戦後一ヶ月。王都アステラの空に、もう煙は上がらない。
魔術局の司令室で、リオンは最後の報告書をまとめていた。戦時中に導入した認証ルーチンの恒久化提案、各地の冗長構成の保守スケジュール、人員配置の引き継ぎ一覧。どれも地味な書類だが、これがなければ次の担当者が困る。
ドキュメントは未来への引き継ぎだ。前世で一番やり残したことを、今世では最後まで片付ける。
「リオンさん、最終集計できました」
エルナが巻物を抱えて入ってきた。頬が紅潮している。興奮を隠しきれていない。
「戦争開始から終結まで、約四ヶ月間。王都インフラの総合稼働率」
巻物を広げ、指で数字を示した。
「99.99%です」
リオンの手が止まった。
99.99%。年間換算で停止時間52分以内。前世のデータセンターでも、この数字を安定して出せる企業はほんの一握りだった。九条諒は一度も達成できなかった。
「……本当か」
「本当です。私、三回計算し直しました」
リオンは報告書を机に置き、深く息を吐いた。
「やったな」
それだけ言うのが精一杯だった。
感慨に浸る間もなく、ミーナが書類の束を抱えて飛び込んできた。
「リオンさん! これ見てください!」
「何だ、ミーナ」
「稼働率保証付き保守契約書! 名づけて『SLA契約』!」
ミーナは得意げに巻物を広げた。『年間停止時間52分以内を保証。違反時は契約料の一部を返金』と記されている。
「数字で保証できるなら契約書に書ける。契約書に書けるなら商品として売れる。リオンさんが言った通りです!」
リオンは思わず笑った。SLAを商品化するとは。ミーナの商才には、いつも驚かされる。
「いい出来だ。これは売れるな」
「でしょう!」
その日の午後、王宮の謁見の間に呼ばれた。
国王とカティア王女が待っていた。
「リオン殿。そなたの功績に、王国は深く感謝する」
国王は穏やかに切り出した。
「ついては、新設する『魔法インフラ運用局』の初代局長を、そなたに任せたい」
静寂が落ちた。カティアの目がリオンに向けられている。期待と、どこかで答えを察しているような、複雑な光を帯びていた。
「ありがたいお言葉です」
リオンは深く頭を下げ、そして顔を上げて言った。
「ですが、お断りいたします」
謁見の間に微かなざわめきが走った。
「理由を聞かせてもらえるか」
「僕がこの戦争で一番やりたかったのは、『僕がいなくても回る仕組み』を作ることでした」
リオンの声は静かだが、迷いがなかった。
「手順書を書き、知識を共有し、チームを育てた。その仕組みは、もう動いています。局長の座に僕が座れば、また属人化が始まる。それでは本末転倒です」
「では、誰が務めるのだ」
「エルナを推薦します」
リオンはまっすぐに言い切った。
「彼女は僕が教えたすべてを吸収し、戦時中は独力で辺境の防衛指揮を執りました。技術も判断力も、もう十分です」
カティアが小さく微笑んだ。寂しさの滲む、けれど穏やかな笑みだった。
「やはり、そう言うと思っていました。あなたらしい」
謁見の間を出ると、廊下にエルナが立っていた。目が赤い。
「……聞いてた?」
「はい。扉の外で」
エルナの声が震えた。
「なんで相談してくれなかったんですか」
「反対されると思ったから」
「当たり前です!」
エルナは声を荒らげたが、すぐに俯いた。
「私が局長なんて、無理です」
「無理じゃない」
リオンはエルナの頭にそっと手を置いた。以前なら照れて手を引っ込めただろう。でも、もうそういう段階は過ぎていた。
「お前はもう一人前の運用魔術師だ。辺境の防衛では完璧に指揮を執った。俺が見てなくても」
「でも、リオンさんがいないと」
「いなくても大丈夫だから、任せるんだよ」
エルナは唇を噛み、涙を拭い、それから顔を上げた。
「……わかりました。やります」
「頼んだ」
「はい。王都のインフラ、絶対に落としません」
その目にはもう迷いがなかった。
出立の前夜、リオンはリーティアの部屋を訪れた。
「管理者。もう行くのか」
「ああ。メンテナンスはエルナに引き継いだ」
「そうか」
リーティアの投影体が、わずかに揺れた。
「管理者がいなくなると、この部屋は静かになるな」
「エルナが来てくれるよ。毎日」
「エルナは、管理者とは違う」
リオンは少し驚いた。リーティアが人を区別するようになっている。出会った頃は「管理権限を持つ者」としか認識していなかったのに。
「ありがとう、リーティア。お前がいなかったら、この戦争は乗り越えられなかった」
「……それは事実だ」
素直に受け取るところが、リーティアらしい。
「管理者」
「ん?」
「お前は、良い管理者だった」
初めて聞く抑揚だった。機械的な平坦さの中に、確かな温度がある。
「……どういたしまして」
翌朝、司令室で荷物をまとめていると、仲間たちが集まってきた。
アルヴィスは腕を組んだまま壁に寄りかかり、ぶっきらぼうに言った。
「世話になった。二度と来るな」
「嘘が下手ですね、局長」
「うるさい」
アルヴィスは背を向けた。その肩が微かに震えていることに、リオンは気づかないふりをした。
セラフィーナは旅装で現れた。
「私も辺境に行く。お前の工房で脆弱性診断担当として雇え」
「いいのか?」
「守る側の技術を、もっと学びたい。それに技術の話ができる相手は、お前しかいない」
ミーナは荷物を二つ担いでいた。自分の分と、リオンの分。
「あたしも帰ります。工房の経理、あたしがいないと回らないでしょ」
ここに残るという選択肢は、端から考えていない口ぶりだった。
王都の門を出る。
馬車に揺られながら、リオンは一度だけ振り返った。灯火魔法陣が輝く王都の輪郭が、朝靄の中に霞んでいく。すべてが正常に稼働している。
視線を前に戻した。もう、振り返らなくていい。
数日後。辺境の工房に帰り着くと、ドルクが入口の前で炉の手入れをしていた。
「よう。帰ったか」
「ただいま、ドルクさん」
「おう」
それだけだった。それだけで十分だった。
その夜、二人は工房の前の丸太に腰を下ろし、蜂蜜酒を飲んでいた。
虫の声。風に揺れる草の音。遠くの牧草地で羊が一つ鳴いた。
「……で、王都の偉いさんは、まだ来てるのか」
「局長になれって使者が三回来たらしい。全部断った」
「だろうな」
ドルクは酒を一口含み、吐息とともに笑った。
「お前は、そういう奴だ」
しばらく、二人とも黙った。酒を飲み、夜空を見上げた。星が降るほど多い。光害のない世界は、こういうところが贅沢だ。
「暇だな」
ドルクがぽつりと言った。
リオンは杯を傾け、星空に目を細めた。
「暇なのが最高なんだよ、運用は」
「……前にも言ってたな、それ」
「ああ。前世の先輩の受け売りだ。『何も起きない日が一番いい日だ。それが運用の理想だ』って。当時は正直、ピンと来なかった。障害が来なきゃ暇で退屈だし、来たら来たで地獄だし、どっちにしても報われないと思ってた」
「今は?」
「今はわかる」
リオンは杯を膝の上に置いた。
「何も起きないってことは、全部ちゃんと動いてるってことだ。魔法陣が安定して、水が出て、灯りがついて、防壁が村を守ってる。それを支えてるのは、手順書と、チームと、毎日の地味な点検だ。派手じゃない。誰にも気づかれない。でも、それが動いてるから、みんなが普通に暮らせる」
ドルクは黙って聞いていた。
「この退屈な夜こそが、運用が成功してる証拠なんだよ」
ドルクは黙って酒を注いだ。リオンの杯に、そして自分の杯に。
「……お前、変わったな」
「よく言われる」
「最初に会ったとき、死んだ魚みたいな目をしてた。何かに追われてるような、余裕のない顔だった。今じゃこんな穏やかな面しやがって」
「穏やかかな」
「ああ。前の世界で、できなかったことをやれたんだろ」
リオンは蜂蜜酒を一口飲んだ。甘くて、少しだけ温かい。
「うん。今度は、失わなかった」
それだけ言って、二人はまた黙った。虫の声が夜を満たしている。魔法陣の淡い光が、地面を静かに照らしている。何も起きない、穏やかな夜だった。
一年後。
リオンのもとに、王都から手紙が届いた。
『リオンさんへ。
今年度の王国インフラ稼働率を報告します。99.99%。年間停止時間は48分。リオンさんが設定した目標を、4分上回りました。
手順書のおかげです。チームのおかげです。リオンさんが作ってくれた仕組みのおかげです。
来年は、さらに上を目指します。
エルナ』
リオンは手紙を折り畳み、胸ポケットにしまった。
「よくやった、エルナ」
窓の外で、夕暮れの光が辺境の丘を染めている。セラフィーナが診断結果をまとめ、ミーナが帳簿を閉じ、ドルクが工具を棚に戻している。いつもの夕方だ。
「お疲れ様でした」
ミーナが言った。
「お疲れ様」
リオンは道具を片付け、手を洗い、工房の扉を開けた。
夕風が頬を撫でた。オレンジ色の空の下、村の屋根が並んでいる。魔法陣の光が、地面に淡い紋様を描いている。静かで、穏やかで、何も起きない夕暮れ。
「さて。今日も定時で帰ろう」
その言葉はもう、願いではなかった。ただの日常だった。
【あとがき】
最終話「暇なのが最高なんだよ、運用は」。最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
サーバールームで倒れた男の物語が、辺境の静かな夕暮れで終わる。何も起きない日常こそが、この物語のハッピーエンドです。
全67話、お付き合いいただきありがとうございました。