◆よしこ視点
五日目の午後。
魔王城の書庫に来た。
埃っぽい。古い本の匂い。先代魔王はよう本読んどったんやな。
棚には魔術書やら軍事書やらがずらっと並んどる。この世界の文字——転生したら言葉は通じるようになったけど、字は別モンみたいや。角ばった独特の字体で、わてにはまだほとんど読めへん。
ヴェルちゃんに基本だけ教えてもろて、簡単な字はなんとかわかるようになったけど、この書庫の本はレベルが違うわ。
まぁええわ。今日の目的は字を読むことやない。
レオンくんを探しに来たんや。
昨日の夜、肉をこねて、ごはん食べて、あの子は逃げんかった。
でもまだ迷っとる。部屋にずっとおるか、城をうろうろしとるか、どっちかや。
今朝も「おはよう」言うたら「……うっせ」しか返ってこんかった。まぁ返事があるだけええか。
廊下でリーゼちゃんとすれ違った。手に本を持っとる——薬草図鑑みたいなやつや。
「リーゼちゃん、何読んどるん?」
「……薬草の本。この城の書庫にあった」
「へぇ、字読めるんや。えらいなぁ」
「……分析魔法の副産物。文字の構造を解析すれば、意味が取れる」
なるほどな。便利な魔法やな。リーゼちゃんは賢い子や。
でも——顔色が良くない。朝ごはん、半分残しとった。
「リーゼちゃん、お昼ちゃんと食べた?」
「……問題ない」
目を逸らした。食べてへんな、これ。
——まぁ、この子の話はまた今度や。今はレオンくん。
書庫の奥に人影が見えた。
レオンくんや。本棚の前に立って、背表紙を見とる。
いや——見とるんやない。睨んどる。読めへん字を、悔しそうに。
「何読んどるん?」
レオンくんが慌てて振り返った。
「べ、別に……何も——」
「本、好きなん?」
「…………」
レオンくんが目を逸らした。
本棚に手を伸ばして——伸ばして——止めた。
「……なんでもない」
その言い方。
保育園でも聞いたことある。「読みたいけど読めない」って顔や。
「字、読めへんの?」
◆レオン視点
——ばれた。
いや、ばれたって言うか、聞かれた。
ストレートに。容赦なく。
「字、読めへんの?」
読めるわけねぇだろ。
孤児院に字なんて教えてくれる奴いなかった。ストリートには文字より拳が必要だった。教会は「勇者」の肩書きだけくれて、字の練習なんて時間くれなかった。
冒険中も——リーゼが依頼書を読んで、ガルドが宿帳に名前を書いて、俺は「ここに印つけろ」って言われた場所に×を書くだけだった。二人とも何も言わなかった。気を遣われてたんだろう。それが余計に惨めだった。
だから——読めない。
こんな立派な書庫があって、本がいっぱいあって、でも俺には全部ただの模様だ。
「…………」
何も言い返せなかった。
「別に恥ずかしいことちゃうで」
魔王が——よしこが、静かに言った。
「教わってへんかったんやろ?」
「…………」
「教わってへんことは、知らんでええねん。当たり前や」
「……うるせぇ」
吐き捨てるように言った。顔が熱い。
「勇者なのに字も読めねーとか、笑えるよな!」
「笑わんよ」
「笑ってんだろ! 心の中で!」
「笑わん」
よしこが近づいてきた。
「レオンくん。わてな、40年間、保育園で字を教えてきたんよ」
「…………」
「字ってな、最初はみんな読めへんねん。この世界の字も、わてはヴェルちゃんに教えてもろてる最中やし。一個ずつ覚えていくもんや」
「…………だから何だよ」
「だから——教えたろか?」
——は?
「教えるって……誰が教えてくれって——」
「わて。わてが教えたい」
よしこが笑った。あの、威厳のない、おばちゃんの笑顔。
「字が読めたら、本が読めるで。本が読めたら、世界が広がるで」
「…………」
「レオンくん、頭ええもん。すぐ覚えられるわ」
「……俺、頭なんかよくねーよ」
「ええよ。昨日の肉のこね方、一回で覚えたやろ。観察力あるし、手先も器用や。字も絶対覚えられる」
「…………」
何だよ。
何なんだよ、この人。
俺が字読めないって知って、笑わないどころか、教えたいとか言ってる。
頭がいいとか——そんなこと、誰にも言われたことない。
「……いらねぇよ。字なんか読めなくても、剣は振れる」
「うん。剣は振れるな」
「魔王倒すのに、字はいらねぇ」
「うん」
「だから——」
「でもな、レオンくん」
よしこが本棚から一冊取った。古い本。
「この本にな、たぶん剣の技が書いてあるんよ」
「…………」
「字が読めたら、自分で勉強できる。誰にも頼らんでええ」
——それは。
ずるい。
そんなこと言われたら——
「…………いらねぇって言ってんだろ」
背を向けた。
書庫を出ようとした。
「今夜、部屋におるから、来てや(^^)」
よしこの声が背中に届いた。
「ホットミルク作っとくわ。蜂蜜パンもあるで」
「…………」
「来んでもええよ。でも待っとるから」
◆ヴェルザ視点
夜。
魔王様の私室から、声が聞こえる。
「これが——こっちの文字で『水』って意味なんよ。ほら、波みたいな形しとるやろ」
「…………」
「次がこれ。『火』。上に三角あって——」
「……わかってる。言わなくていい」
「あ、ごめんごめん」
——何が起きているのだ。
扉の隙間から覗くと、魔王様と勇者が机に向かっていた。
紙に文字を書いている。
魔王様が字を——勇者に教えている。
「上手やん(^^) ちゃんと書けとる」
「……これくらい」
「いやいや、最初からこんなきれいに書ける子、なかなかおらんで」
「…………」
勇者が顔を背けた。耳が赤い。
テーブルの上にはホットミルクと蜂蜜パンがある。
蜂蜜がたっぷり染み込んだ、焼きたてのパン。甘い匂いが廊下まで漂ってくる。
二人分。
「もう一回書いてみよか。ゆっくりでええからな」
「……言われなくても」
勇者が字を書いている。
魔王様がそれを見守っている。
——この光景は何だ。
三百年、魔王に仕えてきたが、勇者に字を教える魔王など見たことがない。
だが。
勇者の表情が——柔らかい。
怒鳴ることもなく、逃げることもなく、ただ机に向かっている。
「よしこ」
「ん?」
「……この字、何て読むんだ」
勇者が書いた紙を指差した。
「それは『風』や。横にびゅって線が流れとるやろ」
「……かぜ」
「そうそう。『風』。いい声や。発音ばっちり」
「…………」
勇者が小さく頷いた。
もう一度、紙に字を書いた。
——少年が、字を覚えている。
魔王が、それを見守っている。
私は——何を見せられているのだろうか。
「ヴェルちゃん、入ってええで」
——しまった。
気配を消していたつもりだったが。
「恐れながら——失礼いたしました。巡回の途中でして——」
「ホットミルクあるで。飲んでき」
ふと気配がした。廊下の奥——ガルドが柱の影から顔だけ覗かせている。大きな体を隠しきれていない。目が合った。
「あ、あの……僕も気になって……レオンが夕ごはんに来なかったから……」
「ガルくんもおいで(^^) 蜂蜜パン焼いたから」
「……い、いいんですか……えへへ」
魔王様が嬉しそうに笑った。
勇者が「うるせぇ、見んな」と顔を伏せた。
「——ヴェルザよ。客人たちに席を用意せよ」
魔王口調。だが目が笑っている。
「…………かしこまりました」
私は——また「かしこまりました」と言ってしまった。
◆レオン視点
夜中。
部屋に戻って、ベッドに横になった。
手に、紙がある。
よしこが「持って帰り」と言ってくれた練習用の紙。
水、火、風、土、木。
光、闇、石、雨、空。
俺が書いた字。
下手くそだ。
でも——読める。
「水」だ。「風」だ。
これが——字。
俺が、覚えた。
「…………」
よしこは笑わなかった。
「読めへんの?」って聞いてきたけど、笑わなかった。
「教わってへんかったんやろ」って言った。
——そうだ。
俺は、教わってない。
それを、恥ずかしいことじゃないって——
「……くそ」
目が熱い。
何なんだよ。字を覚えたくらいで泣くな。
でも——
よしこが「上手やん」って言ってくれた。
「頭ええ」って言ってくれた。
「きれいに書けとる」って言ってくれた。
誰も——そんなこと、言ってくれなかった。
「…………」
紙を握りしめた。
明日も——教えてもらおう。
べつに。字が読めたら便利だし。
魔王倒すのに、知識は必要だし。
それだけだ。
……それだけだからな。
◆よしこ視点
次の日の夜。
レオンくんがまた来た。
「……昨日の、続き」
「おう。待っとったで(^^)」
今日のテーブルには、ホットミルクだけやない。
根菜のシチューを小鍋で用意した。ガルくんが昼間に「僕も何か作ってみたいです」って言うて、芋の皮むきを手伝ってくれたんよ。不器用やけど丁寧な子や。
蜂蜜パンもある。昨日レオンくんが三切れ食べたから、今日は四切れ焼いた。
レオンくんが机に座った。
シチューを一口すすって——黙った。もう一口。
よし、食べとる。
今日は新しい字や。
「これが『山』。三角のてっぺんが尖っとるやろ。こっちが『川』。線が三本、流れるように——」
「…………」
レオンくんが真剣な顔で紙を見とる。
ペンを握る。
ゆっくり、線を引く。
「……これでいいのか」
「完璧や(^^) もう一個書いてみ」
「…………」
レオンくんがもう一回書いた。
一回目より、きれい。
「うまいやん。どんどん上達しとる」
「……別に」
耳が赤い。
わては黙って見守った。
この子は、字を覚えたいんやない。
「認めてもらいたい」んや。
字が読めることが、自分の価値を証明する手段になると思っとる。
——ちゃう。
レオンくん、あんたはもう十分価値があるんよ。
字が読めても読めなくても、あんたはあんたや。
でもそれを今言うても、届かへん。
やから、わてはただ教える。
褒める。
見守る。
それが、今わてにできることや。
「山、川、森、道、星……全部書けた」
「えらいえらい(^^) ほな明日は次のやな」
「…………」
レオンくんがシチューの残りを飲み干した。
蜂蜜パンを齧った。
「……なんで、俺に字を教えるんだ」
ふいに、聞いてきた。
「ん?」
「あんた、魔王だろ。俺は勇者だ。敵だ」
「うん」
「なのに——」
レオンくんが俯いた。
「なんで、俺に優しくするんだよ」
——あぁ。
この子、ずっとそれが引っかかっとったんやな。
「レオンくん」
「…………」
「わてな、保育士やったんよ。40年間」
「……知ってる」
「保育士はな、子どもを育てるのが仕事や。ごはん食べさせて、字を教えて、『えらいな』って褒める」
「…………」
「それが、わての仕事やってん。——今もや」
「…………俺、子どもじゃねぇ」
「うん。大人になりかけや」
「…………」
「でもな、レオンくん。誰かに『えらいな』って言うてもらえる時間が必要な年頃ってあるんよ」
「…………」
「あんた、今その時や」
レオンくんが顔を上げた。
目が——潤んどる。
「……俺、勇者だぞ」
「知ってる」
「魔王、倒さなきゃいけないんだ」
「うん」
「なのに——」
声が震えとる。
「なのに、なんで——あんたは——」
レオンくんが俯いた。
拳を握りしめた。
「……教えてくれ」
小さな声。
「字、教えてくれ」
「うん」
「俺——読みたい。本、読みたい」
「うんうん」
「字、覚えたい」
レオンくんが顔を上げた。
涙が一筋、頬を伝った。
「……教えてくれ」
——あぁ。
やっと言えたな。
わては立ち上がって、レオンくんの頭にぽんと手を置いた。
「ええよ。何回でも教えたるわ(^^)」
「…………」
「明日もおいで。明後日もおいで。字、全部覚えるまで、ずっと教えたる」
「…………」
レオンくんが小さく頷いた。
涙を拭いて、もう一回、紙に字を書いた。
山、川、森、道、星。
一文字ずつ、丁寧に。
わてはその横で、ホットミルクを淹れ直した。
ふと——廊下の方に気配がした。
リーゼちゃんが、扉の外に立っとる。覗いてるんやない。ただ、立っとる。中の声を聞いとったんかもしれん。
「リーゼちゃん、シチューあるで。入っておいで」
「……いい。……問題ない」
リーゼちゃんは足音もなく去っていった。
でも——ほんの一瞬、扉の隙間から中を見とった。レオンくんが字を書いとるのを。
あの目。何かを欲しがっとる目。でも自分からは手を伸ばせへん目。
——次はあの子の番やな。
魔王城の夜は、静かで、温かかった。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第6話は「字、読めへんの?」です。
レオンが字を読めないことは、彼の来歴——孤児院、ストリート、教会——のすべてを物語っています。誰も彼に字を教えてくれなかった。冒険中もリーゼやガルドに頼って、自分では×印を書くだけだった。「勇者」という肩書きだけ与えられて、魔王討伐に送り出された。それがこの世界の「勇者システム」の実態です。
よしこは笑いませんでした。「教わってへんかったんやろ」——その一言がレオンの心を溶かします。恥ずかしいことじゃない。知らなくて当たり前。教わってないんだから。保育士として、40年間何百回と言ってきた言葉です。
字を教えるシーンは、この作品で一番書きたかった場面のひとつです。この世界の文字——「水」「火」「風」のように自然を象った独特の字体を一緒に練習して、「上手やん」と褒められて、蜂蜜パンとホットミルクで一息つく。その繰り返しが、レオンの「帰る場所」を作っていきます。
「……教えてくれ」——レオンが初めて、よしこに素直に頼みました。これが彼の変化の第一歩です。泣きのポイント、届いたでしょうか。
次回は、リーゼの番です。「ちゃんと食べなさい」——食事を抜くリーゼに、よしこが向き合います。
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