◆ヴェルザ視点
城の最奥。
東塔の四階。
誰も来ない廊下を、私は歩いていた。
ここに用はない。用があって来たわけではない。
ただ——足が向いた。
月に一度ほど、こうなる。
何かの拍子に、足がこの場所を選ぶ。
廊下の突き当たり。
大きな扉。
黒い鉄の装飾。金の紋章。先代魔王家の家紋。
——先代魔王の、お部屋だ。
先代が亡くなられてから、誰も開けていない。
掃除すら入れていない。私が禁じた。
ここだけは——このままに、しておきたかった。
「…………」
扉に手を触れる。
冷たい鉄の感触。
300年前。
私がまだ若く、この城に来たばかりの頃。
この扉の前で膝をつき、初めて忠誠を誓った。
『ヴェルザと申すか。顔を上げよ』
低く、冷たく、だが威厳に満ちた声。
あの方は——いつもそうだった。
冷酷で、非情で、容赦がない。
敵も味方も、等しく恐怖した。
魔族をまとめるために恐怖を選んだ。
それが最も合理的だと——あの方は知っていた。
「…………」
扉の前で立ち止まる。
手が離せない。
300年仕えた。
大戦で同胞の半数を失った冬。あの方は一晩中、この机で戦死者の名簿を読んでいた。
飢饉の年。あの方は自分の食事を減らし、兵に回した。誰にも言わず。私だけが気づいた。
四天王の一人が裏切った百五十年前。処刑の命を下した後、あの方はこの部屋で——一人、壁を向いていた。
あの方は笑わなかった。
一度も。
300年で——ただの一度も。
いや。一度だけ、口元が緩んだことがある。飢饉の後、最初の収穫が城に届いた朝。あの方は麦の穂を手に取って——ほんの一瞬だけ。
あれを笑顔と呼んでいいのかはわからない。だが——私はあの瞬間を、300年経った今も覚えている。
「ヴェルちゃん、こんなとこにおったん」
——心臓が止まるかと思った。
振り返ると、魔王様がいた。
黒と紫のローブを着た、長身の美女。だが目だけが優しい。どこからどう見ても威厳があるのに、口を開くと全部台無しになる、あの方が。
「ま、魔王様……! なぜこちらに……」
「いや、ヴェルちゃんの姿が見えへんから探しとってん。ティアちゃんに聞いたら『東塔のほうに行かれました』って」
「ヴェルザです」
「で、ここ何の部屋?」
魔王様が扉を見上げた。
黒い鉄と金の紋章。
——この方は、まだこの部屋を知らない。
「……先代魔王の、お部屋でございます」
「先代」
「はい。魔王様の、前の——魔王の」
「ああ、わてが来る前の人か」
関西弁である。もう指摘する気力もない。
「入ってみてええ?」
「…………」
その問いに、私は言葉を失った。
300年、この扉を開けることを拒んできた。
誰にも触れさせなかった。
だが——
「……どうぞ」
なぜ、そう答えたのか。
自分でもわからない。
扉を開いた。
重い音がして、埃が舞った。
◆よしこ視点
部屋に入った瞬間、空気が変わった。
埃の匂い。冷たい空気。高い天井。
窓のカーテンは閉じられていて、薄暗い。
でも——荘厳な部屋やった。
大きな机。書類が積まれたまま。
壁一面の本棚。
鎧が飾られている。黒い、立派な鎧。
マントがかけてある。深紅の、金の刺繍が入ったマント。
「……ここに、おられたのです」
ヴェルちゃんの声が、いつもと違う。
硬い軍人口調は同じやけど——その奥に、何かが揺れとる。
「300年、この場所で、魔族を統べておられました」
「…………」
わては黙って聞いた。
ヴェルちゃんが、机の上の書類に目を落とす。
「あの方は……厳格なお方でした」
「厳格」
「はい。冷酷で、非情で——敵を容赦なく滅ぼし、味方にも厳しく、恐怖で統治されました」
「…………」
「部下が失敗すれば処罰した。裏切れば、一族ごと滅ぼした。——それが、あの方のやり方でした」
ヴェルちゃんが、鎧を見た。
「だが——」
声が、少し震えた。
「あの方は、正しかったのです」
「…………」
「魔族は争いの種族です。力なき者は従わない。恐怖がなければ、軍はまとまらない。あの方は——それを知っていた。だから冷酷であることを、選ばれた」
ヴェルちゃんが、深紅のマントに手を伸ばしかけて——止めた。
「あの方は私を信頼してくださいました」
「……うん」
「300年、ただの一度も——私を疑わなかった」
「…………」
「他の全てを疑い、恐れさせ、支配した方が——私にだけは、こう仰いました」
ヴェルちゃんが目を閉じた。
「『お前がいなければ、この軍は持たぬ』と」
「…………」
わては、何も言わんかった。
今は、聞く時間や。
「あの方は……強い方でした。冷酷で、非情で……だが——」
ヴェルちゃんの声が、かすかに詰まった。
「あの方は最後に……亡くなる直前に、私を呼びました」
「…………」
「寝台の上で、もう起き上がる力も残っておられなかった。300年、あれほど強かった方が——小さく見えました」
ヴェルちゃんが、壁を見ている。壁ではなく、300年前を見ている。
「あの方は、こう仰いました」
沈黙が落ちた。
埃が、窓の隙間から差す薄い光の中で、ゆっくりと舞っている。
ヴェルちゃんの声が——変わった。
軍人の声やない。300年の鎧を全部脱いだ、素の声。
「『すまぬ、ヴェルザ。——お前を笑わせてやれなかった』」
「…………」
わての胸が、ぎゅっと痛んだ。
——知っとる。この痛みは知っとる。
保育園で。定年の時。園長先生が最後に言うた。
「田中先生、もっと楽にさせてあげたかった」って。
40年間、お互い強がっとったのに、最後にそれを言われたら——もう、あかんかった。
ヴェルちゃんも——同じなんやろな。
300年、お互い強がってきた相手の、最後の一言。
300年、部下を恐怖で従わせた魔王が。
最後の最後に言うたんは——「笑わせてやれなかった」やった。
「あの方も……本当は、笑いたかったのかもしれません」
ヴェルちゃんの声は静かやった。
泣いてはいない。300年生きた人は、こういう時に泣かへん。
泣くより深いところで——痛んどる。
「…………」
わては、何と言うたらええかわからんかった。
保育士歴40年でも、300年の重みを前にしたら、言葉なんか出てこおへん。
——でも。
言葉が出てこおへん時は、手を動かすんや。
それは、40年で学んだ、たった一つの確かなことや。
「……ヴェルちゃん」
「ヴェルザです」
「お茶、淹れよか」
「……は?」
ヴェルちゃんが振り返った。
困惑した顔。いつもの顔や。
「ここに、先代さんの茶器あるやろ。使わせてもらお」
「……魔王様、先代のお部屋で茶を……」
「先代さんかて、300年働いてたんやろ? お茶ぐらい飲んだやろ」
「…………」
「ほな、この茶器、使ったげたほうが喜ぶんちゃう?」
わては棚の奥にあった茶器を取り出した。
銀の茶器。立派なやつ。埃をかぶっとるけど、磨いたら光る。
ティアちゃんが朝淹れてくれた茶葉を、たまたまポケットに入れとった。
魔王のローブ、ポケットがでっかいから便利やねん。
お湯は——
「ヴェルちゃん、お湯出せる?」
「……魔王様。ここには火がございません」
「あんた魔法使えるやろ」
「…………」
ヴェルちゃんが、深い溜息をついた。
指先に小さな炎を灯して、茶器を温めた。
魔族最強の四天王筆頭が、お茶のお湯を沸かしている。
すまんな、ヴェルちゃん。
お茶が淹れ終わる。
二杯。先代さんの茶器に注いだ。
「はい、ヴェルちゃん(^^)」
「ヴェルザです」
ヴェルちゃんが茶器を受け取った。
二人で、先代の部屋で、先代の茶器でお茶を飲む。
静かや。
埃っぽい部屋で、薄い光の中で、お茶の湯気だけが上がっとる。
「…………」
「…………」
しばらく、何も言わんかった。
言わんでええ。
お茶飲んでるだけでええ。
「……温かいですな」
ヴェルちゃんが、ぽつりと言った。
「うん(^^)」
「…………」
「……魔王様は」
「ん?」
「あの方とは……全てが違います」
「そうやな。わてはただのおばちゃんやし」
——あ。関西弁漏れた。
「……いえ、何でもありませんわ」
取り繕う。ヴェルちゃんが何か言いたそうな顔をしたけど、今回はツッコまんかった。
「……ただのおばちゃん、ではございませんが」
「え?」
「あの方は恐怖で人を動かしました。魔王様は——」
ヴェルちゃんがお茶を見つめた。
口を開きかけた。閉じた。もう一度開いた。
——何か言おうとしとる。でも、言い慣れてない言葉を探しとる顔や。
「……お茶で、動かされます」
——あ。
この人、今——冗談を言おうとした。
300年、冗談なんか言ったことない人が。
「お茶で動くんか(^^)」
「……はい。不覚ながら」
ヴェルちゃんが、ほんの少しだけ——口元を緩めた。
本人は気づいてへんかもしれん。でも、確かに緩んだ。
笑ったんやろか。
300年で初めて、笑ったんやろか。
「……あの方が笑わせてやれなかったと仰った300年分を」
ヴェルちゃんの声が、静かに響いた。
「魔王様は——たった数ヶ月で、取り返しておられます」
「…………」
——あかん。
泣きそう。
「ヴェルちゃん……」
「ヴェルザです」
「……ありがとう」
「……いえ。こちらこそ」
ヴェルちゃんがお茶を飲んだ。
わても飲んだ。
先代さんの部屋で。先代さんの茶器で。
静かで、温かくて——
ちょっとだけ、埃っぽい。
「……ヴェルちゃん」
「ヴェルザです」
「今度、この部屋も掃除してええ?」
「…………」
ヴェルちゃんが、しばらく黙った。
「……はい。——お願いいたします」
「先代さんの部屋、綺麗にしたげよな(^^)」
「…………はい」
ヴェルちゃんが深く頭を下げた。
——わてには、300年分の重みはわからへん。
先代の魔王が何を考えて、何を抱えて、最後に何を後悔したのかも。
でも、わかることがある。
目の前のこの人が——300年間、一人で、この部屋を守ってきたこと。
誰にも見せず、誰にも入れず。
たった一人で。
それは——すごいことや。
「ヴェルちゃん」
「ヴェルザです」
「あんた、ええ人やな」
「……は」
「先代さんに300年仕えて、わてみたいなおかしな魔王にも仕えてくれて」
「おかしな、とは……」
「自覚あるよ(^^)」
「…………」
ヴェルちゃんが困った顔をした。否定できへんのやろな。
「でもな、わても思うとることがあるんよ」
「何でございましょう」
「先代さんが笑わせてやれんかったって後悔したんやったら——」
わてはお茶を飲み干した。
「わてが笑わせたるわ(^^)」
「…………」
ヴェルちゃんが、何も言えんくなった。
お茶の湯気が消えた。
部屋は静かやった。
——この人のために、もうちょっとだけ頑張ろうと思った。
62年生きてきた、ただのおばちゃんに、何ができるかはわからん。
でも、お茶ぐらいは淹れられる。
「おはよう」ぐらいは言える。
それでええ。
それで、十分や。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第19話、ヴェルザ回です。
この話は、書いていて一番静かでした。派手な泣かせはありません。涙を誘う台詞も、感動的なBGMも意識していません。ただ、埃っぽい部屋で二人がお茶を飲んでいるだけの話です。
先代魔王の最後の言葉——「すまぬ、ヴェルザ。お前を笑わせてやれなかった」。300年、冷酷であることを選び続けた魔王が、最後に後悔したのは「笑わせてやれなかったこと」でした。恐怖で統治することが正しいと信じていた人が、最後の最後に、人間的な後悔を残した。先代もまた、不器用な人だったんだと思います。
よしこは、大した言葉を言いません。「お茶淹れよか」しか言いません。でも、40年の保育士人生で学んだのは、「言葉が出てこない時は手を動かせ」ということ。お茶を淹れる。それだけ。でもそれだけが、300年の痛みの前で唯一できることでした。
ヴェルザの「温かいですな」は、お茶の温度だけの話ではありません。
次回、第20話「飴ちゃんあげよか」。コメディ全開に戻ります。大阪のおばちゃん魂が魔王軍を席巻します。
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