘いことを言うな。魔法陣が夜中に止まったらどうする」
「壊れる前に定期メンテで対処します」
「理想論じゃな」
「理想を目指さなければ、いつまでも夜中に叩き起こされますよ。ゴルドさんも、五十年ずっとそうだったんじゃないですか?」
ゴルドが、一瞬だけ黙った。
「僕は——ゴルドさんと同じ働き方はしたくないんです。尊敬はしてます。五十年、一人で村のインフラを守り続けたことは、すごいことだ。でも——それは、ゴルドさんの人生を犠牲にした上で成り立っていた。違いますか」
ゴルドの顔が強張った。怒るかと思った。
だがゴルドは怒らなかった。
「……小生意気な小僧じゃ」
それだけ言って、工房を出ていった。振り返りもしなかった。
でもリオンには、その背中が怒っているようには見えなかった。
夕暮れ。
工房の前に立ち、リオンは完成した看板を見上げた。
前世の九条諒が見たら、何と言うだろう。
「甘い」と笑うだろうか。「俺にもそれを言ってくれ」と泣くだろうか。
「……ここから始めよう」
リオンは工房の扉を閉めた。新しい蝶番が、軽い音を立てた。
明日からは、仲間を探しに行く。鍛冶ギルドを抜けた職人、ドルク。魔術学院を落第した魔術師、エルナ。商才ある商人の娘、ミーナ。
でも——今日は、ここまで。
日はもう沈んだ。工房のルールに従って、今日の作業は終わりだ。
リオンは帰り道、ふと足を止めて振り返った。
夕闇の中に佇む小さな工房。入口の看板が、最後の残照を受けて薄く光っている。
『夜間対応:致しかねます』
前世で自分に言えなかった言葉を、看板に刻んだ。
それだけで——今日は十分だった。
【あとがき】
前世で言えなかった「夜は休む」を看板に刻む話。自分を守るルールを最初に決める勇気が、工房の土台になっていきます。