72。
入学二日目の朝。寮の食堂で向かいに座ったリーナの頭上に、淡いオレンジ色の数字が浮かんでいる。
——72?
昨夜、寮の自室で最後に確認したとき、リーナの好感度は71だった。入学式の後に73から72に落ち、クラス分けで72から71に落ちた。一日で2下がって、71。それが昨夜の最終値だったはずだ。
なのに、今は72。一晩で1ポイント回復している。
寝ている間に戻った? 好感度は覚醒時だけ変動するんじゃなかったのか。それとも、一晩の睡眠でリセットされる成分がある? 人間の感情には「寝て忘れる」という機能がある。些細な苛立ちが一晩で消化されて、基準値に戻る——そういう仕組みかもしれない。
六年間この能力を使ってきて、まだわからないことがある。好感度可視化は、マニュアルのないシステムだ。仕様書がない。パッチノートもない。俺は手探りで法則を推測するしかない。
まあ、いい。72は好意の領域だ。安心できる数字。戻ったなら、それでいい。
「蓮、聞いてる?」
「……ああ、聞いてる」
リーナが翡翠色の瞳を細めた。その視線が、俺の目線の先——自分の頭上あたり——を追っている。まずい。また数字を見ていた。
「はぁ? 絶対聞いてないでしょ。わたしが何の話してたか言ってみなさいよ」
「今日の授業の——」
「それは昨日も言ったパターン。はい不正解」
リーナは呆れたようにため息をつき、スプーンでスープをかき混ぜた。亜麻色の髪がハーフアップに結われていて、襟元には小さなリボンのブローチが光っている。
あれは、子供の頃に俺がリーナにあげたものだ。ローゼン領の祭りで買った、安物のブローチ。まだつけてくれている。
72。安定した暖色のオレンジ。好意の領域。
——なのに、俺は73だったものが72になり、71になり、72に戻ったことが気になって仕方ない。数字は「好意」を示している。それで十分なはずだ。なのに、1の上下に心が引っ張られる。
リーナ・フォン・ヴェルデ。ヴェルデ伯爵家の一人娘で、俺とは物心つく前からの幼馴染だ。
ローゼン領の野原を二人で駆け回った記憶がある。花の冠を作って、互いの頭に乗せ合ったこと。泥団子に花びらを飾って「ケーキだよ!」と差し出されたこと。俺が石に躓いて転んだとき、泥だらけの手で引っ張り起こしてくれた。
「男の子でしょ、泣かないの!」
あの頃から世話焼きだった。
前世の記憶を持つ俺にとって、この世界の「子供時代」は奇妙な体験だった。三十二歳の意識が、子供の体に入っている。最初はリーナと遊ぶのも演技だった。大人が子供のふりをしている居心地の悪さ。
でも、リーナといるときだけ、いつの間にか本気で笑えるようになっていた。泥団子のケーキを本気で食べようとして、リーナに手を叩かれて。二人で転げ回って笑って。三十二歳の記憶なんか忘れて、ただの子供に戻れた。
それが変わったのは、十歳の誕生日だ。
好感度可視化——光神ルミナスの祝福が覚醒した朝。
目を開けたら、母さんの頭上に『94』という数字が浮かんでいた。温かい金色。無条件の愛情。リーナには『80』。眩しいほどのオレンジ。使用人たちには45から62。父上には71。
世界が、数字で見えるようになった。
前世でITエンジニアだった俺は、最初これを「便利な機能」だと思った。人間関係の可視化ダッシュボード。誰に好かれ、誰に警戒されているか、一目でわかる。前世で喉から手が出るほど欲しかったものだ。
便利なはずだった。
午前の講義は基礎魔法理論。大教室で全学科合同だった。
教室に足を踏み入れた瞬間、数字の海が広がる。五十人以上の生徒たち。その頭上に浮かぶ数値の大半は30前後——初対面の初期値だ。灰色に近い、無関心の色。
リーナが隣の席に座った。72。安定。
講義が始まるまでのざわめきの中、前の席の女子が振り返ってきた。
「ねえ、あなた昨日の入学式で——文官科の?」
頭上の数字——34。好奇心寄りの無関心。悪い初期値ではない。
「ああ、柊蓮。よろしく」
にこやかに、でも距離は保って。フレンドリーすぎず、冷たすぎず。相手の数値を見ながら、最適な温度の笑顔を選ぶ。
34が37に上がった。正解。
もう一人の女子にも挨拶を返す。こちらは33。少し話すうちに35へ。教科書の貸し借りで36。共通の話題で38。
簡単だ。数字が見えれば、正解がわかる。
リーナは教科書を開いたまま、こちらを見ていた。数字ではなく——俺が他の生徒と話すときの顔を見ていた。
「蓮、そろそろ先生来るよ」
72。変わっていない。
でもリーナの目に何が映っていたか、俺にはわからない。数字しか見ていなかったから。
昼休み。中庭のベンチに並んで座る。
リーナが差し出したのは、ハムとチーズのサンドイッチだった。レタスが丁寧に挟まっている。朝早く寮の厨房で作ったらしい。
「……うまい」
「当たり前でしょ。何年あんたの好み把握してると思ってんの」
リーナが少し胸を張る。72がちらりと揺れた——73に届いたかもしれない。色味がわずかに暖かくなった。嬉しそうだ。
俺の内心が反射的に分析を始める。「料理を褒める」はリーナに対する効果的な好感度アクションだ。このパターンは覚えておいて——
そう思った瞬間、サンドイッチの味が薄くなった。
口の中のハムとチーズは変わっていない。変わったのは俺のほうだ。「うまい」という感想が、好感度操作の手段に変換された瞬間に、素直な感動が消えた。
リーナは俺のためにサンドイッチを作ってくれた。それは数字とは関係ない、ただの好意だ。なのに俺は、その好意を「好感度上昇要因」として処理した。
「ねえ蓮。覚えてる? うちの庭でよくお菓子作りごっこしたの」
「……泥団子に花びら乗せてケーキ、ってやつか」
「そうそう! 蓮が本気で食べようとしたの」
「食べようとしてない。匂いを嗅いだだけだ」
「嘘。口つけてたもん。わたしが『だめ!』って手を叩いたの覚えてるよ」
リーナがくすくす笑う。つられて俺も笑った。
あの頃の記憶。前世の意識を持ちながらも、リーナと泥まみれで遊んだ午後。泥のケーキを本気で食べようとして叱られた。二人で草の上に寝転がって、何もない空を見上げた。数字のない空を。
「あの頃はよかったなぁ」
リーナがぽつりと呟く。サンドイッチの最後のひとかけらを指で弄びながら、遠くを見ている。
73。上がった。懐かしさと好意が混じった温かい色。オレンジが少しだけ明るくなった。
「蓮、あの頃はもっと——」
73。数字が上がった。
俺はその「上がった」という事実に意識を持っていかれる。ポジティブな記憶の共有は好感度上昇要因だ。過去の楽しかった体験を一緒に振り返ることで、信頼のベースラインが一時的に上昇する。このパターンは他の相手にも応用できる——
「——蓮?」
「あ、ごめん。何?」
「……ううん。なんでもない」
73が、72に戻った。
一瞬の間。ほんの数秒だ。リーナが何か大事なことを言いかけた、その数秒。俺は数字の変動を分析するのに気を取られて、リーナの言葉を聞き逃した。
リーナはサンドイッチの包みを丁寧に畳んで、立ち上がった。
「午後の実習、行ってくるね」
「ああ。頑張れよ」
リーナの背中を見送る。亜麻色の髪が春風に揺れている。その頭上に浮かぶ72が、遠ざかっていく。
……何を言おうとしてたんだ。
「あの頃はもっと——」の続き。もっと笑ってた、か。もっと素直だった、か。もっと——何だ?
数字は「72」としか教えてくれない。リーナが飲み込んだ言葉の内容も、その言葉に込められた感情も——何ひとつ。
夕方。寮の自室で、ベッドに座って一日を振り返る。
頭の中で、今日の数値レポートが自動的に組み上がる。
マリエ——34から41。良好な初期関係構築。セリア——33から39。やや慎重だが順調。基礎魔法理論の教授——45。好印象スタート。
そして、リーナ。72から73。73から72。
プラマイゼロ。——いや。一度上がって戻った。数値は同じでも、中身は違う。上がったのは懐かしい記憶の共有。戻ったのは俺の上の空。差し引きゼロに見えて、実際にはリーナが飲み込んだ言葉がひとつ、宙に消えている。
数字に表れない損失。
ふと、もうひとつの数字が頭をよぎる。リーナの好感度は、子供の頃80だった。あれから六年。80が72まで下がった。六年間で8。年に1以上のペース。
このまま下がり続けたら——
やめろ。幼馴染の好感度の減少率を算出してどうする。リーナは統計データじゃない。
頭を振る。でも、一度始まった計算は止まらない。前世のエンジニア脳が、勝手に傾向線を引こうとする。
数字を見ている限り、俺はリーナの言葉を聞き逃し続ける。
便利な数字は大事なものを覆い隠す。目に見える数値が、目に見えない感情を遠ざける。「あの頃はもっと——」というリーナの言葉が、頭の中でリフレインする。あの頃はもっと、何だ。笑ってた? 素直だった? 本気で向き合ってた?
でも——見ないことなんてできない。
能力は常時ONだ。目を開けている限り、数字が見える。意志の力でOFFにする方法は六年かけても見つかっていない。光神ルミナスの祝福は、返品も交換も受け付けない。
この数字と、どう付き合えばいい?
答えが出ないまま、窓の外に目をやる。春の夕暮れ。橙色の空が、好感度のオレンジと重なって見えた。
翌朝。
食堂でリーナと朝食を取っていると、入り口から見覚えのある姿が入ってきた。
赤茶色の寝癖頭。がっしりした体格。だらしなくまくった制服の袖。山盛りのパンを持って、食堂の隅の席に陣取る。隣の生徒に何か話しかけて、大声で笑っている。
カイル・ブレイド。昨日のオリエンテーションを一緒に回った男。
その頭上——65。
やはり戻っていない。
昨日、教室で初めて会ったときは48だった。半日一緒にいて、別れ際に確認したら65。17ポイントの跳躍。一晩経っても戻らず、65のまま。
リーナの好感度は一晩で71から72に回復した。些細な変動が睡眠でリセットされる、それはわかる。
でもカイルの65は違う。48から65への跳躍は「些細」じゃない。17ポイント。それが一晩経っても微動だにしていない。周囲の生徒たちの数値が入学直後の不安定さで1、2と揺れる中、あいつだけが完全に静止している。
17ポイント上がって、そこで凍った。
「蓮? また上の空?」
「……いや。昨日のやつが気になって」
「はぁ? 入学二日目でもう目移り? 信じらんない」
「そういう意味じゃない」
リーナが呆れた顔でパンをちぎっている。72。安定。いつもの幼馴染のやり取り。
俺はもう一度、食堂の隅に目をやった。カイルはパンを三つ同時に頬張ろうとして、隣の生徒に突っ込まれている。
65。一晩経ってもぴくりとも動かない、奇妙な数字。
——あの跳躍は、何だったんだ?