工房を開いて十日が経った。
依頼は、思った以上に来ている。ルーンフェル村の水浄化魔法陣の定期点検、隣のミルデ村からの農地魔法陣の相談、ヘルム集落の防壁のアフターフォロー。リオンが【診断】で原因を切り分け、エルナが魔力操作で修復し、ドルクが物理パーツを鍛造する。
技術的には、回っていた。
問題は、それ以外の全部だった。
「リオンさん、昨日の依頼の報酬、いくらでしたっけ」
エルナが作業台の上に並べた刻印板を磨きながら聞いてきた。
「えっと……銀ゼル3枚と、干し肉」
「干し肉!?」
「いや、ミルデ村のおばちゃんがお金の代わりにって……断れなくて」
エルナが眉をひそめた。
「リオンさん。それ、ちゃんと記録してます?」
「記録……」
「帳簿です。収入と支出の」
「……してない」
沈黙が落ちた。
鍛冶場のほうからドルクの金槌の音が規則正しく響いている。その音だけが、気まずい空気を埋めていた。
「あの、エルナ。僕は技術者であって経理じゃないから」
「私もです」
「ドルクさんは……」
「聞くまでもないでしょう」
それはそうだ。ドルクに帳簿をつけろと言ったら、金槌を投げられる。
その日の午後、リオンは工房の入り口に座り込んで頭を抱えていた。
依頼の管理。報酬の交渉。材料の調達。経費の計算。取引先との連絡。
前世なら、総務部や経理部がやってくれていた。営業がいて、PMが《プロジェクトマネージャー》がいて、事務がいた。自分はサーバーとにらめっこしていればよかった。
だが今、ここにいるのは技術者が3人だけだ。
「前世のスタートアップが潰れる原因の第一位……技術はあるけど経営がわからない」
リオンは遠い目で呟いた。
「何の話ですか?」
エルナが冷たい水の入った杯を差し出した。
「いや……僕たち、このままだと干し肉で家賃を払う羽目になるなって」
「やめてください」
翌朝。
工房の扉を、遠慮のない力で叩く音がした。
「すみませーん! ここが噂の魔法陣修理工房ですか!」
リオンが扉を開けると、小柄な少女が立っていた。
栗色のツインテールが朝の風に揺れている。明るい茶色の瞳は、好奇心で輝いていた。背丈はリオンより頭一つ低い。年はリオンと同じくらい、十六歳くらいだろうか。
手には、見慣れない道具を持っていた。木の枠に玉が並んだ、そろばんのようなものだ。
「はい、そうですけど。魔法陣の修理のご依頼ですか?」
「いえ!」
少女は胸を張った。
「あたし、ここで働きたいんです!」
リオンは瞬きした。
「……はい?」
「あたし、ミーナって言います。リグレットの町の商家、ヘルツ商会の娘です」
工房の応接スペース——と言っても、椅子が三つ並んでいるだけの場所——に座ったミーナは、勢いよく自己紹介を始めた。エルナとドルクも手を止めて集まっている。
「お父さんの店で帳簿をつけたり、仕入れの交渉をしたり、お客さんの対応をしたりしてました。計算は得意です」
ミーナは腰の鞄からそろばんのような計算道具を取り出し、カチャカチャと玉を弾いてみせた。
「で、なんで工房に?」リオンは首を傾げた。「商家の娘さんなら、お父さんの店を継ぐものじゃ……」
「それが」
ミーナは少し言いにくそうに目を逸らした。
「お父さんの店、去年から赤字なんです。辺境の商売って、正直厳しくて。で、新しい商売の種を探してたら、この工房の噂を聞いて」
「噂?」
「はい。『ルーンフェルに魔法陣を直せる若い子がいる』『依頼が殺到してる』『でも報酬の交渉がめちゃくちゃ下手で、干し肉で支払われてる』って」
リオンは顔を赤くした。エルナが「ほら」という顔でリオンを見ている。ドルクは腕を組んで、口元を隠すように横を向いていた。笑っている。
「あの、干し肉の件は」
「リオンさん」ミーナは身を乗り出した。「単刀直入に聞きます。帳簿、つけてますか?」
「……つけてない」
「収支の記録は?」
「……ない」
「依頼の管理台帳は?」
「……ない」
「報酬の相場表は?」
「……ないです」
ミーナは深く息を吸い、吐いた。
「帳簿もなしで工房やるんですか?」
リオンは口を開いた。閉じた。もう一度開いた。
「……ぐうの音も出ない」
ミーナの指摘は、リオンの急所を正確に突いていた。
「技術はわからないけど、お金の流れならわかります」
ミーナはそう言って、鞄から一冊の帳簿を取り出した。罫線が引かれた革表紙のノートだ。
「これ、リオンさんの工房の情報を集めて、あたしなりに作ってみた帳簿です」
リオンは受け取って開いた。
工房がこれまでに受けた依頼の一覧、推定される報酬額、材料費の概算、労働時間の見積もり——それが整然と表にまとめられていた。
「……これ、いつの間に」
「リグレットの町で噂を集めて、ルーンフェル村の人にも聞いて回りました」
エルナがリオンの肩越しに帳簿を覗き込んだ。
「すごい……」
「でしょう?」ミーナは得意げに微笑んだ。「でね、リオンさん。ここ見てください。この十日間の推定収入と支出を差し引くと、工房の手持ち資金は、あと二ヶ月で底をつきます」
リオンは固まった。
「……え?」
「干し肉じゃ家賃は払えないですよね?」
返す言葉がなかった。
「リオンさん」
ミーナは計算道具をテーブルに置き、真っ直ぐリオンの目を見た。
「技術がすごいのは、噂を聞いてわかりました。でも、それだけじゃ工房は回りません。報酬の交渉、依頼の管理、経費の管理——こういう裏方を誰かがやらないと、商売は成り立たない」
その通りだ。
前世で何度も見た光景だった。優秀な技術者が集まったスタートアップが、経営がわからなくて潰れる。PMOがいないせいで炎上する。
それを一番よく知っているはずの自分が、同じ轍を踏みかけていた。
「……ミーナ、だっけ」
「はい!」
「一つ聞いていい?」
「なんですか?」
「魔法陣のこと、わかる?」
ミーナは一拍置いて、正直に答えた。
「全然わかりません」
「……正直だね」
「嘘ついてもしょうがないですから。数字は嘘つかないですけど、あたしが嘘ついたら意味ないです」
リオンは思わず笑った。この真っ直ぐさは、嫌いじゃない。
「エルナ、ドルクさん。ちょっと相談なんだけど」
リオンは二人に声をかけた。
「ミーナの件……どう思う?」
ドルクは腕を組んだまま、低い声で言った。
「……経理は必要だ。俺も思ってた」
「ドルクさんが自分で帳簿をつける気は?」
「ない」
即答だった。
「エルナは?」
「私は……」エルナは少し考え込んだ。「リオンさんの判断に任せます。でも、確かに今のままだと干し肉で」
「その話はもういいから」
リオンは苦笑して、ミーナのほうを向いた。
ミーナは椅子の上で背筋を伸ばし、少し不安げな、でも期待に満ちた目でこちらを見ていた。
「ミーナ。条件がある」
「はい!」
「まず、試用期間を一ヶ月もらいたい。その間に、工房の経理と渉外をやってみてほしい。うまくいけば正式に」
「やります!」
ミーナは立ち上がって、リオンの手を両手で握った。
「絶対に期待に応えてみせます! あたし、数字には自信があるんです!」
「ちょ、ちょっと近い……」
リオンが一歩引いた。
その瞬間、エルナの視線がすっと鋭くなったことに、リオンは気づかなかった。ドルクだけが、にやりと口元を歪めた。
ミーナの仕事ぶりは、期待以上だった。
初日から、彼女は工房の全ての取引を洗い出し始めた。
「リオンさん、ミルデ村のおばちゃんへの請求書、これでいいですか?」
「請求書? そんなの作ってなかった」
「だから作ったんです。はい、確認してください」
リオンは受け取った羊皮紙に目を通した。
作業内容、使用した部品、作業時間、報酬額——全てが簡潔に記載されている。
「これ……すごくわかりやすい」
「当然です。請求書は相手に渡すものですから、わかりにくかったら意味がありません」
ミーナは次の羊皮紙を広げた。
「それから、依頼管理台帳を作りました。受付日、依頼内容、担当者、進捗、完了日、報酬——これで漏れがなくなります」
リオンは台帳を見つめた。
「……これ、前世のチケット管理システムだ」
「はい?」
「いや、こっちの話」
前世のSE時代、JiraやRedmineがなかったら仕事は回らなかった。「誰が何をいつまでにやるか」を可視化すること。ミーナは紙とペンと計算道具で、それを作っている。
三日目。
ミーナは工房の棚を整理しながら、リオンに声をかけた。
「リオンさん、昼ごはん食べてないでしょ」
「え? いや、あとで」
「あとでって言って、昨日も夕方まで食べなかったですよね。一昨日も」
リオンは言葉に詰まった。
「あたし、帳簿見てわかったんですよ。食費の支出が異常に少ない。計算したら、リオンさんの食事回数は一日平均一・五回です」
「そこまで計算するの……」
「数字は嘘つかないですから」
ミーナはテーブルの上に包みを置いた。中には、焼きたてのパンとチーズ、干した果物が入っていた。
「はい、食べてください。これは経費じゃなくてあたしの奢りです」
「いや、悪いよ」
「いいから食べてください。従業員が倒れたら工房が止まります。リオンさんの稼働率が落ちたら、売上に直結するんですから」
リオンはパンを受け取った。温かかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」ミーナは満足げに笑った。
その様子を、作業台の向こうからエルナが見ていた。
手元の刻印板を磨く動きが、少しだけ荒くなった。
一週間後。
エルナが珍しく、リオンに個人的な話を切り出した。
「リオンさん」
「ん?」
「……ミーナちゃん、よく働きますね」
エルナの声は平坦だった。平坦すぎた。
「ああ、助かってるよ。帳簿も台帳も完璧だし、報酬の交渉もうまい。昨日なんか、ヘルム集落との継続依頼を銀ゼル2枚上乗せで決めてきて」
「そうですか」
「エルナ?」
「なんでもないです」
エルナは作業に戻った。その背中が、少しだけ硬く見えた。
リオンは首を傾げた。何か怒らせただろうか。
仕事上のミスがあっただろうか。最近の依頼対応で手順を飛ばしたとか。
……わからない。
鍛冶場から戻ってきたドルクが、リオンの横を通りすぎざまに低い声で言った。
「鈍いな」
「え? 何が?」
ドルクは答えなかった。
十日目の夜。
工房の全員が揃って、初めての「定例会議」を開いた。
ミーナの提案だった。
「週に一回、全員で状況を共有しましょう。依頼の進捗、今後の予定、問題点。あたしが議事録を取ります」
リオンは感心していた。これは前世で言うところの週次定例ミーティングだ。
「じゃあ、まず現状の報告から」ミーナは帳簿を広げた。「工房の収支です。先週の売上は銀ゼル18枚。支出は材料費が銀ゼル7枚、生活費が銀ゼル5枚。差引き銀ゼル6枚の黒字です」
「黒字……」リオンは目を丸くした。「十日前は二ヶ月で破産って言ってたのに」
「請求書をちゃんと出すようにしたのと、干し肉払いをお断りしたのが大きいですね」
ドルクが低く笑った。
「次に、依頼の管理状況です。現在受注している依頼が4件、うち完了が2件、進行中が1件、未着手が1件。納期遅れはゼロです」
ミーナは指でテーブルを叩いた。
「それから、提案があります」
「提案?」
「依頼を受けるときの見積もりを標準化しませんか。作業の種類ごとに、だいたいの所要時間と報酬の目安を決めておく。そうすれば、あたしが交渉するときに根拠ができます」
リオンは膝を打った。
「それ——前の世界では工数見積もりって呼んでた。すごくいい」
「前の世界って何ですか?」
「あ、いや、昔の話」
会議が終わった後、リオンは一人で工房の裏手に出た。
夜空には星が散らばっている。前世では見られなかった、圧倒的な星の数。
四人になった。
自分、エルナ、ドルク、ミーナ。
技術者が設計し、魔術師が実行し、職人が部品を作り、渉外が経営を支える。
前世の言葉で言えば。
「アーキテクトと、オペレーターと、ハードウェアエンジニアと、PMO」
リオンは苦笑した。
前世の会社では当たり前だった役割分担を、異世界で一から作り直している。技術力だけではプロジェクトは回らない。管理、運営、渉外——そういう「技術じゃない仕事」を誰かがやらないと、どんなに優秀なチームでも破綻する。
「技術はわからないけど、お金の流れならわかります——か」
ミーナの言葉を反芻した。
技術がわからないことは弱点じゃない。自分の専門を持っていることが強みだ。全員が同じスキルを持つ必要はない。
冗長構成と同じだ。単一障害点を作らない。一人が欠けても、チームは止まらない。
——いや、まだ足りない。自分がいなくなったら全部止まる。でも、少しずつ属人化を解消していく。
「定時で帰れる日が、ちょっとだけ近づいた……かな」
リオンは星空を見上げて、小さく笑った。
翌朝。
工房に来たリオンは、入り口に掛けられた新しい看板に気づいた。
木の板に、丁寧な文字で書かれている。
『魔法陣修理工房——リオン工房』
『受付時間:朝八時〜夕方五時』
『夜間対応:原則お断り』
『お見積もり無料。まずはご相談ください』
「……これ、誰が?」
「あたしです」ミーナが中から顔を出した。「看板がないと、お客さんが迷うでしょ? ドルクさんに板を切ってもらって、あたしが文字を書きました」
「あ、受付時間……ちゃんと定時退勤になってる」
「リオンさんがそう決めたんですよね? 依頼は日中のみ、夜間対応はしないって」
リオンは看板を見つめた。
自分のルールが、ちゃんと形になっている。
「エルナさーん、お茶入りましたよー!」
ミーナの明るい声が工房に響いた。
エルナが「ありがとう、ミーナちゃん」と返す声。ドルクの金槌の音。
小さな工房に、四人分の気配がある。
リオンは看板に手を触れた。
技術者として、仲間として。この工房を——このチームを、ちゃんと回していこう。
前世では仕事に潰されたけれど、今度は違う。今度は、一人で抱え込まない。
「さて」
リオンは工房に入った。
「今日の依頼、何件ある?」
「3件です!」ミーナが帳簿を掲げた。「まず、ルーンフェル村の灯火魔法陣の定期点検。次に——」
リオンは椅子に座り、ミーナの報告を聞きながら、今日の作業計画を頭の中で組み立て始めた。
工房の窓から差し込む朝日が、四人の姿を照らしている。
——四人パーティ、結成。
ただし、全員が後衛である。
【あとがき】
技術者だけのチームに足りなかったのは「お金の流れを見る目」。技術と経営は車の両輪であることを、干し肉が教えてくれました。