◆レオン視点
深夜。
城の廊下の片隅に、ランタンが一つ。
俺は壁にもたれて、膝の上に紙を広げていた。
ペンを握る。線を引く。
——字の練習だ。
よしこに教わり始めて、もう何日になる。
最初は「水」と「火」だった。今はもっと難しい字に入ってる。「城」とか「戦」とか「約束」とか。
昼間は恥ずかしくて練習できない。リーゼやガルドに見られたくない。
だから、夜。みんなが寝静まった後に、こっそり。
「…………」
カリ、カリ、と紙の上をペンが走る。
ランタンの灯りで影が揺れる。
「……おい、小僧」
——声がした。
顔を上げた。
ドルガだった。
魔王軍四天王第二席。角が二本。顔面に傷跡。210cmの巨体。見た目だけなら魔族で一番怖い。
その巨体が、薄暗い廊下の向こうに立っていた。
「な——」
「…………」
ドルガの手に——紙があった。
ペンも。
「…………」
「…………」
沈黙。
ランタンの灯りが二人の顔を照らした。
「…………お前も、か」
「ハッ、何のことだ」
「字。練習してんだろ」
「してねぇ!」
俺のほうが先にキレた。
「俺だってしてねぇよ!」
「テメェは明らかにしてただろうが!」
「うるせぇ!」
「うるせぇのはテメェだ!」
——声がハモった。
二人とも、同時に口を閉じた。
「…………」
「…………」
また沈黙。
ドルガが俺の隣に——ドカッと座った。壁が揺れた。
「……ここで書くのか」
「他に場所がねぇんだよ。部屋だとガルドが起きる」
「フン。俺もだ。自室でやるとヴェルザに見られる」
「…………」
ドルガが膝の上に紙を広げた。
俺と同じだ。ペンを握って、字を書き始めた。
カリ、カリ。
カリ、カリ。
二人分のペンの音が、廊下に響いた。
——似てるな、と思った。
こいつの手。ゴツくて、指が太くて、ペンが小さく見える。
俺の手も似たようなもんだ。剣ダコだらけで、指先が不器用で、細い線がうまく引けない。
「……お前、何の字やってんだ」
「テメェに教える義理はねぇ」
チッ。
横目で見た。
ドルガの紙には——「忠」「誠」「剣」「盾」「守」。
「……武人っぽい字ばっかだな」
「うるせぇ! 見るなって言っただろうが!」
「見てねぇよ。目に入っただけだ」
「同じだろうが!」
——声がまたハモった。
「…………」
「…………」
チッ、と二人同時に舌打ちした。
——本当に似てるな、こいつと俺。
粗暴で、意地っ張りで、字が読めなくて、夜中にこっそり練習してる。
笑えるだろ。魔族の最強がこれだ。勇者がこれだ。
でも——嫌じゃなかった。
一人で練習するより、なんか——書きやすい。
カリ、カリ。
カリ、カリ。
ランタンの灯りの下、二人で黙々と字を書いた。
◆ドルガ視点
——認めたくはねぇが。
この小僧と字の勉強をするのは、二度目じゃない。
最初は偶然だった。夜中に廊下で字を書いてたら、小僧が反対側の廊下で同じことをしてた。目が合って、「見るな!」「そっちこそ見んな!」と怒鳴り合って——気づいたら隣に座っていた。
それが三日前。
昨日も。今日も。
フン。
別に、一緒にやりたいわけじゃねぇ。場所が被っただけだ。
廊下のこの角は、ランタンの灯りがちょうどいい。それだけの話だ。
——俺の手は、丸太みたいにでかい。
戦斧を片手で振る手だ。字を書く手じゃねぇ。
ペンが爪楊枝みたいに小さく見える。
線がガタガタになる。何度書いても「忠」の字がうまくいかねぇ。はねるところで力が入りすぎて、紙が破れる。
「……くそ」
「何回目だよ、それ」
「うるせぇ」
小僧が横目でこっちを見た。
——テメェだって「約束」の字、三回書き直してるだろうが。
カリ、カリ。
「…………」
ふと——廊下の奥から、足音がした。
小さい。軽い。こっちに来る。
俺と小僧が同時に顔を上げた。
足音の主が——角を曲がってきた。
侍女だ。
ティア。薄緑の三つ編み。琥珀色の目。手にランタンを持っている。夜の見回りだろう。
ティアがこっちを見た。
「——あ」
固まった。
尻尾がピーンと立った。
——そりゃそうだ。深夜の廊下の片隅で、魔王軍四天王と勇者が並んで座って字を書いてる。普通じゃねぇ。
「ど、ドルガ様……! ゆ、勇者様……!」
「見るな」
「見んな!」
——ハモった。三回目。
「な、なにをなさって……」
「なんでもねぇ!」
「なんでもねぇ!」
四回目。
俺と小僧が顔を見合わせた。
「……真似すんな」
「そっちだろ」
ティアがおろおろしている。尻尾が左右に揺れている。逃げるか留まるか迷っている犬そのものだ。
「あ、あの……わ、わたし、見てません……見てませんから……」
「待て」
小僧が——レオンが声を上げた。
「…………」
レオンがティアを見た。それから、自分の手元の紙を見た。
「……お前、字、読めるのか」
「え……」
ティアが瞬きした。
「あ、あの……わ、わたしは……」
「読めるのか、読めないのか」
レオンの声は粗暴だが、責めてるんじゃねぇ。
俺にはわかる。こいつは——聞きたいだけだ。
「…………」
ティアが目を伏せた。
尻尾が——下がった。しょんぼりと。
「……あの……わたしも、字を教わったのは最近で……」
「…………」
「よしこ様が……魔王様が、教えてくださって……それまでは、ほとんど……」
「……お前も読めなかったのかよ」
「……はい。侍女に字は必要ないと言われて」
——レオンの目が変わった。
俺にはわかる。あの目は怒りだ。でも、ティアに向けたもんじゃねぇ。
「——ふざけんな。読めたほうがいいに決まってんだろ」
低い声だった。
ティアに言ってる。でも——自分にも言ってる。
字が読めなかった自分。「勇者に字は必要ない」と誰にも教えてもらえなかった自分。
俺だってそうだ。
「四天王に字は不要だ。剣を振れ」——先代魔王にそう言われて、250年間、字から逃げてきた。
「…………」
「……座れよ」
レオンがティアに言った。
ぶっきらぼうに。でも——
「ここ、空いてる。ランタンの灯りもある。——練習すんなら、一緒にやればいい」
「え……」
「俺もこいつも下手くそだ。お前が混ざったって問題ねぇだろ」
ティアが俺を見た。
俺は——
「……フン。好きにしろ」
腕を組んだ。
別に許可したわけじゃねぇ。好きにしろと言っただけだ。
ティアが——おずおずと、俺たちの隣に座った。
小さな体が、俺とレオンの間に収まった。
巨体。少年。侍女。
廊下の片隅に、三人。
「…………」
「…………」
「…………」
カリ、カリ。
カリ、カリ。
カリ……カリ。
三人分のペンの音が、静かな廊下に響いた。
◆ティア視点
——わたしは、夢を見ているのかもしれない。
深夜の廊下。ランタンの灯り。
わたしの右にドルガ様。左に勇者様。
三人で並んで、字を書いている。
ドルガ様の手は丸太みたいに大きい。ペンが見えないくらい。
勇者様の手は剣ダコだらけで、指先が赤い。力を入れすぎている。
わたしの手は——小さくて、指が細い。でもやっぱり、うまく書けない。
よしこ様に教わるまで、字は書けなかった。
先代魔王の時代、侍女に文字は不要だった。命令は口頭で伝えられ、わたしたちは頷くだけだった。名前すら——文字で書いたことがなかった。
よしこ様が「ティアちゃん、自分の名前くらい書けたほうがええで」と言ってくれた。
それが、始まりだった。
「……あの、勇者様」
「レオンでいい」
「え……」
「勇者様とか、くすぐってぇんだよ。レオンだ」
「れ、レオン……様……」
「様もいらねぇ」
「…………」
尻尾がパタパタした。——やめて。今は隠したいのに。
「……れ、レオンさ——」
「チッ。なんでもいいよ。で、何だ」
「あの……この字、なんて読むんですか……」
わたしが指差した字を、レオンさんが覗き込んだ。
「……『道』だ。よしこに教わった」
「み、道……」
「下の線がまっすぐ伸びてるだろ。道だから」
「……は、はい。ありがとうございます……」
「別に」
レオンさんが顔を背けた。
耳が赤い。
ドルガ様がフン、と鼻を鳴らした。
「小僧。テメェ、『約束』の字が左右逆だぞ」
「……は? マジかよ」
「こっちが先だ。右からだ、右から」
「テメェに言われたくねぇよ! お前の『忠』だって上が潰れてんだろ!」
「なんだと!?」
「あ、あの……お二人とも、声が……夜ですので……」
二人が同時に口を閉じた。
「…………」
「…………」
また、カリ、カリ、とペンの音だけが戻ってきた。
しばらくして。
わたしは、持ってきたものを出した。
「あ、あの……よかったら……」
布に包んだ、おにぎりとスープ。
おにぎりは三つ。この世界にはない形だけど、ガルド様に教わった。よしこ様が「日本の食べ物」だと教えたもの。ごはんを三角に握って、塩をまぶす。中に、昼の残りの肉を入れた。
スープは根菜の。小鍋ごと持ってきた。夜の見回りのとき、自分用に作っていたもの。
「……お前が作ったのか」
ドルガ様が聞いた。
「は、はい……ガルド様に教わって……」
「…………」
ドルガ様がおにぎりを一つ取った。
大きな手で——潰さないように、そっと。
口に入れた。
「…………」
「…………」
「……悪くねぇ」
わたしの尻尾が——パタパタした。
——ドルガ様の「悪くねぇ」は、最上級の褒め言葉だと知っている。
レオンさんも、おにぎりを手に取った。
「…………」
一口。
「…………」
もう一口。
「……塩加減、ちょうどいい」
「あ、ありがとうございます……!」
尻尾がパタパタパタパタ。——もう隠すのは諦めた。
スープも、二人の前に置いた。
小さなカップに注いで。湯気が上がる。
ドルガ様が音を立てずに飲んだ。
レオンさんが音を立てて飲んだ。
「…………」
「…………」
二人とも、黙った。
おにぎりを食べて、スープを飲んで、また字を書き始めた。
わたしも、自分のおにぎりを食べた。
温かい。
——不思議な夜だ。
四天王と勇者と侍女が、廊下の片隅でおにぎりを食べながら字の練習をしている。
先代魔王の時代には、ありえなかった光景。
でも——温かい。
ランタンの灯りが三人を照らしている。
ペンの音と、スープの湯気と、静かな呼吸。
わたしは——ここにいていいんだと、思った。
廊下の奥から、足音がした。
規則正しい、軍人の足音。
三人が同時に顔を上げた。
ヴェルザ様だった。
銀白色の髪。金の目。黒と金の軍服。
夜の巡回——いや、何かの用事で廊下を通りかかったのだろう。
ヴェルザ様が、こちらを見た。
——凍りついた。
勇者と四天王と侍女が、廊下の片隅に並んで座って、おにぎりを食べながら字の練習をしている。
「…………」
ヴェルザ様の足が止まった。
「な、なんでもねぇ!」
ドルガ様が紙を背中に隠した。
「見るな!」
レオンさんがペンを握りしめた。
わたしは——
「あ……あの……」
——尻尾が、エプロンの後ろからはみ出ていた。パタパタと。隠せていない。おにぎりの残りも手に持ったまま。
「…………」
ヴェルザ様が、長い長い沈黙のあと——口を開いた。
「……夜分に失礼した。巡回を続ける」
踵を返した。
規則正しい足音が、廊下の奥に消えていった。
「…………」
「…………」
「…………」
三人で顔を見合わせた。
「……バレたかな」
「バレてるだろ……」
「……バレて、ますよね……」
沈黙。
それから——三人とも、小さく笑った。
ランタンの灯りが揺れた。
夜は——まだ続く。
「……もう一個、おにぎりあるか」
「あ、はい。ドルガ様の分、まだあります」
「……フン。もらう」
「俺も」
「は、はい……!」
尻尾がパタパタパタ。
カリ、カリ。
カリ、カリ。
カリ、カリ。
深夜の魔王城。廊下の片隅。
ランタンの灯りの下で、三人が字を書いていた。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
レオンとドルガ、似た者同士の粗暴コンビです。「見るな!」「見んな!」が四回ハモりました。声が揃うんですよね、この二人。手もゴツい。字も下手。ペンが小さく見える。鏡みたいな関係です。
そこにティアが加わります。「侍女に字は必要ないと言われて」——レオンの「ふざけんな」は、ティアへの怒りであると同時に、かつての自分への怒りでもあります。字が読めなかった17年間。誰も教えてくれなかった250年間。誰にも必要ないと言われた120年間。三人の「教わらなかった時間」が、この廊下で重なりました。
ティアの夜食シーンも入れました。ガルドに教わったおにぎりとスープ。ドルガの「悪くねぇ」は最上級の褒め言葉です。
ヴェルザの絶句は、書いていて一番楽しかったところです。勇者と四天王と侍女が並んで字の勉強をしている。300年の軍史において、前例なし。彼の内心は「何を見せられている」の一言に尽きるでしょう。
字を学ぶということは、「自分の言葉を持つ」ということです。いつか手紙を書ける日のために——三人の勉強会は、静かに続いていきます。
次回、第22話「手紙」。王都から届く一通の手紙が、魔王城の日常を揺らします。
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