リグレットの町は、ルーンフェル村から馬車で半日ほどの距離にあった。
辺境にしては栄えている。石畳の通りに商店が並び、市場には近隣の村から集まった農産物が積み上げられている。
リオンの隣を歩くエルナが、物珍しそうにきょろきょろと首を回した。
「リオンさん、今日は何をしに来たんですか?」
「人を探しに。ドルクっていう鍛冶師が、町外れで一人で鍛冶場をやってるらしい」
エルナが小首を傾げた。
「鍛冶師……魔法陣の修復に?」
「エルナ。先日の農地魔法陣の応急処置で、一番大変だったのは?」
「……刻印の精度です。魔力の調整は私がやれますけど、物理的な彫り直しは」
「そう。僕の【診断】で原因を見つけて、エルナの魔力操作で調整はできる。でも物理パーツの加工が追いつかない」
刻印を刻んだ石板や金属板、魔力を通す導管——それを精密に加工できる職人がいなければ、本格的な修復はできないのだ。
「鍛冶ギルドを破門になった変わり者で、打った金具は十年使っても歪まないとか」
「破門……なぜです?」
「『図面も引かずに勘で打つな』って親方に楯突いたらしい」
エルナが目を丸くした。図面を重視して破門。前世でも似た光景を見た。「ドキュメントなんか書くな、先輩の背中を見て覚えろ」。そういう職場は、先輩が辞めた瞬間に崩壊する。
町外れまで歩くと、鍛冶場はすぐに見つかった。
見つかったというか——聞こえた。規則的で重い槌音が、一定のリズムで空気を震わせている。迷いのない音だ。
石造りの小さな鍛冶場。看板はなく、入口の扉は開け放たれている。中を覗くと、炉の前に大柄な男が立っていた。
短い灰色の髪。がっしりとした体格。両腕には無数の火傷の痕。
「……あの、すみません」
リオンが声をかけても返事がない。エルナが袖を引くが、リオンは首を振った。聞こえている。区切りがいいところまで止める気がないのだ。
前世にもいた。コードを書いている最中に話しかけると、関数の終わりまで絶対にキーボードから手を離さないプログラマー。
三分ほど待った。最後の一打が響き、男が金属を水桶に突っ込んだ。ジュウ、と蒸気が上がる。
「……何の用だ」
低い声。振り返った男——ドルクの目に敵意はなかった。ただ、面倒くさそうだった。
「リオンと言います。ルーンフェル村で魔法陣の保守運用をしています。工房を立ち上げたんですが、刻印板や導管を精密加工できる職人を探していて——一緒に仕事をしませんか」
「断る」
即答だった。ドルクは炉に向き直り、新しい金属を火にくべた。
「理由を聞いてもいいですか」
「他人の指図で打つのは性に合わん。ギルドで懲りた。図面も寸法も示さずに『こう打て、ああ打て』。仕上がりが悪けりゃ俺のせいだ。指示が曖昧だったくせに」
リオンは、一瞬、前世のオフィスにいるような気がした。
「……仕様書のない開発ですね」
「何だ?」
「あ、いえ。昔の職場で似たことがあったので。『何を作るか決めてないのに、とりあえず作れ』って言われる地獄」
ドルクが初めて、リオンの顔をちゃんと見た。
「お前も、そういう目に遭ったのか」
「何度も」
沈黙が落ちた。炉の中で薪が爆ぜる。
「……俺は、図面なしでは打たない」とドルクが言った。「寸法も公差も素材指定もない依頼は受けない。仕上がりに文句をつけるなら、まず図面を見直せ」
リオンは鞄から巻物を取り出した。工房の運用規約だ。昨夜、蝋燭の灯りで何度も書き直したもの。前世で守りたくても守れなかったルールを、今度こそ最初から敷く。
「読んでもらえますか」
ドルクは怪訝そうに巻物を受け取り、広げた。
一、作業前に設計書を作成すること。
二、設計書なき作業は行わないこと。
三、変更手順は事前にレビューすること。
四、作業記録を残すこと。
五、問題発生時は原因を記録し、再発防止策を検討すること。
ドルクの表情が変わった。
「……お前、本気でこれを言ってるのか?」
「本気です。設計書なしで手を入れて障害を起こした仲間を何人も見てきました。仕様が曖昧なまま作業すれば、必ず問題が起きる」
「ギルドの連中は、図面を引けと言ったら笑いやがった。『そんな面倒なことをするのは臆病者だ。職人なら手が覚えている』と」
「前の職場でも同じでした。『ドキュメントを書く暇があったらコードを書け』って」
ドルクが低く、短く笑った。
「似たもの同士か」
「あの……私、全然ついていけてないんですけど」
エルナが手を上げた。リオンは向き直った。
「つまり——エルナが魔法陣を修復するとき、僕が『適当に直して』って言ったら?」
「困ります。どこが悪いのか、どう直すのか、わからないと触れません」
「それが正しい感覚だ。でもこの世界のギルドは『先輩の勘を見て覚えろ、細かいことは聞くな』という文化がある」
ドルクが頷いた。
「嬢ちゃんの言う通り。わからないまま手を動かすのが一番危ない」
「……それ、魔術学院でも同じでした」エルナが呟いた。「先生が『感覚で覚えなさい』って言うのに、試験では理論を問われる」
「逆だな」とドルクが言った。「ギルドは感覚だけで良しとして、学院は理論だけで良しとする。どっちも片手落ちだ」
リオンは内心で膝を打った。口数が少ないだけで、本質を掴む力がある。
「僕の工房は、両方やります。設計書を書いて、作業手順を決めて、その上で手を動かす。理論と実践の両輪」
ドルクは腕を組んだまま、リオンを見ていた。品定めするような、それでいて敵意のない目だった。
ドルクが丸椅子に腰を下ろした。リオンに目の前の木箱を顎でしゃくる。座れ、ということらしい。
「一つ見てもらいたいものがあります」
リオンは農地魔法陣の刻印板の設計図を広げた。
「この板は五十年以上前のもので、刻印が摩耗しています。新しく作り直したい」
ドルクの目が変わった。職人の目だ。
「寸法は入っているな。素材は?」
「精錬鉄にミスリルを微量配合した合金で。魔力伝導率は落ちますが、コストとのバランスを取りました」
「刻印の深さは?」
「0.8ミルから1.2ミル。溝の断面は台形で——」
ドルクは図面の上に太い指を滑らせ、刻印のパターンを辿った。
「……この分岐部分。直角に曲がっているが、Rをつけたほうがいい。直角だと応力が集中する。経年でクラックが入る」
リオンは目を見開いた。
「それ、五十年前の板で実際に起きていた劣化パターンです。なぜわかったんですか」
「やってみりゃわかる。金属は直角を嫌う。力が逃げる場所がないからな。Rをつければ応力が分散する。十年持つか二十年持つかの差だ」
リオンは巻物にメモを取った。ドルクの経験則が、設計の改善に直結している。
「このフィードバック、すごく助かります。設計者だけでは気づけない。現場で手を動かす職人だからこそわかることがある」
「当たり前だ。図面だけで完璧なモノは作れん。設計と製造は、互いに口を出し合って初めてまともなモノになる」
——コードレビューだ、とリオンは思った。設計者の仕様を実装者がレビューし、実装者の作業を設計者が検証する。そのサイクルが品質を上げる。
前世のチームにも、こういう関係があればよかった。設計と実装が断絶していたから、手戻りが山のように積み上がった。
エルナが横から図面を覗き込んだ。
「リオンさん、この線の意味は……?」
「これは魔力の流路を示してる。ここから入って、ここで分岐して、それぞれの処理部に流れる」
「パイプみたいなものですか?」
「そう、まさにパイプだ。水道管をイメージしてくれればいい」
ドルクが「嬢ちゃんも読めるようになるのか」と聞いた。
「なってもらいます。三人全員が図面を読めて、お互いの仕事を確認できるようにしたい」
「……悪くないな」
日が傾き始めていた。
「条件がある」
ドルクが立ち上がった。
「聞きます」
「一つ。図面は必ず事前に出せ。口頭指示は受けない」
「もちろんです」
「二つ。俺の仕事に口を出すなら根拠を示せ。『なんとなく変えろ』は却下する」
「そうあるべきです」
「三つ。——酒は置いてあるか?」
リオンは笑った。
「用意します」
ドルクは壁に掛けてあったエプロンを手に取り、鍛冶場を見回した。
「ここは片づけに二、三日かかる。そのあとでいいなら行く」
エルナが「え、来てくれるんですか!?」と声を上げた。
「図面を出す奴と働くのは初めてだ。やってみりゃわかる」
帰り道。夕日に照らされた畦道を並んで歩く。
「リオンさん、ドルクさん、怖い人かと思ったけど全然違いました」
「職人気質なだけだよ。自分の仕事に誠実で、いい加減なことが許せない。ただそれが周りの文化と合わなかった」
リオンは空を見上げた。茜色が淡く広がっている。
「前の世界にもいたんだ。レビューで正論を言うけど空気を読まないから煙たがられる人。でも、そういう人がチームにいると品質が全然違う」
「レビュー……さっき言ってた、お互いの仕事を確認し合うやつですね」
「そう。ドルクさんが今日やってくれたことがまさにそれだ。僕が設計図を描いて、ドルクさんが製造の観点から改善点を指摘する。エルナは魔力系の視点で確認する。三つの目で見れば、一人で見落とすミスが減る」
エルナは真剣な顔で頷いた。
しばらく歩いて、エルナがふと立ち止まった。
「私が最初のメンバーで、よかったですか?」
夕日に照らされたエルナの顔が少し赤い。夕日のせいか別の理由かは——リオンにはわからなかった。
「もちろん。エルナがいなかったら、僕は一人で全部やろうとして潰れてた」
「……そう、ですか」
エルナは俯いて、それからぱっと顔を上げた。
「じゃあ、ドルクさんが来るまでに鍛冶場スペースを片づけないと! 設計書の読み方ももっと教えてください。ドルクさんが来たら、私もちゃんとレビューできるようになりたいです」
「いいね。三人とも設計書を読めるようにしておけば、誰かが倒れても仕事が止まらない」
「属人化対策ってやつですね!」
「おっ、覚えてた」
二人は笑いながら村の門をくぐった。
自宅に戻り、蝋燭に火を灯して机に向かう。今日の記録を巻物に書き留める。
ドルク。四十五歳。元鍛冶ギルド所属。精密鍛造の腕は確か。図面と仕様を重んじる合理主義者。口数は少ないが、本質を見抜く目がある。設計と製造のフィードバックループを理解している——前世でも滅多に出会えなかったタイプの職人。
これで三人目。あと一人。
カーレン村で聞いた噂——商人の娘ミーナ。帳簿をつけて、依頼を管理して、村との窓口になってくれる人間。技術者だけでは仕事は回らない。前世で痛いほど学んだことだ。
リオンはペンを置き、窓の外を見た。星が瞬いている。
前世のチームは、三人のエンジニアと一人のPMで構成されていた。でも「チーム」とは名ばかりで、結局リオン——九条諒が全部やっていた。設計も実装もレビューもドキュメントも。部下には雑務だけを振り、情報共有もしなかった。
今度は違う。
エルナは「なぜ」を理解しようとする弟子。
ドルクは「正しさ」を曲げない職人。
二人とも、リオンにはないものを持っている。そして——リオンが一人で抱え込もうとしたら、きっと止めてくれる。
蝋燭を吹き消した。
三日後にはドルクが来る。それまでに鍛冶場の準備と、刻印板の設計図にR加工の修正を入れなければ。
やることは明確で、手順も見えている。焦りはなかった。
一人じゃない。それだけで、こんなに違う。
目を閉じる。明日やることを整理して、それ以上は考えない。
定時で帰る。夜は寝る。無理はしない。
それが——この工房の、最初のルールだ。
【あとがき】
「図面なしでは打たない」は職人の矜持。設計と製造がお互いにレビューし合う関係こそ、品質を生む最短ルートです。