69。
朝の食堂。向かいに座ったリーナの頭上に、くすんだオレンジ色の数字が浮かんでいる。昨日の終わりには70だったはずだ。一晩のうちに、また1落ちた。
入学初日は73だった。七日目の朝で、もう69。
俺はライ麦パンにバターを塗りながら、頭の中で折れ線グラフを描いていた。73から始まる線は、小さな上下を繰り返しながら、確実に右肩下がりのトレンドを刻んでいる。
「蓮、ジャム取って」
「……ああ」
杏のジャムの小瓶を差し出す。受け取るリーナの指先が、一瞬だけ俺の指に触れた。
69。動かない。
以前なら——入学して間もない頃なら、こういうちょっとした接触で数字の色味がふわりと揺れることがあった。ほんの一瞬だけ暖色が深まる、あの微かな変化。それが今日はない。
リーナはジャムをパンに塗りながら、窓の外に目を向けた。春の朝日が中庭の新緑を透かしている。亜麻色の髪がその光を受けて淡く輝いていた。
きれいだ、と思う。思うのだが、俺の目はリーナの頭上を離れられない。
一限目。文官科の教室。
教授の講義は上の空だった。俺はノートの余白に、記憶を頼りに数字を書き出していた。
73、72、71、72→73→72、72→71→70、70→69、69——
隣のマルクスが覗き込もうとしたので、さりげなく肘でノートを隠す。マルクスの頭上は『58』。安定。いい奴だが、今はそっちに気を回す余裕がない。
数列を眺める。前世なら、このデータを散布図にプロットして変動要因を分析するところだ。
……幼馴染の心の動きを、業務レポートと同じ手法で解析しようとしている自覚はある。気持ち悪い。でも、他にやり方を知らない。
仮説を並べてみる。
特定の話題がトリガーになっている? 三日目の「誰にも優しくないのと同じ」発言は明確な下落要因だった。だが四日目以降は、特に地雷を踏んだ覚えがない。
時間帯? 下落を観測するのは主に朝だが、それは朝が最初の計測タイミングだからにすぎない。
特定の人物——カイルとの接触が関連している? 四日目、カイルの素振りを見に行った帰りに70から69に落ちた。だがそれは相関であって因果の証明にはならない。
どの仮説も決定打を欠いている。変数が多すぎて、制御実験ができない。
昼休み。中庭のベンチ。
いつもの場所にリーナが先に座っていた。俺は隣に腰を下ろし、学食で買ったサンドイッチを広げる。
意識的にリーナの顔を見ようとした。翡翠色の目。頬にかかる後れ毛。——だめだ。視線が数字に吸い寄せられる。69。そこにある。ずっとそこにある。
春風がベンチの脇を吹き抜けた。植え込みの白い花が揺れている。
「蓮」
「ん?」
「最近——なんかわたしのこと、観察してない?」
手が止まった。サンドイッチのレタスが一枚、膝の上に落ちた。
「……は? 何言って——」
「ときどき、目が泳ぐの。わたしと話してるとき。前からそういうとこあったけど、最近ひどくなってる」
リーナの声は責めるようでも怒っているようでもなかった。ただ静かに、事実を述べている。その冷静さが余計に刺さった。
返事を組み立てようとする。最適な言葉を探す。だがそれ自体が「観察」の延長だと気づいて、喉が詰まった。
「いや、その……別に、そんなつもりは」
沈黙が落ちた。
俺の言葉は途中で力を失い、春の空気に溶けて消えた。不自然な間。ベンチの木目を見つめるリーナ。視線を合わせられない俺。
「……ごめん、変なこと聞いた」
リーナが立ち上がった。弁当の包みを手早く片付ける。
「午後の実習、準備あるから」
「あ、ああ。わかった」
リーナが歩き出す。その背中の頭上で、数字が動いた。
68。
会話がぎこちなくなっただけだ。それだけで——1ポイント。
放課後。俺はリーナの好感度を取り戻すべく動いた。
まず、購買部に走った。リーナの好物——蜂蜜漬けのドライフルーツ。小さな紙袋に入ったそれを握りしめ、渡り廊下でリーナを待つ。
魔法科の授業を終えたリーナが通りかかった。
「リーナ。これ、購買で見かけたから」
紙袋を差し出す。リーナが受け取り、中を覗いた。
「蜂蜜漬け……。ありがと」
声は穏やかだった。でも、その目がわずかに曇ったのを、俺は見逃さなかった。
68。動かない。
次の手。渡り廊下のベンチに並んで座り、昔の話を持ち出す。以前、思い出話で72が73に上がった実績がある。
「覚えてるか。ガキの頃、ヴェルデ邸の裏の森で迷子になったこと」
「……あったね」
リーナが少し笑った。
「蓮が『俺が道を見つける』って言って、枝で地面に変な地図描いてたやつ」
「変な地図って言うな」
「全然合ってなかったじゃん。結局わたしが太陽の方角見て帰り道見つけたんだから」
リーナの笑顔が広がる。翡翠の目が細まり、頬にかすかなえくぼ。この笑顔は本物だ。
68。
色味がわずかに揺らいだ気がした。上がりかけている? もう少し押せば——
「泣き虫だったくせに、方向感覚だけはやたら良かったよな」
「泣き虫じゃないし!」
リーナが俺の肩を軽く叩いた。笑っている。会話は弾んでいる。
68。
色味は——戻っていた。笑顔はある。でも数値に反映されない。
最後の手段。直接聞く。
「なあ、リーナ。最近——何か困ってることあるか?」
リーナの笑顔が消えた。口元が一瞬だけ強張り、すぐに元に戻る。でも目の奥の光は戻らなかった。
「……別に」
68——いや。
67。
善意の質問で——落ちた。
「蓮」
リーナが俺を見上げた。翡翠の目が、真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。
「お菓子くれたり、昔の話したり、急に心配してきたり——何? 何かやらかした?」
「いや、何も——」
「じゃあ何で急にこんな——」
リーナが口をつぐんだ。数秒の沈黙。春風が二人の間を通り抜けた。
「……もういい」
立ち上がり、紙袋だけをベンチに残して、リーナは行ってしまった。背中は振り返らない。肩が小さく強張っているのが見えた。
67。夕日に照らされた数字が、やけに鮮明だった。
お菓子を渡しても動かず。思い出話でも戻らず。直接の気遣いで——マイナスが入った。
六年間この能力と付き合ってきて、善意の行動が好感度を下げたのは初めてだった。
いや——本当に「善意」だったのか?
その問いが浮かんだが、俺はまだ答えを出せなかった。
夜。寮の自室。
机の上にノートを広げ、左のページにリーナの好感度推移を書き出す。右のページには、各下落ポイントの状況メモ。前世の手書きスプレッドシートだ。
73、72、71、72→73→72、72→71→70、70→69、69→68→67——
右肩下がりの線を、指でなぞった。
コンコン。
「蓮、起きてるか。カイルだけど」
ドアを開けると、赤茶色の寝癖頭がひょっこり現れた。
65。いつもの数字。翌日に跳ね上がって以来、一度も動かない、あの数字。
「どうした、こんな時間に」
「いや、隣の部屋通ったら灯りついてたからさ。暇だったし」
カイルが部屋に入り、椅子を引っ張り出して逆向きに座った。背もたれに顎を乗せる。
「で、お前さ。なんか最近——リーナちゃんのこと気にしすぎじゃね?」
単刀直入だった。いつものことだが。
「……なんでそう思う」
「だってお前、昼飯のときリーナちゃんの方ばっか見てたし。放課後、わざわざ菓子買って渡してたろ。窓から見えたぞ」
俺はノートの好感度グラフを手で隠しながら、リーナとの経緯だけを話した。数値は伏せて。最近そっけない。心配して声をかけたら逆に怒らせた。原因がわからない。
カイルは珍しく黙って聞いていた。琥珀色の目が、いつもの能天気さを消して、俺をまっすぐ見ている。
「蓮さ」
「ん」
「お前ってさ、リーナちゃんのこと一生懸命『ケア』しようとしてるよな。菓子買って、昔の話して、『大丈夫か』って」
「……ああ」
「それってさ——リーナちゃんのためにやってんの? それとも、お前が安心したくてやってんの?」
空気が止まった。
春の夜風が窓の隙間から入り込んで、ノートのページをぱらりとめくった。好感度推移のグラフが一瞬だけ見えて、また隠れた。
俺は——何も言えなかった。
「さあ、俺にはわかんねーけど」
カイルが椅子の背もたれから顎を離し、首をこきりと鳴らした。
「でも、女の勘ってすげーから。リーナちゃんは多分、その違い——わかってんじゃねえの」
65。探りも悪意もない声。ただ見たことを、思ったことを、そのまま口にしているだけ。
「まあ、七人兄弟の長男として言えんのは——弟妹が機嫌悪いときは、原因探るより黙ってそばにいるほうがうまくいくぜ」
カイルが立ち上がり、ドアに手をかけた。
「じゃ、おやすみ」
「……おやすみ」
がちゃり。ドアが閉まった。
一人になった部屋に、静けさが戻る。
俺はノートに目を落とした。好感度推移のグラフ。73から67へ、七日間で6ポイント下がった右肩下がりの線。
——お前が安心したくてやってんの?
カイルの言葉が、頭の中で繰り返される。
お菓子を買ったのはリーナのため。思い出話もリーナのため。「困ってることあるか」もリーナのため。
嘘だ。
全部、68を69に戻すためだった。67を68に戻すためだった。数字が回復して、俺が安心するためだった。リーナのためじゃない。俺のためだ。
リーナは数字なんか見えない。でも——態度は見える。
「最近、なんかわたしのこと観察してない?」
「お菓子くれたり、昔の話したり、急に心配してきたり。何?」
全部、見抜かれていた。俺が「いつもと違う」ことを。その「いつもと違う」が自分に向けた本物の心配ではなく、何か別のもの——数字を追い回す焦燥から来ていることを。
リーナは好感度可視化を知らない。知らなくても、わかっている。
俺は数字を追いかけている。リーナは、数字を追いかけている俺を見ている。
追いかけるほどに、リーナは遠ざかる。数字は下がる。下がるから、また追いかける。追いかけるから、また下がる。
マイナス1。
たった1ポイントのはずなのに、その「1」が途方もなく重い。なぜなら、その「1」の裏側には——俺が見ていないリーナの感情がある。数値には変換されない、言葉にもならない、翡翠の目の奥に沈んだ何か。
窓の外を見た。春の夜空に、二つの月が静かに浮かんでいる。月明かりが机の上のノートを青白く照らしていた。
ノートを閉じた。
答えはまだ見えない。数字を追うのをやめろと言われても、能力は常時ONだ。見ないことなんてできない。
でも——問いだけは、今夜カイルがくれた。
「リーナのためか、お前が安心したいだけか」。
その問いを抱えたまま、俺は窓の外の月を見つめていた。春の夜風が頬を撫でていく。新緑の匂い。どこかで夜鳥が鳴いている。
ノートの中の右肩下がりの線。その先に何があるのか、まだわからない。
でも——数字の裏側にリーナがいることを、忘れてはいけない。
カイルの65は、明日もきっと動かない。あいつだけは、俺が何をしても何もしなくても、同じだ。
その「同じ」が、今夜はいつもより少しだけ——ありがたかった。