◆レオン視点
転移門を抜けた先に——あった。
石の壁。木の扉。割れた窓。
屋根の半分が崩れている。壁にはひびが入っている。門の表札は錆びて文字が読めない。門の脇に、枯れかけた雑草が伸びていた。
——変わってない。
9年前と、何も変わってない。
いや——もっとひどくなっている。
「…………」
足が動かない。
「レオンくん」
よしこの声。
「……ここだ」
声が、かすれた。
「ここが——俺がいた場所だ」
門を押した。蝶番が軋んだ。錆びた音。
中庭——と呼べるものではない。雑草だらけの空き地。洗濯物が干してあるが、布が薄くて向こうが透けている。
建物の入り口の前に——子どもが座っていた。
五人。
いや、六人か。一人は柱の陰に隠れている。
痩せていた。
全員——痩せていた。
服はつぎはぎだらけ。靴を履いていない子がいる。髪はぼさぼさ。
目が——大きく見えるのは、顔が痩せているからだ。
「…………」
俺は——あの子たちと同じ顔をしていた。
9年前。この場所で。冷めた粥をすすって、汚い毛布にくるまって——同じ顔をしていた。
「だ、だれ……?」
一番前にいた子——七歳くらいの女の子が、俺たちを見上げた。
「……俺は——」
言葉が出ない。
「ここにいた」と言えばいいのか。「帰ってきた」と言えばいいのか。
「——通りすがりや(^^)」
よしこが前に出た。
「ちょっと寄らせてもらってもええかな?(^^)」
女の子が——よしこを見上げた。
「……おねえちゃん、だれ?」
「よしこや(^^) おばちゃんって呼んでな」
「……おばちゃん?」
「せやで(^^)」
よしこが——しゃがんだ。
子どもの目の高さに。
保育士が、子どもに話しかける時の姿勢。
「おなか空いてへん?(^^)」
女の子が——頷いた。
小さく。何度も。
「…………」
よしこが——立ち上がった。
◆よしこ視点
台所を見た。
薄暗い。窓が小さくて、光が入らへん。
かまどがある。鍋がある。——鍋の中に、何か入っとる。
覗いた。
粥。
水で薄めた粥。具がない。色がない。
匙ですくった。
冷めとる。
「…………」
冷蔵庫——はない。棚を開けた。
粉が少し。干した豆が少し。塩。
——それだけ。
「…………」
棚を閉めた。
部屋を見た。
大部屋が一つ。毛布が並べてある。薄い毛布。穴が開いとる。枕はない。
子どもたちの部屋。六人分の毛布。
——六枚しかないのに、三枚は破れとる。
「…………」
わては——何も言わんかった。
何も言えへんかった。
(^^)が出えへん。
40年間保育士をやってきた。
設備が古い園もあった。予算が足りない園もあった。
でも——こんなんは初めてや。
子どもがこんな——
こんな場所で——
「…………」
手が震えとる。
怒りか。悲しみか。わからへん。
——いや。わかっとる。
両方や。
でも今は——今は、それを出す時やない。
台所に戻った。
「ガルくん」
「は、はい……!」
ガルくんが——泣いとった。
もう泣いとった。台所に入った瞬間から泣いとったんやろう。
「ガルくん、手ぇ洗おか(^^)」
「……はい……っ」
「ごはん、作ろ(^^)」
「…………はいっ……」
ガルくんが袖で目を拭いた。手を洗った。エプロンは——ない。服のまま。
「あるもんで作ろか。粉があるから——パンケーキやな。豆でスープ作ろ(^^)」
「ぼ、僕……野菜が……」
「ドルガくん」
台所の入り口にドルガくんが立っとった。黙って立っとった。
「さっきの屋台で、野菜買ってきてくれへん?(^^) お金はメルちゃんに聞いて」
「…………」
ドルガくんが何も言わずに出ていった。
大きな背中。角がない——幻影のままや。でも、あの背中は誰が見てもドルガくんや。
◆ガルド視点
野菜を切った。
手が——震える。
涙が止まらへん。
止まらないのに、包丁は止めへん。
玉ねぎ。にんじん。じゃがいも。
ドルガさんが買ってきてくれた野菜。袋いっぱいの野菜。
「…………っ」
涙で前が見えへん。
でも——切る。
よしこさんに教えてもらった切り方で。
一口サイズに。子どもが食べやすいサイズに。
よしこさんが隣で粉を練っとる。水と粉と——少しの塩。
パンケーキの生地。
「ガルくん、大丈夫?(^^)」
「…………だいじょうぶ、です……っ」
「泣きながらでもええよ(^^) ちゃんと切れとる」
「…………っ」
泣いた。
もう我慢せずに泣いた。
あの子たち——あの子たちの顔。
僕と同じ顔だった。
僕も——教会に選ばれる前、あんな顔をしていた。
お腹が空いて。寒くて。誰も来なくて。
でも僕には——レオンがいた。リーゼがいた。
そして——よしこさんがいた。
あの子たちには、誰がいる?
「…………よしこさん」
「ん?(^^)」
「僕……この子たちに……ごはん、作りたいです……」
「せやな(^^) 作ろ」
「美味しいの、作りたいです……っ」
「ガルくんの作るもんは、全部美味しいで(^^)」
「…………っ」
泣きながら——切った。
全部切った。
鍋に入れた。
火をつけた。
よしこさんがパンケーキを焼いとる。
かまどの火で、丁寧に。一枚ずつ。きれいなきつね色。
匂いがしてきた。
パンケーキの甘い匂い。スープの温かい匂い。
台所から——廊下に匂いが漏れていく。
◆レオン視点
匂いがした。
台所から。
パンの匂い。スープの匂い。
——知ってる匂い。
魔王城で、毎日嗅いでた匂い。よしこが作る、ごはんの匂い。
子どもたちが——顔を上げた。
鼻をひくひくさせて、台所の方を見ている。
「……なに、この匂い」
「いいにおい……」
「ごはん……?」
女の子が——立ち上がった。他の子も。一人、二人。柱の陰の子も出てきた。
全員が——台所に向かって歩いていく。
吸い寄せられるように。
俺も——歩いた。
台所の入り口で——止まった。
よしこが——パンケーキを焼いていた。
ガルドが——スープを煮ていた。
ガルドは泣いていた。ぼろぼろ泣きながら、鍋をかき混ぜていた。
よしこは——泣いていなかった。無表情でもなかった。
いつもの顔だった。
保育園で、毎朝給食を作っていた時の顔。
魔王城で、毎日ごはんを作っていた時の顔。
——あの人の、「仕事の顔」だ。
「はい、できたで(^^)」
皿にパンケーキを乗せた。
スープをよそった。
「みんな、座り(^^) ごはんやで」
子どもたちが——固まっていた。
目が大きくなっている。パンケーキを見ている。スープを見ている。
「……食べて、いいの……?」
女の子が聞いた。
さっきの七歳くらいの子。
「当たり前やん(^^) あんたらのために作ったんやから」
「…………」
女の子が——椅子に座った。
パンケーキを手に取った。
一口かじった。
「…………」
止まった。
もう一口。
もう一口。
「……おいしい」
小さな声。
「おいしい……」
もう一口。手が止まらない。
「おいしい……っ」
——泣いていた。
食べながら、泣いていた。
他の子も食べ始めた。黙って食べた。泣きながら食べた。笑いながら食べた。
柱の陰にいた子が——一番最後に席に着いた。一番小さい子。四歳くらい。
パンケーキを両手で持って、かぶりついた。
「…………」
口の周りが粉だらけ。
「おかわり、あるで(^^)」
よしこが——もう一枚焼いていた。
ガルドがスープをよそっていた。まだ泣いていた。でも手は止まっていなかった。
——俺は。
台所の入り口に立ったまま——動けなかった。
9年前。
俺がここにいた時。
こんなごはんは——なかった。
温かい匂いも。焼きたてのパンケーキも。具だくさんのスープも。
「おかわりあるで」なんて言葉も。
なかった。
「…………」
目の奥が——熱い。
また、か。
泣くもんか。泣かない。俺は泣かない。
「レオンくん(^^)」
「……なんだよ」
「あんたも食べ(^^)」
「……俺は別に」
「食べ(^^)」
「…………」
皿を受け取った。
パンケーキとスープ。
子どもたちと同じもの。
食べた。
——美味い。
いつもと同じ味。よしこが作る、いつもの味。
ここで食べても——魔王城で食べても——同じ味。
よしこの「ごはん」は、場所で変わらへんのか。
「……美味い」
「せやろ(^^)」
「…………美味い」
「おかわりあるで(^^)」
「…………」
——くそ。
泣かなかった。
でも——ぎりぎりだった。
◆よしこ視点
子どもたちが食べ終わった。
六人。全員、おかわりした。一番小さい子は三枚食べた。
食器を洗った。ガルくんと二人で。
ガルくんはもう泣いてへんかった。目は赤いけど、手はしっかり動いとる。
「ガルくん」
「はい」
「ようやったな(^^)」
「…………えへへ」
ええ子や。この子は——ほんまにええ子や。
泣きながらでも手を止めへん。それは、わての背中を見て育った証拠や。
——子どもたちの顔を見た。
さっきより——少しだけ、顔色がええ。
一食で変わるわけやない。でも、目が違う。
さっきは空っぽやった目に——少しだけ、光がある。
ごはんの力は、そういうもんや。
体だけやない。心も温める。
40年間、知っとったことやけど——今日ほど強く思ったことは、ない。
「…………」
台所の窓から外を見た。
崩れかけた屋根。割れた窓。雑草だらけの中庭。
——この場所から、レオンくんは出ていった。
8歳で。一人で。
この場所から、何人の子どもが「勇者」に選ばれて——帰ってこなかったんやろう。
「…………」
手が——握りしめられた。
怒りが——来る。
でも、今は出さへん。
出したら——この子らが怖がる。
今は、笑う。
「ごちそうさまでした、言えるかな?(^^)」
「……ごちそうさまでした」
六人の声が——小さく揃った。
「上手(^^) えらいなぁ」
女の子が——笑った。
初めて、笑った。
「おばちゃん、また来る……?」
「…………」
——来る。
絶対に来る。
「また来るで(^^) 次はもっと美味しいもん作るからな」
「……ほんとに?」
「ほんまや(^^) おばちゃんは嘘つかへんで」
「…………うん」
女の子が——頷いた。
信じてくれた。
——この子に。この子たちに。ちゃんとしたごはんを食べさせる。
それが、わての仕事や。
保育士の仕事や。
魔王の仕事や。
台所を出た。
レオンくんが廊下に立っとった。壁にもたれて、天井を見上げとる。
「レオンくん(^^)」
「……なんだよ」
「帰ろか(^^)」
「…………ああ」
レオンくんが——歩き出した。
背中が、少し——小さく見えた。
17歳の背中やない。
8歳の、あの頃の——背中に見えた。
「…………」
——大丈夫や、レオンくん。
あんたはもう、一人やないで。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第30話「孤児院」。
書いていて、手が止まりました。何度も止まりました。
よしこが黙るシーンは、この物語で最も重い場面です。いつも「(^^)」を振りまいて、関西弁で場を和ませるこの人が——何も言えなくなった。台所を見て、冷めた粥を見て、破れた毛布を見て。
でも、よしこは泣きませんでした。怒りも出しませんでした。
台所に立ちました。
「まずごはん」。それがこの人の答えです。泣いている暇があったら、ごはんを作る。40年間、保育園でそうしてきた。園の予算がなくても、子どもが泣いていても、まず給食を作る。手を動かす。
ガルドが泣きながら野菜を切るシーンが好きです。この子は、よしこの背中を見て育ちました。泣いていても手を止めない。それは、よしこから学んだことです。自分でも気づいていないかもしれないけれど。
子どもたちが「おいしい」と言って泣いたシーン。ごはんの力は、体だけでなく心も温めます。一食で世界は変わらない。でも、一食で目の光は変わる。
レオンは泣きませんでした。この子は泣かない子です。でも——ぎりぎりでした。
次回、第31話。よしこが初めて「怒る」日が近づいています。
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