◆よしこ視点
朝、五時半。
目が覚めた。
保育園におった頃と同じ時間に体が起きる。40年分の体内時計は異世界に来ても変わらへん。
ベッドから起きて、顔を洗って、ローブを着る。——相変わらず動きにくいこのローブ。エプロンが恋しいわ。
さて。
廊下に出た。
石造りの長い廊下。松明の灯りがぼんやり揺れとる。
歩く。
角を曲がると、見張りの兵士がおった。大きな角が二本生えた、ごつい魔族。こっちに気づいて、体を強張らせとる。
「おはよう(^^)」
「…………は?」
「おはよう。今日もお疲れさん」
「……ま、魔王様……? お、おはようございます……?」
ぎこちないけど、返してくれた。
「ええ天気になりそうやな。朝ごはんもうすぐやからね」
「は、はぁ……」
兵士が困惑した顔しとる。まぁそうやろな。先代の魔王は挨拶なんかせんかったらしい。
でも、挨拶は大事や。
保育園の最初の仕事は「おはよう」を言うことやった。
おはよう、って言われたら、「ここにおってええんや」って思える。それだけで一日が変わるねん。
廊下を歩く。
次の角にも兵士がおった。
「おはよう(^^)」
「お、おはようございます……!」
さっきの兵士より返事が早い。この子は三日前から返してくれるようになった。
次の通路。掃除をしとる魔族がおった。
「おはよう(^^) 掃除ありがとうな。綺麗になっとるわ」
「……え。あ、ありがとうございます……」
褒められ慣れてへんねんな、みんな。
先代の魔王は「やって当たり前」やったらしいから。
でもな。
「やって当たり前」のことをやっとる人に「ありがとう」って言うのが、一番大事やねん。
保育園でも掃除のおばちゃんに「ありがとう」って園児が言えるようになるのに、半年かかった。でも一回言えたら、あとは毎日言えるようになる。
厨房に向かう。
今日も朝ごはん作らな。パンを焼いて、スープを仕込んで——
「——あ。ヴェルちゃん」
「ヴェルザです。——おはようございます、魔王様」
ヴェルザが厨房の前に立っとった。背筋がぴしっとしとる。
「朝から立っとったん?」
「……魔王様の安全を確保するのは、四天王筆頭の務めでございます」
「ありがとうな(^^) でもそれより——」
わては、ちょっと姿勢を正した。
「ヴェルちゃん。ちょっとお願いがあるねんけど」
「ヴェルザです。——何なりと」
「侍女さん、おるやろ? 城に」
「…………侍女、でございますか」
「うん。わたくしの身の回りの世話をしてくれる子。おる?」
ヴェルザが少し考える顔をした。
「……おります。ティアと申す者が。ただ、先代魔王は侍女を必要とされませんでしたので、実質的には清掃と洗濯を——」
「その子、わたくしの担当にしてくれへん?」
「……かしこまりました。すぐに手配いたします」
「ありがとう(^^) あと、調査隊の件、掃除どこまで進んだ?」
「玄関ホールと大広間は完了いたしました。客間の整備を本日中に——」
「よし。ほなわてはごはん作るわ。掃除組にもパン焼いたるからな」
「…………魔王様。魔王が自ら兵に朝食を、というのは——」
「いまさらやん(^^)」
「…………はい」
ヴェルザが諦めた顔をした。
この顔も見慣れてきたなぁ。
厨房に入る。
ガルくんがもう来とった。
「おはようございます、よしこさん……!」
「おはよう、ガルくん(^^) 今日のスープ何にする?」
「あの……にんじんと、かぶと……」
「ええな(^^) ほなそれで行こか」
レオンくんも来た。
「……おはよう」
「おはよう、レオンくん(^^) 今日は自分から言えたな。えらいえらい」
「……べ、別に。習慣になっただけだ。褒めんな」
リーゼちゃんも来た。
無言で席につく。——と思ったら。
「……おはよう」
——あ。
この子が、自分から言った。
「おはよう、リーゼちゃん(^^)」
なんでもないように返す。大げさに褒めたら、この子は引っ込んでしまう。
でも——わて、今ちょっと泣きそうになった。40年やっとると、この瞬間がどれだけ大きいかわかるねん。
四人で朝ごはんを作る。
もう当たり前になった。
この当たり前が——ほんまにええなぁ。
……あ。関西弁がまた漏れとった。
えーっと。
「わたくしは……ご機嫌麗しゅう……本日も清々しい朝で……」
「魔王様。取り繕わなくてよろしいかと」
「……あ、バレた?(^^)」
「初日からバレております」
ヴェルザのツッコミが今日も冴えとる。
◆ティア視点
ヴェルザ様に呼ばれた。
「ティア。新しい魔王様の身の回りの世話を担当せよ」
「……え」
「聞こえなかったか」
「い、いえ……聞こえました。ただ……わ、わたしが、ですか……?」
「お前以外に侍女はおらぬ」
「は、はい……」
わたしは120年間、この城で侍女をしている。
掃除と洗濯。それがわたしの仕事。
先代魔王にお茶を出したことが、二回ある。
一回目は、お茶が冷めるまで気づかれなかった。
二回目は、「下がれ」の一言だった。それがわたしに向けられた、唯一の言葉。
名前を呼ばれたことは——一度もない。
「侍女」。それがわたしの名前だった。
120年間、毎朝廊下を拭いた。誰かが「おはよう」と言ってくれるかもしれないと思いながら。一度もなかった。
新しい魔王様は——変わっている、と聞いている。
勇者にごはんを出している、と。
兵士に「おはよう」を言う、と。
——そんなことがあるわけない。
尻尾がきゅっと縮んだ。期待すると、いつもこうなる。
魔王様の部屋の前に来た。
扉をノックする。手が震えている。
尻尾がぴーんと立ってしまう。緊張するといつもこうなる。
「はーい(^^)」
……はーい?
扉が開いた。
長身の美女。漆黒の髪。深紅の瞳。小さな角が二本。
——魔王ヴォルグラーナ様。
威圧的な外見なのに、笑顔が——
なんというか——近所のおばちゃんみたいだった。
「あんたがティアちゃん?」
「…………え」
「ヴェルちゃんから聞いたで。お世話してくれるんやろ? ありがとうなぁ(^^)」
ティア「ちゃん」。
名前を。
呼ばれた。
「あ、あの……ティア、です。は、はい……」
尻尾がパタパタ動いてしまう。やめて。今は動かないで。
「かわいい尻尾やなぁ(^^) ふわふわやん」
「ッ——! す、すみません、勝手に動いて……!」
「なんで謝るん? かわいいもんはかわいいよ(^^)」
この方は——何を言っているんだろう。
魔王が侍女の尻尾を「かわいい」と——?
「あのな、ティアちゃん」
「は、はい……」
「もうすぐ朝ごはんやねんけど——」
……あ。はい。お持ちするのですね。お部屋に。
「一緒に食べよ(^^)」
「…………え?」
「一緒に。食堂で。みんなで食べるんよ」
「で、ですが……わ、わたしは侍女で……」
「侍女も朝ごはん食べるやろ?」
「い、いえ、その……侍女は皆様のお食事の後に、厨房の残りを……」
「…………」
魔王様の表情が変わった。
笑顔のままなのに——目だけが、少し鋭くなった。
「残り物?」
「は、はい……それが通例で……」
「…………」
沈黙。
わたし、何か失礼なことを——
「ティアちゃん」
「は、はい……!」
「今日からうちの食卓で一緒に食べよな(^^) 残り物やのうて、ちゃんとしたごはん」
「で、ですが——!」
「命令やったら聞いてくれる?」
「……え」
「ほな魔王命令(^^) ティアちゃんは今日から食卓に座ること。以上」
「…………」
命令。
魔王からの、命令。
120年間で初めての「命令」が——一緒にごはんを食べなさい、だった。
「……は、はい……かしこまり、ました……」
尻尾が、もう止まらない。
パタパタパタパタ。
食堂に着いた。
大きなテーブル。椅子が並んでいる。
——人間の子どもが三人、座っていた。
「あ、新しい人だ……! は、初めまして……えへへ」
大きな男の子が、緊張した顔で笑った。
「……」
銀髪の女の子が、静かにこちらを見た。
「……誰だよ」
赤い髪の男の子が、ぶっきらぼうに言った。
「ティアちゃんや(^^) 今日から一緒にごはん食べるで」
「……また増えんの?」
「増えるんやない。家族が増えるんや(^^)」
「か、家族……!?」
赤い髪の子が変な声を出した。
魔王様がわたしの背中をそっと押した。
食卓の椅子を引いてくれた。
「ほら、座り(^^)」
「……は、はい……」
座った。
テーブルの上に——パンと、スープと、焼き魚と、卵焼き。
全部、温かい。
全部、今朝作ったもの。
残り物じゃない。
「いただきます(^^) みんなも、ほら」
「いただきます……!」
「……いただきます」
「べ、別に……いただきます」
わたしも——
「……い、いただき、ます……」
スープを一口飲んだ。
かぶと、にんじん。
温かい。
ちゃんと味がする。
「……っ」
涙が出そうになった。
やめて。泣かないで。侍女が泣くなんて。
尻尾がパタパタパタパタ止まらない。
「ティアちゃん、美味しい?(^^)」
「……お、美味しい、です……」
「よかった(^^) ガルくんのスープ、美味しいやろ?」
「ぼ、僕が作ったんです……えへへ」
大きな男の子が照れている。
この子が——勇者パーティの?
「……明日も、一緒に食べよな(^^)」
「……は、はい」
明日も。
明日も、ここに座っていいんだ。
「ティアちゃん」
「はい……」
「朝ごはんの前に、一つ教えといたるわ」
「……な、何でしょう……」
「この城ではな——朝起きたら『おはよう』って言うんよ(^^)」
「…………」
「明日、言えるかな?」
尻尾が——もうどうしようもないくらい、パタパタしている。
「……は、はい。——おはよう、ございます」
「ふふ(^^) まだ朝やから、ちょうどええな」
魔王様が笑った。
近所のおばちゃんみたいな笑顔で。
——120年間、誰にも名前を呼ばれなかった。
「一緒に食べよう」なんて、言われたことがなかった。
今日、初めて。
わたしは——名前のある人になった。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第11話、Arc2の開幕です。
「おはよう」って言葉は、たった四文字なのに「あなたがここにいることを認識しています」という意味を持っています。よしこが城中を歩いて「おはよう」を言い続ける。兵士たちが最初は困惑して、少しずつ返せるようになる。それは「見てもらえている」と感じた瞬間です。保育園で毎朝やっていたことと、何も変わらない。
ティアは120年間、名前を呼ばれなかった侍女です。「侍女」が名前だった。そんな子に「ティアちゃん」と呼びかけ、「一緒にごはん食べよ」と言う。よしこにとっては当たり前のことなんです。でもティアにとっては、120年で初めてのこと。尻尾が止まらないのは、嬉しくて嬉しくて、体が正直だから。
Arc2のテーマは「おはようを言い合える場所がある幸せ」です。日常が深まり、四天王が全員登場し、この城がもっともっと温かい場所になっていきます。
ちなみに——ティアの心の中で一瞬だけ出てきた「魔王ヴォルグラーナ」という名前。実はちゃんと設定があります。魔王の座を継ぐ瞬間、玉座の魔法陣が新しい魔王の魂を読み取って、古代魔族語の「真名」を授けるんです。代々の魔王ごとに違う名前がつく。ティアは継承記録で調べていたので、畏敬を込めてこの名前で呼びました。
よしこ本人はこの名前を知りません。教えたとしても「ヴォルグ……ヴォグラ……? あかん舌回らんわ。よしこでええよ(^^)」って言うと思います。先代魔王にも真名があったのですが——それはまた別のお話。あんまり使わない設定ですが、こういう裏設定が物語のどこかで効いてくる……かもしれません。
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次回、第12話「四天王、困惑する」。残り三人の四天王が魔王に会いに来ます。腕相撲、焼き菓子、膝の上——それぞれの「陥落」をお楽しみに。