カスケード障害が鎮まり、魔術師たちが引き上げた後も、アルヴィスは監視室を離れなかった。
壁一面の監視結晶石は、すべて穏やかな緑色に戻っている。正常稼働。だが、アルヴィスの胸の内は穏やかとは程遠かった。
机の上に、一枚の羊皮紙が残されていた。
リオンが描いた依存関係マップ。円と矢印で構成された、単純な図。第三系統から第五系統へ、第五系統から第七系統と第一系統へ。魔力供給の連鎖が、一目で把握できるように描かれている。
「……」
アルヴィスはそれを手に取り、灯火の下でじっと見つめた。
五十年前のことを、思い出していた。
当時の魔術局長は、エルドレス・ヴァイン。温厚な老魔術師で、部下を信頼し、仕事を分け与え、チームで王都の魔法インフラを運用していた。
——あの夜も、こんな監視室だった。
防壁魔法陣の定期改修。エルドレスは作業を三人の部下に任せた。手順は口頭で伝えられ、確認は各自に委ねられた。
結果。改修中に魔力パスの接続順序を誤り、防壁の一角が六時間にわたって消失した。
帝国との国境に面した東の防壁だった。
幸い帝国軍は動かなかったが、王宮は激震した。エルドレスは責任を取って辞任。部下三人は左遷された。アルヴィスは当時まだ駆け出しの魔術師だったが、その夜のことを鮮明に覚えている。
——他人に任せるから、失敗する。
エルドレスが去った後、若くして局長に抜擢されたアルヴィスは、誓った。すべてを自分でやる。自分の目で確認し、自分の手で直す。そうすれば、ミスは起きない。
事実、それでうまくいった。五十年間、一度も大規模障害を起こさなかった。
——今日まで。
アルヴィスは依存関係マップを机に置いた。指先が微かに震えている。
「四分三十秒」
低く呟いた。あの小僧のチームが、カスケード障害を止めた時間だ。
私一人では。間に合わなかった。
第三系統を直している間に第七系統が暴走し、第七を鎮めている間に第一が停止した。天才であることを疑ったことはない。だが天才の手は、二本しかない。
それが五十年目の、答えだった。
窓の外では、夜明けの気配が遠くに滲んでいる。アルヴィスは依存関係マップをもう一度手に取った。
「……よくできている」
認めざるを得なかった。この図があれば、全体の構造を知らない若い魔術師でも、障害の連鎖を追える。自分が五十年かけて頭の中に構築した地図が。一枚の紙に、正確に描かれている。
悔しかった。
だが、それ以上に。怖かった。
もし自分が倒れたら。この地図も、五十年分の知識も、すべて消える。エルドレスの失敗を繰り返すまいと一人で抱え込んだ結果、別の形で同じ脆弱性を生んでいたのではないか。
——単一障害点。
あの小僧が使っていた言葉が、頭の中で響いた。
翌日の昼過ぎ。
アルヴィスの執務室の扉を、リオンが叩いた。
「局長、少しお時間をいただけますか」
「……入れ」
リオンは羊皮紙の束を抱えていた。薄いが、丁寧に綴じられている。
「地下水路系魔法陣の障害対応手順書です。昨日の障害を元に、復旧手順をまとめました」
アルヴィスは無言で受け取り、最初の頁を開いた。
——第三系統が停止した場合。まず依存先の第五系統への影響を確認。第五系統の魔力残量が閾値を下回っていれば、第七系統との依存を一時切断。予備の補助魔力パスへの切り替え手順は以下の通り——
正確だった。
昨日のカスケード障害で自分がやろうとしたこと、そしてチームが実際にやったことが、手順として言語化されている。判断の分岐、確認項目、エスカレーションの基準。すべてが。自分の五十年の経験に基づいている。
「……私の知識を、聞き取ったのか」
「昨日の対応中に、局長がどこを見て何を判断していたか、観察していました。あとはリーティアから系統間の接続情報を補完しています」
アルヴィスは次の頁をめくった。また次の頁を。複雑な感情が胸の中で渦を巻いていた。
私の五十年が。数枚の紙になっている。
だが、同時に思った。
これがあれば、私がいなくても。。
長い沈黙の後、アルヴィスは手順書を机に置いた。
「……試験的に、配布を許可する。地下水路系の担当者に限ってだ」
「ありがとうございます」
リオンが頭を下げた。アルヴィスは窓の外に目を向けた。
「全面的に認めたわけではないぞ。手順書通りに動いて事故が起きたら——」
「責任は僕が取ります」
「……ふん」
三日後の朝。
地下水路系の第九系統で、小さな出力低下が検知された。
夜間の定期巡回で発見したのは、魔術局の若い魔術師だった。名はまだ覚えていない。昨日までアルヴィスに怒鳴られるだけの、ただの下っ端だ。
アルヴィスは報告を受けて監視室に向かったが、あえて部屋の入口で足を止めた。
若い魔術師が手順書を広げている。指で手順を追いながら、一つずつ確認していく。
「第九系統、出力低下……原因の切り分け。まず魔力供給元の接続状態を確認——」
声に出しながら、手順通りに診断を進めている。手つきは拙い。だが、正しい。
「供給元は正常。次に、系統内の魔力パスを確認……あった。第三分岐の魔力パスに微細な亀裂。劣化パターンは……経年劣化による摩耗」
若い魔術師は手順書の次の頁をめくった。
「摩耗の場合、魔力パスの再刻印で対応可能——」
十五分後。
第九系統の出力は正常値に復帰した。
アルヴィスは、入口に立ったまま、その一部始終を見ていた。若い魔術師は自分がいることに気づいていない。
「復旧完了……確認項目。依存先への影響。なし。出力値——正常範囲。ログ記録——」
若い魔術師が安堵の息を吐いた。その顔には、小さな誇りが浮かんでいた。
アルヴィスは、声をかけずに監視室を離れた。
廊下を歩きながら、杖を握る手が震えていることに気づいた。怒りではない。悔しさでもない。もっと複雑な、名前のつかない感情だった。
「……本当に、私がいなくても動くのか」
五十年間、自分がいなければ王都は回らないと信じてきた。それは誇りであり、同時に。鎖だった。
あの若い魔術師は、手順書があれば自分で判断し、自分で直せた。アルヴィスが五十年かけて培った知識を、数枚の紙を通じて受け取り、実践した。
悔しいが。これが、正しいのだ。
エルドレスが間違えたのは、人に任せたことではなかった。手順を口頭で伝え、確認を個人に委ねたことだ。仕組みがなかった。あの小僧が作っているのは。仕組みだ。
その日の夕刻、アルヴィスはリオンを執務室に呼んだ。
エルナも一緒に来た。リオンの隣に、当然のように立っている。
「局長、お呼びですか」
「座れ」
アルヴィスは二人が座るのを待ってから、口を開いた。
「第九系統の障害対応を見た。若い魔術師が。手順書を使って、一人で復旧した」
「はい。報告は受けています」
「私は見ていた。……手を出さずに、最後まで見ていた」
リオンは黙って聞いている。
「あの手順書には。私の五十年が詰まっている。いや、正確に言えば、私の五十年を正確に抽出し、誰にでも使える形に変換したものだ」
「……」
「だから、続きをやる」
アルヴィスはリオンを真っ直ぐに見た。
「私の知識を、すべて聞き取れ。水路だけではない。防壁、通信、灯火。五十年分のすべてだ。私はいつか倒れる。その前に——形にしておかねばならん」
リオンの目が見開かれた。
「……それは、膨大な作業に——」
「構わん。お前が始めたことだ。最後までやれ」
エルナが小さく息を呑んだ。アルヴィスの声に、もう傲慢さはなかった。老いた魔術師が、五十年間握り続けた荷物を。ようやく、誰かに渡そうとしている。
「……わかりました」
リオンが深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「ふん」
アルヴィスは一瞬だけ目を逸らし、それから。低い声で言った。
「……よろしく頼む、リオン」
名前を呼ばれた。
小僧ではなく。リオン、と。
エルナが隣で小さく微笑んだ。リオンは言葉が出ず、ただもう一度、頭を下げた。
翌日の会議。
アルヴィス、カティア、リオン、エルナが顔を揃えた席で、リオンが切り出した。
「セラフィーナを、脆弱性診断の担当として採用したいと考えています」
アルヴィスの眉が寄った。
「帝国の工作員を。王都の魔法インフラに関わらせるのか」
「彼女の【解呪】は、僕たちが見落としている脆弱性を見つけられます。攻撃者の視点がなければ、本当の防御はできません」
「信用の問題だ。技術の問題ではない」
「技術者として、僕が信用します」
アルヴィスはリオンを見た。昨日、名前で呼んだばかりの。この若い男を。
「……殿下はどうお考えか」
カティアが口を開いた。
「リオン殿の判断を支持します。ただし、行動は魔術局内に限定し、監視をつけます。問題があれば即座に対応できる体制を整えた上で。試してみる価値はあるかと」
アルヴィスは腕を組んだ。長い沈黙。
「……試験的に、だ。問題があれば即刻中止する」
「ありがとうございます」
「礼は結果を出してから言え」
その夜、工房に戻ったリオンを、エルナが待っていた。
「お疲れ様です、リオンさん」
「ただいま。……長い一日だった」
リオンは椅子に沈み込んだ。
「局長が——名前で呼んでくれた」
「聞いてました。……びっくりしましたね」
「正直、まだ信じられない」
エルナは湯気の立つ杯をリオンの前に置いた。
「リオンさん。局長が変わったのは——リオンさんが、ずっと諦めなかったからです」
「……僕は、前の世界で散々やってきたことを繰り返してるだけだよ。手順書を書いて、属人化を解消して——」
「それが、すごいんです」
エルナが静かに言った。
「五十年間誰にもできなかったことを、リオンさんがやったんです。……もっと胸を張っていいと思います」
リオンは杯を手に取り、一口飲んだ。温かい薬草茶の香りが広がる。
「……ありがとう、エルナ」
「……はい」
エルナは少しだけ頬を赤らめて、自分の杯に目を落とした。
窓の外、王都の灯火魔法陣が穏やかに輝いている。変わらない夜景。だが、この街を支える仕組みは、少しずつ変わり始めている。
「明日から、局長の聞き取りが始まる。五十年分の知識を手順書にする——途方もない作業だ」
「私も手伝います」
「頼むよ。……あと、セラフィーナの受け入れ準備もある」
「……はい。セラフィーナさんのことも、ちゃんとやります」
エルナの声が少しだけ硬くなったことに、リオンは気づかなかった。
「……定時で帰れる日は、ますます遠くなったな」
「もう、それ毎日言ってます」
エルナの呆れた声に、工房が小さな笑いに包まれた。
王都の夜が、静かに更けていく。
悔しいが、と、あの老魔術師は言った。
その一言に、五十年分の誇りと葛藤が詰まっていた。それを受け止める覚悟が、リオンにはあった。
暗黙知を、形式知に。
それが、僕の仕事だ。
【あとがき】
第46話「悔しいが」でした。五十年の誇りと孤独を手放し、「よろしく頼む」と名前を呼んだアルヴィス。変化は一夜では起きない。だが、確かに始まった。