◆ティア視点
廊下を拭いていたら、厨房からいい匂いがした。
——また、ガルド様だ。
最近、この時間になると厨房から匂いがする。よしこ様に教わった料理を、一人で練習しているらしい。
わたしには関係ない。
わたしの仕事は、この廊下を拭くこと。
……でも、足が止まる。
鼻がひくつく。
野菜の、甘い匂い。
にんじん、かな。かぶも入ってる。
——通り過ぎよう。
侍女が厨房を覗くなんて、おかしい。
足を動かした。
通り過ぎた。
……三歩戻った。
尻尾が勝手にぱたぱた揺れている。やめて。今は動かないで。
「あ——」
目が合った。
ガルド様が鍋の前に立っていて、こっちを見ていた。
「ティアさん……!」
「す、すみません……通りかかっただけで……」
逃げようとした。
「あ、あの——!」
ガルド様の声が、わたしの背中に当たった。
大きな体のわりに、小さな声。
「……味見、してもらえませんか」
——え。
「す、スープを作ってるんですけど……自分だと味がわからなくて……よしこさんはまだ来なくて……」
味見。
わたしに?
「……あの、迷惑だったら——」
「い、いえ……!」
迷惑なわけない。
迷惑なわけ——
ただ。
120年間。
「仕事以外」で何かを頼まれたことが——ない。
掃除をしろ。洗濯をしろ。お茶を出せ。下がれ。
それが、わたしに向けられてきた全ての言葉。
「味見してもらえませんか」は、仕事じゃない。
これは——お願い、だ。
尻尾が千切れんばかりにぱたぱたぱたぱた振れている。
お願いします、やめて。今だけは静かにしていて。
「……は、はい。味見、します」
声が震えた。
でも、尻尾よりはましだった。
◆ガルド視点
ティアさんが厨房に入ってきた。
小柄で、おとなしそうで——尻尾がすごく揺れている。
……あれ、嬉しいのかな。
いや、聞いたら失礼だ。
スープを器によそう。手が震える。
こぼすなよ、ガルド。落ち着け。
「あ、あの……熱いので、気をつけて」
「……は、はい」
ティアさんがスプーンを持った。
小さな手。
一口。
——じっと待つ。
心臓がうるさい。
よしこさんに「上手やん」って言ってもらえたスープ。でもよしこさんは優しいから、本当は味がおかしくても褒めてくれるかもしれない。
だから、別の人に聞きたかった。
ティアさんが——
「……美味しい、です」
「ほ、本当ですか……?」
「はい。にんじんが……甘くて。かぶも、柔らかくて……」
よかった。
よかった……!
嬉しくて、顔が緩む。
えへへ、って笑いそうになった。——いや、堪えろ。初めてまともに話す人の前で「えへへ」はまずい。
「……あの、ガルド様」
ティアさんが、スプーンを置いた。
尻尾がもじもじ揺れている。
「様はいらないです……僕なんか……」
僕は元農家の、戦えない戦士だ。「様」をつけられるような人間じゃない。
「……わたしも、です」
「え?」
「わたしなんか……様をつけていただくような者では……」
——あ。
「僕なんか」。
「わたしなんか」。
同じだ。
同じ言葉を、使っている。
「…………」
「…………」
沈黙。
スープの湯気だけが、ゆらゆら揺れている。
「……僕たち、口癖が同じですね」
言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。
でもティアさんが——
ふっ、と笑った。
ほんの少し。口元だけ。
それにつられて、僕も笑った。
大笑いじゃない。声も出ない。
ただ——同じことで、同じように笑った。
尻尾が、ゆらゆら揺れている。
穏やかな揺れ方。嬉しいともぱたぱたとも違う——なんだろう、これ。
居心地が、いい。
◆ティア視点
笑ってしまった。
120年ぶりかもしれない。仕事と関係ないことで笑ったのは。
ガルド様——ガルドさん? いや、まだ「様」を外す勇気はない——が、鍋のほうに向き直った。
「……もう一杯、飲みますか?」
小さな声。
大きな背中。
断る理由がない。
断りたくもない。
「……はい」
尻尾がぱたぱた揺れた。——もう隠すのを諦めた。
ガルド様がスープをよそってくれる。
さっきより少し多い。
「あ、多かったですか……? す、すみません——」
「い、いえ……嬉しい、です」
嬉しい。
こんな小さなことが、嬉しい。
120年間、誰もわたしにスープをよそってくれなかった。わたしがよそう側だった。いつも。ずっと。
二杯目のスープを飲む。
一杯目と同じ味。にんじんの甘さ。かぶの柔らかさ。
でも、少しだけ——美味しく感じる。
「……あの」
「は、はい」
「わたし……毎朝、この時間に廊下を拭いています」
何を言っているんだろう、わたしは。
「……もし、また練習されるなら……その……」
言えない。「味見します」なんて、図々しい。侍女が。
「……来てくれますか?」
——え。
ガルド様が、こっちを見ていた。
困り顔。眉が下がっている。
でも——目は、真っ直ぐだった。
「僕、自分の味がわからなくて……。ティアさんに教えてもらえると、助かるんです」
教えてもらえると。
わたしに。
尻尾がぴーんと立った。——緊張。
それからぱたぱた。——嬉しい。
それからもじもじ。——恥ずかしい。
忙しい。しっぽが忙しい。
「……はい。わたしで、よければ」
「ありがとうございます……!」
ガルド様が笑った。
大きな体で、小さく「えへへ」と。
——あ。この人も、わたしと同じだ。
大きいのに、小さい。
強そうなのに、おどおどしている。
「僕なんか」って言う。「わたしなんか」って言う。
全然違うのに、同じところがある。
それが——なんだか、不思議で。
不思議で、あったかい。
空になった器を持って、厨房を出る。
「あ、ティアさん——器、僕が洗います」
「い、いえ、わたしが——」
「僕が作ったスープだから、片付けも僕が。よしこさんに言われたんです。『作った人が洗うんやで』って」
——よしこ様らしい。
「……では、お言葉に甘えます」
「はい。……また、明日」
また、明日。
その言葉が、胸に残った。
廊下に出る。
雑巾を手に取る。
いつもの仕事。いつもの廊下。
でも、少しだけ。
ほんの少しだけ——足取りが軽い。
尻尾がゆらゆら揺れている。
穏やかに。静かに。
——しっぽは正直だ。
わたしよりも、ずっと。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第14話「しっぽは正直」は、ティアとガルドの話です。
今回、よしこは直接登場しません。でも「厨房を使っていいと言ったのはよしこ」「作った人が洗うんやで、と教えたのはよしこ」——背景にちゃんといます。よしこが作った「場」の中で、子どもたちが自分で関係を築き始めている。それがArc2の醍醐味です。
「僕なんか」と「わたしなんか」。二人とも自分を低く見ている。でも同じ口癖に気づいて、ちょっと笑える。泣かない話を書きたかった。ここまで泣きすぎたので。静かな共鳴——同じ周波数の人が隣にいると気づく、あの感覚を書きたかったんです。
しっぽの感情表現、書いていて楽しいです。ぱたぱた(嬉しい)、ぴーん(緊張)、もじもじ(恥ずかしい)、ゆらゆら(穏やか)。ティアの心は言葉にできないけど、しっぽが全部喋ってしまう。
次回、第15話「雨の日のおかゆ」。リーゼが体調を崩します。よしこの看病回です。
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