◆よしこ視点
昨日の夜は、眠れなかった。
目を閉じたら、孤児院の子どもたちの顔が浮かぶ。
あの目ェ。あの頬。あの服。
——保育園で見てきた子どもたちの中にも、ごはんを食べさせてもらえてへん子はおった。冬にTシャツ一枚の子もおった。
でもな。
あの孤児院は——違う。
あれは「放置」やない。あれは「制度」や。
子どもが飢えとることを、誰かが知っとって、そのまま放置しとる。それが——この国の仕組みなんや。
……。
朝が来た。
冷える。昨日まで気づかなかった冷たさが、肌に染みる。秋が——近い。
ほな、「おはよう」言わな。
◆リーゼ視点
朝。
宿の一階。昨日の孤児院から少し離れた街の宿屋を借りている。メルが幻影で全員の外見を変えてくれているおかげで、魔族だとは気づかれていない。
テーブルには全員が揃っていた。
よしこが淹れたお茶が湯気を立てている。
——でも、誰も飲んでいない。
昨日、孤児院で見たものが、まだ全員の中にある。
「……リーゼちゃん」
よしこが私の名を呼んだ。
いつもの声。いつもの顔。
——でも、目が笑っていない。
「うん。……準備できてる」
私は、懐から紙束を取り出した。
——三日前のことだ。
よしこが「遠足行こ」と言い出した日の夜。
メルが私の部屋に来た。
「リーゼ殿」
「……何」
「聖教会の勇者選定制度について、調べてみる気はおありかしら」
「……なぜ」
「わたくし、この遠足が『ただの遠足』では終わらないと思っておりますの。魔王様は——あの方は、知ってしまったら黙っていられない方ですわ」
「…………」
「情報は武器でございます。——あなたに、その武器を使いこなしてほしいのですわ」
メルは微笑んでいた。いつもの慇懃な笑顔——だけど、その奥に、本気があった。
「……わかった」
メルの諜報網で集めた情報を、私が分析する。
二人で三日かけてまとめた。
メルは教えてくれた。情報の読み方。裏の取り方。数字が何を意味するか。
——魔法だけじゃない。この人から学べることは、たくさんある。
紙束をテーブルに広げた。
「……読み上げる」
全員が、私を見た。
「聖教会の勇者選定制度。正式名称『神聖勇者選定の儀』。——制度の開始は、二百三十年前」
ヴェルザが、わずかに目を細めた。先代魔王の時代だ。
「選定の対象。——孤児。王都および周辺都市の孤児院から、十二歳以上十五歳以下の子どもを選出する」
「……っ」
ガルドが息を呑んだ。自分のことだと気づいたんだろう。
「選定基準は公表されていない。ただし——メルの調査によると、全ての勇者候補は孤児院出身。貴族の子が選ばれた記録は、二百三十年間で一件もない」
沈黙。
「支給装備。——最低限度の武器一点。防具なし。予備なし。修繕費なし。レオンの剣は、七年前の量産品」
レオンが壁に寄りかかったまま、何も言わなかった。顔から表情が消えていた。
「支給食料。——出発時に乾パン三日分。以降の補給なし」
三日分。
魔王城まで、何日かかると思ってるんだろう。
「給与。——なし」
テーブルの空気が、凍った。
「……なし?」ガルドが震える声で聞いた。
「ゼロ。聖教会の記録では、『勇者は名誉職であり、報酬は神の祝福である』と定義されている」
「……名誉」
レオンが、低く呟いた。
「名誉で——腹が膨れるかよ」
「……続ける」
私は、紙をめくった。
——ここからが、一番重い。
「帰還率」
全員が、私を見た。
「過去二百三十年間に、勇者選定の儀で選出された勇者パーティの総数——四十七組。構成人数は延べ百四十一名」
「四十七……」ヴェルザが呟いた。
「帰還した勇者パーティの数——」
私は、一度だけ息を吸った。
「——ゼロ」
音が消えた。
宿の外で鳥が鳴いている。窓から朝の光が差し込んでいる。
世界は、何事もなく回っている。
「帰還率ゼロ。百四十一名全員が未帰還。聖教会の公式記録では『名誉ある戦死』として処理されている」
「…………」
「レオン、リーゼ、ガルド——私たちの勇者パーティは、第四十八組目。聖教会の記録上、初めての『未帰還ではない』例」
——初めて。
二百三十年で、初めて。
「勇者パーティの生存が確認されたのは、勇者選定制度の歴史上、私たちだけ」
それは——。
私たちが強かったからじゃない。
私たちは、魔王城に着いた時、全員ボロボロだった。レオンの剣は刃こぼれだらけで、ガルドの鎧はサイズが合ってなくて、私のローブは破れていた。
生き残ったのは——よしこがいたからだ。
「まずお手て洗おうね」と言ってくれたから。
「……以上が、メルとわたしで調べた結果。——勇者の値段は」
紙束を、静かにテーブルに置いた。
「ゼロ」
沈黙が、長く続いた。
ドルガが腕を組んだまま、何も言わなかった。
メルが扇子を閉じたまま、目を伏せていた。
ヴェルザが、拳を握っていた。
ピプが——泣きそうな顔で、よしこの袖を掴んでいた。
カインが壁際に立って、表情を消していた。
レオンが——壁を殴ろうとして、やめた。
ガルドが——泣いていた。声を殺して。
そして。
よしこが——。
◆よしこ視点
聞こえとる。
全部聞こえとる。
リーゼちゃんの声。
冷静で、淡々とした声。
——あの子が、一番辛いはずや。自分のことを読み上げとるんやから。
ゼロ。
勇者の値段が、ゼロ。
この子らは——ゼロとして送り出された。
ごはんもなく、服もボロボロで、「行って来い」と。
帰って来た子は、二百三十年でゼロ。
それでも送り続けた。
孤児やから。
誰も文句を言わへんから。
死んでも、「名誉ある戦死」で片づけるから。
…………。
わての手が、震えとる。
——あかん。
あかんあかんあかん。
四十年間保育士やってきた。
怒ったことなんか、いくらでもある。保護者に怒ったこともある。行政に怒ったこともある。
でもな。
それは全部「叱る」やった。
子どものために、冷静に、相手を正すための怒り。
今、わての中にあるのは——それとは違う。
冷静とか、正すとか、そんなんやない。
もっと——もっと奥にあるもんが、揺れとる。
四十年分の——。
ちゃんと食べてへん子を見てきた、四十年分の。
冬に薄着で来る子を見てきた、四十年分の。
「痛い」を言えへん子の傷に気づいてきた、四十年分の。
それが——全部、今、ここに。
「…………」
口を開いた。
声が——自分でも聞いたことない声やった。
「——この子らを送り出したんは、あんたらやろ」
低い声。
「ごはんも食べさせんと、服もボロボロで、『行って来い』て」
テーブルの上のお茶が——揺れた。
「百四十一人。全員死んで。それでも——まだ送るんか」
窓の外——空気が震えた。宿屋の壁にひびが入る音がした。
「それは教育やない」
立ち上がった。
椅子が、倒れた。
——わての体から、何かが溢れとる。
紫色の光。
床が軋む。天井が軋む。テーブルの上の紙束が吹き飛んだ。
ヴェルちゃんが叫んでいる。「全員、魔王様から離れるな! 結界を——ピプ!」
ピプが空間魔法で全員を包んだ。透明な壁が全員を守っている。
——あかん。止められへん。止まらへん。
「——虐待や」
地面が、揺れた。
◆カイン視点
宿が——揺れた。
いや、宿だけではない。
街全体が揺れている。
私は壁に手をつきながら、目の前の光景を見ていた。
魔王が——立っている。
紫色の光が、その体から溢れ出ている。
床に亀裂。壁に亀裂。窓硝子が砕ける。
ピプの結界の中は安全だった。だが結界の外——宿の壁が崩れ始めている。
「——カイン殿」
ヴェルザが私の隣にいた。
「何だ」
「これが——魔王の魔力です」
「…………」
「怒りによる暴発。制御不能。——これまでも何度かありましたが」
ヴェルザの声が、震えていた。
「……これほどのものは、初めてです」
揺れが——遠くまで広がっている。
後日、私は確認した。
この時の魔力波動は、ここから数百キロ離れた魔王城まで届いていた。
魔王城で留守番をしていたティアは、「窓が割れたんです……」と報告した。
数百キロ先の城の窓を割る魔力。
——報告書に、何と書けばいいのだ。
いや。
それよりも。
私が報告すべきは——魔力の大きさではない。
あの魔王が、なぜ怒ったかだ。
◆よしこ視点
…………。
気づいたら、床に膝をついていた。
紫の光は——消えていた。
宿の壁には亀裂が走っている。窓硝子が全部割れている。天井の梁がずれている。
……わてが、やったんか。
「…………」
手を見た。震えとる。
レオンくんが——目の前にいた。
「……大丈夫かよ、あんた」
大丈夫。大丈夫やない。わからん。
リーゼちゃんが、散らばった紙束を黙って拾い集めている。
ガルくんが泣きながら、倒れた椅子を起こしている。
ヴェルちゃんが、宿の損傷を確認している。
ピプが結界を解除して、ふらふらしている。全員を守るの、大変やったんやろうな。
「……ピプ」
「だ、大丈夫だよ、よしこ……ボク、全然平気……」
目が赤い。泣いとった。
「…………」
——あかんかった。
あんなん、あかんかった。
保育士はな。怒ったらあかんのや。
怒りで場を壊したら、子どもが怖がるやろ。
それをわては——。
「……ごめんな」
声が震えた。
「怒ってもうて、ごめんな」
「——謝んなよ」
レオンの声。
「あんたが怒らなくて、誰が怒るんだよ」
「…………」
「俺は——自分のことなのに、怒れなかった。リーゼも、ガルドも。俺たちは——『しょうがない』って、思ってたんだ。孤児だから。勇者に選ばれただけマシだって。給料なんか貰えるわけないって。生きて帰れるわけないって」
レオンが、拳を握っていた。
「あんたが怒ってくれて——」
声が詰まった。
「——初めて、『怒っていいんだ』って、思えた」
「レオンくん……」
「だから謝んな。頼むから」
「…………」
——この子。
この子は、怒り方を知らんかったんや。
「おかしい」って思うことすら、許されてへんかったんや。
ガルくんが、涙を拭きながら近づいてきた。
「ぼ、僕も……僕も、怒っていいですか……」
「ガルくん」
「僕、ずっと思ってたんです……なんで僕たちだけ、ごはんがないんだろうって……でも、しょうがないって……孤児だから……」
「…………」
「でも——よしこさんが怒ってくれたから——しょうがなく、なかったんだ、って——」
ガルくんの声が、泣き声に変わった。
リーゼちゃんが——紙束を胸に抱えたまま、何も言わなかった。
でも、目が赤かった。
「…………」
わては——立ち上がった。
膝が、がくがくしとる。
手が、まだ震えとる。
でも。
「……ごめんな」
「だから謝んなって——」
「ちゃう。宿を壊してもうたことについてのごめんなや」
「……は?」
「窓硝子、弁償せなあかんなぁ(^^)」
「…………」
レオンくんが、呆れた顔で私を見た。
ガルくんが泣き笑いの顔になった。
リーゼちゃんの口元が——ほんの少しだけ、緩んだ。
「——ほんで」
わては、奥の厨房に目を向けた。
手が震えとる。足もふらふらや。
でも。
「……ごはん作るわ」
「えっ」
「昨日——孤児院の子らにも約束した。また来るって」
「よしこさん、まだ体が——」
「ごはん作って、持っていく。あの子らに。ちゃんとした、あったかいごはん」
厨房に向かった。
ガルくんが——涙を拭いて、追いかけてきた。
「ぼ、僕も手伝います……!」
「……頼むわ、ガルくん(^^)」
ガルくんが横に立った。
二人で、鍋を火にかけた。
わての手は、まだ震えとる。
でも、包丁は握れる。
四十年間、毎日握ってきた包丁や。
——怒りで建物を壊すことはできる。
でも、怒りでごはんは作れへん。
ごはんを作るには——手を動かすしかない。
まず、玉ねぎを切ろう。
ガルくんが、じゃがいもの皮を剥いとる。泣いてるけど——手は止めてへん。
えらいな、この子。
「……ガルくん」
「は、はい」
「えらいな(^^)」
「……えへへ……」
泣き笑い。
包丁を握る手が、少しだけ震えとる。
——わてと、おんなじや。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第31話「勇者の値段」。
この話で、よしこが初めて「怒り」ました。
これまでよしこは「叱る」ことはあっても、「怒る」ことはありませんでした。保育士は感情で怒ってはいけない。冷静に、子どものために、正すために叱る。それが40年間の訓練で身についた技術です。
でも今回は違います。
リーゼが読み上げたのは、感情ではなく数字です。「ゼロ」という数字。給料ゼロ。帰還率ゼロ。勇者の値段、ゼロ。数字は嘘をつきません。リーゼがメルから学んだ「情報を武器にする」力が、ここで活きました。
そして、レオンの「あんたが怒らなくて、誰が怒るんだよ」。
この子たちは、「怒っていい」ということすら知らなかった。孤児だから仕方ない。勇者に選ばれただけマシ。その「仕方ない」を、よしこが壊しました。
よしこの怒りは、魔王の魔力を通じて数百キロ先の魔王城まで届きました。これまでのコミカルな魔力暴発とは、明確に違う質感です。
でも、最後にやったのは、ごはんを作ること。
怒りで建物は壊せる。でも、ごはんは作れない。手を動かすしかない。
ガルドが泣きながら横に立って、じゃがいもの皮を剥く。この子は、よしこの背中を見て育った証明です。
次回、第32話「王都の門」。怒りの後、よしこは暴力ではなく「話し合い」を選びます。魔王が勇者を連れて王都の門を普通に歩いて通る。コメディが帰ってきます。
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