S03-P01 異世界SLA99.99% ~元SEは今日も魔法インフラを落とさない~

第46話: 悔しいが

第3アーク · 4,430文字 · revised

カスケード障害が鎮まり、魔術師たちが引き上げた後も、アルヴィスは監視室を離れなかった。

壁一面の監視結晶石は、すべて穏やかな緑色に戻っている。正常稼働。だが、アルヴィスの胸の内は穏やかとは程遠かった。

机の上に、一枚の羊皮紙が残されていた。

リオンが描いた依存関係マップ。円と矢印で構成された、単純な図。第三系統から第五系統へ、第五系統から第七系統と第一系統へ。魔力供給の連鎖が、一目で把握できるように描かれている。

「……」

アルヴィスはそれを手に取り、灯火の下でじっと見つめた。


五十年前のことを、思い出していた。

当時の魔術局長は、エルドレス・ヴァイン。温厚な老魔術師で、部下を信頼し、仕事を分け与え、チームで王都の魔法インフラを運用していた。

——あの夜も、こんな監視室だった。

防壁魔法陣の定期改修。エルドレスは作業を三人の部下に任せた。手順は口頭で伝えられ、確認は各自に委ねられた。

結果。改修中に魔力パスの接続順序を誤り、防壁の一角が六時間にわたって消失した。

帝国との国境に面した東の防壁だった。

幸い帝国軍は動かなかったが、王宮は激震した。エルドレスは責任を取って辞任。部下三人は左遷された。アルヴィスは当時まだ駆け出しの魔術師だったが、その夜のことを鮮明に覚えている。

——他人に任せるから、失敗する。

エルドレスが去った後、若くして局長に抜擢されたアルヴィスは、誓った。すべてを自分でやる。自分の目で確認し、自分の手で直す。そうすれば、ミスは起きない。

事実、それでうまくいった。五十年間、一度も大規模障害を起こさなかった。

——今日まで。

アルヴィスは依存関係マップを机に置いた。指先が微かに震えている。

「四分三十秒」

低く呟いた。あの小僧のチームが、カスケード障害を止めた時間だ。

私一人では。間に合わなかった。

第三系統を直している間に第七系統が暴走し、第七を鎮めている間に第一が停止した。天才であることを疑ったことはない。だが天才の手は、二本しかない。

それが五十年目の、答えだった。

窓の外では、夜明けの気配が遠くに滲んでいる。アルヴィスは依存関係マップをもう一度手に取った。

「……よくできている」

認めざるを得なかった。この図があれば、全体の構造を知らない若い魔術師でも、障害の連鎖を追える。自分が五十年かけて頭の中に構築した地図が。一枚の紙に、正確に描かれている。

悔しかった。

だが、それ以上に。怖かった。

もし自分が倒れたら。この地図も、五十年分の知識も、すべて消える。エルドレスの失敗を繰り返すまいと一人で抱え込んだ結果、別の形で同じ脆弱性を生んでいたのではないか。

——単一障害点(たんいつしょうがいてん)

あの小僧が使っていた言葉が、頭の中で響いた。


翌日の昼過ぎ。

アルヴィスの執務室の扉を、リオンが叩いた。

「局長、少しお時間をいただけますか」

「……入れ」

リオンは羊皮紙の束を抱えていた。薄いが、丁寧に綴じられている。

「地下水路系魔法陣の障害対応手順書です。昨日の障害を元に、復旧手順をまとめました」

アルヴィスは無言で受け取り、最初の頁を開いた。

——第三系統が停止した場合。まず依存先の第五系統への影響を確認。第五系統の魔力残量が閾値を下回っていれば、第七系統との依存を一時切断。予備の補助魔力パスへの切り替え手順は以下の通り——

正確だった。

昨日のカスケード障害で自分がやろうとしたこと、そしてチームが実際にやったことが、手順として言語化されている。判断の分岐、確認項目、エスカレーションの基準。すべてが。自分の五十年の経験に基づいている。

「……私の知識を、聞き取ったのか」

「昨日の対応中に、局長がどこを見て何を判断していたか、観察していました。あとはリーティアから系統間の接続情報を補完しています」

アルヴィスは次の頁をめくった。また次の頁を。複雑な感情が胸の中で渦を巻いていた。

私の五十年が。数枚の紙になっている。

だが、同時に思った。

これがあれば、私がいなくても。。

長い沈黙の後、アルヴィスは手順書を机に置いた。

「……試験的に、配布を許可する。地下水路系の担当者に限ってだ」

「ありがとうございます」

リオンが頭を下げた。アルヴィスは窓の外に目を向けた。

「全面的に認めたわけではないぞ。手順書通りに動いて事故が起きたら——」

「責任は僕が取ります」

「……ふん」


三日後の朝。

地下水路系の第九系統で、小さな出力低下が検知された。

夜間の定期巡回で発見したのは、魔術局の若い魔術師だった。名はまだ覚えていない。昨日までアルヴィスに怒鳴られるだけの、ただの下っ端だ。

アルヴィスは報告を受けて監視室に向かったが、あえて部屋の入口で足を止めた。

若い魔術師が手順書を広げている。指で手順を追いながら、一つずつ確認していく。

「第九系統、出力低下……原因の切り分け。まず魔力供給元の接続状態を確認——」

声に出しながら、手順通りに診断を進めている。手つきは拙い。だが、正しい。

「供給元は正常。次に、系統内の魔力パスを確認……あった。第三分岐の魔力パスに微細な亀裂。劣化パターンは……経年劣化による摩耗」

若い魔術師は手順書の次の頁をめくった。

「摩耗の場合、魔力パスの再刻印で対応可能——」

十五分後。

第九系統の出力は正常値に復帰した。

アルヴィスは、入口に立ったまま、その一部始終を見ていた。若い魔術師は自分がいることに気づいていない。

「復旧完了……確認項目。依存先への影響。なし。出力値——正常範囲。ログ記録——」

若い魔術師が安堵の息を吐いた。その顔には、小さな誇りが浮かんでいた。

アルヴィスは、声をかけずに監視室を離れた。

廊下を歩きながら、杖を握る手が震えていることに気づいた。怒りではない。悔しさでもない。もっと複雑な、名前のつかない感情だった。

「……本当に、私がいなくても動くのか」

五十年間、自分がいなければ王都は回らないと信じてきた。それは誇りであり、同時に。鎖だった。

あの若い魔術師は、手順書があれば自分で判断し、自分で直せた。アルヴィスが五十年かけて培った知識を、数枚の紙を通じて受け取り、実践した。

悔しいが。これが、正しいのだ。

エルドレスが間違えたのは、人に任せたことではなかった。手順を口頭で伝え、確認を個人に委ねたことだ。仕組みがなかった。あの小僧が作っているのは。仕組みだ。


その日の夕刻、アルヴィスはリオンを執務室に呼んだ。

エルナも一緒に来た。リオンの隣に、当然のように立っている。

「局長、お呼びですか」

「座れ」

アルヴィスは二人が座るのを待ってから、口を開いた。

「第九系統の障害対応を見た。若い魔術師が。手順書を使って、一人で復旧した」

「はい。報告は受けています」

「私は見ていた。……手を出さずに、最後まで見ていた」

リオンは黙って聞いている。

「あの手順書には。私の五十年が詰まっている。いや、正確に言えば、私の五十年を正確に抽出し、誰にでも使える形に変換したものだ」

「……」

「だから、続きをやる」

アルヴィスはリオンを真っ直ぐに見た。

「私の知識を、すべて聞き取れ。水路だけではない。防壁、通信、灯火。五十年分のすべてだ。私はいつか倒れる。その前に——形にしておかねばならん」

リオンの目が見開かれた。

「……それは、膨大な作業に——」

「構わん。お前が始めたことだ。最後までやれ」

エルナが小さく息を呑んだ。アルヴィスの声に、もう傲慢さはなかった。老いた魔術師が、五十年間握り続けた荷物を。ようやく、誰かに渡そうとしている。

「……わかりました」

リオンが深く頭を下げた。

「よろしくお願いします」

「ふん」

アルヴィスは一瞬だけ目を逸らし、それから。低い声で言った。

「……よろしく頼む、リオン」

名前を呼ばれた。

小僧ではなく。リオン、と。

エルナが隣で小さく微笑んだ。リオンは言葉が出ず、ただもう一度、頭を下げた。


翌日の会議。

アルヴィス、カティア、リオン、エルナが顔を揃えた席で、リオンが切り出した。

「セラフィーナを、脆弱性診断の担当として採用したいと考えています」

アルヴィスの眉が寄った。

「帝国の工作員を。王都の魔法インフラに関わらせるのか」

「彼女の【解呪(アナライズ)】は、僕たちが見落としている脆弱性を見つけられます。攻撃者の視点がなければ、本当の防御はできません」

「信用の問題だ。技術の問題ではない」

「技術者として、僕が信用します」

アルヴィスはリオンを見た。昨日、名前で呼んだばかりの。この若い男を。

「……殿下はどうお考えか」

カティアが口を開いた。

「リオン殿の判断を支持します。ただし、行動は魔術局内に限定し、監視をつけます。問題があれば即座に対応できる体制を整えた上で。試してみる価値はあるかと」

アルヴィスは腕を組んだ。長い沈黙。

「……試験的に、だ。問題があれば即刻中止する」

「ありがとうございます」

「礼は結果を出してから言え」


その夜、工房に戻ったリオンを、エルナが待っていた。

「お疲れ様です、リオンさん」

「ただいま。……長い一日だった」

リオンは椅子に沈み込んだ。

「局長が——名前で呼んでくれた」

「聞いてました。……びっくりしましたね」

「正直、まだ信じられない」

エルナは湯気の立つ杯をリオンの前に置いた。

「リオンさん。局長が変わったのは——リオンさんが、ずっと諦めなかったからです」

「……僕は、前の世界で散々やってきたことを繰り返してるだけだよ。手順書を書いて、属人化を解消して——」

「それが、すごいんです」

エルナが静かに言った。

「五十年間誰にもできなかったことを、リオンさんがやったんです。……もっと胸を張っていいと思います」

リオンは杯を手に取り、一口飲んだ。温かい薬草茶の香りが広がる。

「……ありがとう、エルナ」

「……はい」

エルナは少しだけ頬を赤らめて、自分の杯に目を落とした。

窓の外、王都の灯火魔法陣が穏やかに輝いている。変わらない夜景。だが、この街を支える仕組みは、少しずつ変わり始めている。

「明日から、局長の聞き取りが始まる。五十年分の知識を手順書にする——途方もない作業だ」

「私も手伝います」

「頼むよ。……あと、セラフィーナの受け入れ準備もある」

「……はい。セラフィーナさんのことも、ちゃんとやります」

エルナの声が少しだけ硬くなったことに、リオンは気づかなかった。

「……定時で帰れる日は、ますます遠くなったな」

「もう、それ毎日言ってます」

エルナの呆れた声に、工房が小さな笑いに包まれた。

王都の夜が、静かに更けていく。

悔しいが、と、あの老魔術師は言った。

その一言に、五十年分の誇りと葛藤が詰まっていた。それを受け止める覚悟が、リオンにはあった。

暗黙知を、形式知に。

それが、僕の仕事だ。


【あとがき】
第46話「悔しいが」でした。五十年の誇りと孤独を手放し、「よろしく頼む」と名前を呼んだアルヴィス。変化は一夜では起きない。だが、確かに始まった。

文字数: 4,430