S03-P02 頭上に『好感度』が見える転生者、人の心がわかりすぎて逆に孤独です

第4話: 数値が動かない男

第1アーク · 4,264文字 · draft

65。

朝の食堂で粥をすくいながら、俺はスプーンの向こう側——三つ離れたテーブルに座る赤茶色の頭を見ていた。

カイル・ブレイド。山盛りのパンと目玉焼きを交互に頬張り、隣の生徒と何か笑い合っている。朝から声がでかい。

そしてその頭上に浮かぶ数値は、入学五日目の今朝も変わらず——65。

初日、教室で出会ったときは48だった。初対面にしては高いが、珍しい数値ではない。

異変はその数時間後に起きた。オリエンテーションを一緒に回って、別れ際にふと確認した数字——65。17ポイントの急上昇。

六年間この能力と付き合ってきて、あれほどの跳ね方は見たことがなかった。好感度は普通、1か2ずつ地道に動くものだ。それが一気に17。しかも俺は意図的に好感度を上げる行動をしていない。褒めてもいない。気を遣ってもいない。ただ一緒に校舎を歩いて、馬鹿話をしただけだ。

なぜだ。あの午後、何が起きた?

答えは出ないまま、そこから四日間——65は微動だにしない。

セリアもヨハンもマルクスも、数値は日ごとに呼吸するように揺れる。朝の機嫌で1上がり、ちょっとした食い違いで2下がり、些細な親切で戻る。それが好感度の自然なリズムだ。

なのにカイルだけが——急上昇の後、ぴたりと止まった。まるで結論を出し終えたかのように。

四日間。誤差ゼロ。

……気になる。


一限目。文官科の経済概論。

白髪の教授が徴税制度の変遷について板書を進めている。羊皮紙にペンを走らせるふりをしながら、俺の頭の中ではまったく別の思考が回っていた。

カイルの65が動かない理由。仮説を三つ立てた。

一つ目——「上限値説」。カイルという人間の、俺に対する好感度の天井が65。つまり、どれだけ仲良くなってもそこが限界。

だが、あいつは七人兄弟の長男で、誰とでもすぐ打ち解ける。社交性の塊みたいな男の上限が65というのは、低すぎる。

二つ目——「感情鈍感説」。感情の振れ幅が狭く、好感度がそもそも変動しにくい体質。

これも怪しい。カイルは怒るときは声を張り上げるし、笑うときは腹を抱える。感情鈍感の対極にいる。

三つ目——「安定型人格説」。一度決めた評価を簡単に変えない性格。

ありえなくはない。でも、安定型の人間でも日内変動が完全にゼロということはない。普通は1か2の揺らぎがある。

どの仮説もしっくりこない。

「蓮、今日はぼんやりしてるな」

隣のマルクスが、声を潜めて耳打ちしてきた。頭上の数値は58。二日間、安定している。

「……考え事だ」

「蓮が授業中にぼんやりって珍しいな。ノート、ほとんど白紙じゃん」

「……あとで写させてくれ」

「はいはい」

マルクスが肩をすくめた。58は動かない。まあ、この程度のやり取りで変動するほうが珍しいが。


昼休み。

訓練場のほうから、規則的な打撃音が聞こえていた。

重い。一定のリズム。木と木がぶつかる乾いた音が、春の空気を切り裂いている。

柵の向こうに、案の定カイルがいた。

制服の上着は脱いで柵にかけてある。白いシャツの背中が汗で肌に張りつき、袖をまくった腕に筋が浮いている。素振りの軌道は毎回同じ角度、同じ速度——に見えて、よく見ると一振りごとにわずかに修正が入っている。体が勝手に最適な軌道を探しているみたいだ。

65。春の日差しの下で、その数字は揺らぎもしない。

俺は訓練場に足を踏み入れた。

「カイル」

「おっ、蓮! お前も振る?」

「遠慮する。——すごいな、毎日やってるのか」

褒めた。明確な賞賛。これで好感度が動くか。

65。

動かない。

「毎日っつーか、飯と素振りと睡眠が俺の三本柱だからな」

カイルは素振りを続けながら答えた。汗がこめかみを伝い、顎先から砂地に落ちる。

次の手。俺はわざとそっけない声を出した。

「まあ、俺には剣のことはよくわからないけどな」

突き放した言い方。関心の薄さを匂わせる。

65。

変動なし。褒めてもそっけなくしても、同じ。

……もう一つだけ試す。

「カイル。正直に言うけど——お前のその安定感、ちょっと羨ましい」

本音だった。計算ではない。数値を気にして一喜一憂する俺と違って、こいつは毎日同じリズムで剣を振り、同じテンションで飯に誘ってくる。その揺るがなさが、単純に眩しかった。

カイルが素振りの手を止めた。琥珀色の目がきょとんとこちらを向く。

「安定感? 俺が? ただ飯食って素振りしてるだけだぞ」

65。

——やっぱり動かない。

「お前ってさ」

カイルが木剣を肩に担いだ。額に張りついた前髪を、空いた手で雑に払う。

「変なところで一生懸命だよな」

「……何がだよ」

「さっきから褒めたり引いたり、なんか試してねえ?」

心臓が跳ねた。見抜かれた——いや、違う。こいつは分析しているのではない。感じたことをそのまま口にしているだけだ。

「……別に。雑談だろ」

「ならいいけどさ。腹減ったな。パン買ってきたんだ、一個やるよ」

カイルが上着のポケットから紙袋を引っ張り出した。中身はくるみパンが二つ。少し潰れている。

「朝、学食で余分に取っといた。蓮、昼飯軽いだろ」

「……毎回、俺の分まで取ってくるのか」

「文官科は頭使うんだろ? 食わないともたないぜ」

訓練場の脇のベンチに並んで座った。くるみパンを齧る。固めの皮に、ほんのり甘い胡桃の香り。カイルは自分のぶんを三口で半分にした。パンくずが膝に散るのも気にしない。

「なあ蓮、お前って兄弟いる?」

「兄が二人」

「俺は七人」

「……七人」

「弟四人に妹二人。末っ子はまだ三つだ」

カイルが空を見上げた。訓練場の上を、春の雲がゆっくり流れていく。

「出発の日、末のリュカが泣いてしがみついてきてさ。母ちゃんが引き剥がすのに五分かかった」

声が少し柔らかくなる。

「奨学金はもらってるけど、騎士になったら仕送りできるんだ。親父は鍛冶師だけど腰を悪くしてて、母ちゃんが畑と内職かけもちしてる。だから——」

言葉を切って、パンの残りを口に放り込んだ。

「まあ、暗い話だな。ごめんごめん」

「暗くない。聞かせろよ」

思ったより強い声が出た。自分でも少し驚いた。

「弟たち、名前は」

「覚えたいのか? えーと、上からアレク、トーマ、フィン、リュカ。妹がエマとソフィ。エマが生意気でさ、俺に向かって『お兄ちゃんの剣なんて棒振りじゃん』とか言うんだぜ。十歳のくせに」

カイルが指を折りながら、弟妹の話を始めた。トーマの食い意地の張りっぷり。フィンが裏山で迷子になった事件。リュカが俺の木剣を持ち出して隣の家の柵を壊した話——怒られたのは俺だ、と。

声が弾んでいる。目が輝いている。こいつが一番生き生きするのは、家族の話をしているときだ。

そして俺は、ふと気づいた。

いつの間にか、カイルの頭上の数字を見ていなかった。

話に引き込まれていたのだ。弟妹のエピソードが可笑しくて、カイルの表情が豊かで、春風が気持ちよくて——数値を確認することを、忘れていた。

慌てて視線を上げる。

65。

当然のように、そこにある。

……ああ、そうか。この数字は、俺が見ていようが見ていまいが、変わらないのだ。

「——で、リュカのやつが『お兄ちゃんと同じ騎士になる!』とか叫んでてさ。三歳だぞ。木の棒振り回して。かわいいんだけどマジで危ないんだよ」

「長男も大変だな」

「大変っつーか、まあ——好きでやってるからな」

カイルがパンくずだらけの手をズボンで拭いた。行儀が悪い。だが、その動作には作り物の優雅さよりよほど清々しいものがあった。


午後の講義を終えて、渡り廊下を歩いているとき。

「蓮」

振り返ると、リーナが廊下の向こうから歩いてきた。魔法科の教科書を胸に抱えている。

「今日もカイルくんと一緒だったの?」

声にかすかな(とげ)が混じっていた。

頭上の数値——70。今朝と変わらない。

「ああ、昼に訓練場でちょっと」

「ふうん。最近、よく一緒にいるよね」

「たまたまだよ。あいつが毎回誘ってくるんだ」

「そう」

短い返事。翡翠色の瞳がこちらを見ているが、その奥に何が浮かんでいるのか、数値だけではわからない。

70。動いていない。でも——数字の色味が、ほんの少しだけ冷えて見える気がした。いつものオレンジがわずかに黄色寄りに。

気のせいかもしれない。数値は整数だ。色味の微差を読み取ろうとするのは、分析脳の悪い癖だ。

「リーナ、午後の実習はどうだった?」

「普通。——じゃあね、蓮。課題やらなきゃ」

リーナが踵を返した。ハーフアップの髪が、渡り廊下に差し込む夕日に透けて揺れる。

その背中を見送りながら、俺は数値を確認した。

69。

——いつ下がった。

さっきまで70だったはずだ。会話の間のどこかで、1落ちた。カイルの話をしたからか。「たまたま」で済ませたからか。それとも、俺の声に入っていたかもしれない、カイルの話をするときだけの温度——。

わからない。好感度可視化(フェイバー・サイト)は数値の変動を教えてくれるが、理由までは教えてくれない。

渡り廊下に、リーナの足音が遠ざかっていく。

69。入学初日の72から、六日で3つ下がった。


夕方。

寮に戻ろうと校舎を出たとき、訓練場の方角からまた木剣の音が聞こえた。

昼と同じリズム。同じ重さ。影が長くなった訓練場で、カイルがまだ振っていた。

65。

俺は柵にもたれて、その姿を眺めた。

考えていた。

こいつの65は、俺がどう振る舞っても変わらない。褒めても。素っ気なくしても。本音をぶつけても。

でもそれは、「興味がない」とは違う。

毎日、昼飯に誘ってくる。俺の分のパンを余分に取っておいてくれる。弟妹の話を嬉しそうに聞かせてくれる。バカ笑いして、くだらない冗談を飛ばして、何の計算もなく隣に座る。

65は好意の数字だ。50以下が無関心の領域なら、65は明確に——「こいつのことが好きだ」の圏内にある。

ただ、動かないだけだ。

そしてそれが——不思議と、楽だった。

最適化しなくていい相手。好感度を上げようと言葉を選ばなくていい関係。下がるかもしれないと怯える必要がない。何をしても65。何もしなくても65。

この五日間で初めて出会った感覚だった。いや——この異世界に転生してからの六年間で、こんな相手は一人もいなかった。

「蓮ー!」

カイルが素振りの手を止めて叫んだ。夕焼けの訓練場に、でかい声が突き抜ける。

「もう一セットやるから見てけよー!」

手を振っている。汗だくのシャツ。乱れた赤茶色の髪。琥珀色の目が、夕日を受けて笑っている。

65。変わらない。

でもあの声の大きさは——数字なんかより、ずっと確かなものだった。

「……しょうがないな」

俺は柵を越えて、訓練場に足を踏み入れた。

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