◆リーゼ視点
六日目の朝。
朝食の匂いで目が覚めた。
パンの焼ける匂い。スープの湯気。塩と胡椒と、何かの香草。
——匂いで、わかる。
素材。調理法。火加減。鮮度。
分析魔法の副産物。魔力で物質を解析する時、匂いから情報を読む癖がついた。
魔王の料理は、匂いが「正直」だ。
ごまかしがない。手を抜いていない。丁寧に火を入れた証拠が、匂いに出る。
……お腹が鳴った。
食べたい。
でも——
「……問題ない」
呟いて、ベッドから起きた。
食べなくても動ける。
八歳の時から、そうだった。
◆よしこ視点
リーゼちゃんが、食べてへん。
——気づいたんは、三日目やった。
朝ごはん。リーゼちゃんがパンを半分残した。スープも三口しか飲んでへん。
昼ごはん。ビスケット二枚だけ。
晩ごはん。シチューを少しだけ。
四日目。もっと減った。
五日目。ほとんど口をつけてへん。
六日目の朝。リーゼちゃんが食卓に来て、パンを一口だけかじった。
「……ごちそうさま」
それだけ言って立ち上がろうとした。
「リーゼちゃん」
「……?」
「お腹痛い?」
「……問題ない」
「熱は?」
「……ない」
嘘は言うてへん。顔色は悪いけど、熱はなさそうや。
「そっか。ほな、無理せんでええからな」
「……」
リーゼちゃんが小さく頷いて、食堂を出て行った。
——レオンくんとガルくんが心配そうに見とった。
「……リーゼ、最近あんまり食ってない」
レオンくんがぼそっと言った。
「え……そうなんですか……?」
ガルくんが心配そうに眉を下げる。
「……昔からだ。『食べなくても動ける』って言って、食わない時がある」
「…………」
レオンくんの声に、諦めが混ざっとった。
何度も注意したけど、聞かなかったんやろな。
わては黙って、リーゼちゃんの残したパンを見た。
——食べない。食べられない。食べたくない。
どれやろな。
保育園でもおった。給食を残す子。食べるのが遅い子。偏食の子。
理由は色々や。味覚過敏。食への興味がない。過去のトラウマ。
リーゼちゃんは——
……ちょっと、様子を見よか。
◆リーゼ視点
昼過ぎ。
部屋で本を読んでいた。
魔王城の書庫から借りた魔法書。古い魔術理論が書かれている。
面白い。
以前に学んだ理論体系とは違う部分がある。教会では教えてもらえなかった古い魔術の記述。
集中していた。
時間を忘れていた。
——ふと、匂いが鼻をかすめた。
……何。
甘い。でも砂糖じゃない。
穀物の匂い。塩。生姜。出汁。
穀物を丁寧に炊いた匂い。粒が崩れるまで弱火で煮込んでいる。塩は控えめ。出汁は丁寧に取っている。
——お粥。
誰かがお粥を作っている。
お粥は、体調が悪い人が食べるもの。
魔王城で誰か病人が出たのか。
気になって、本を閉じた。
部屋を出る。
匂いを辿る。
厨房に向かう廊下。匂いが濃くなる。
近づくほど、穀物の甘い匂いが広がっていく。生姜のすっきりした香りが混じっている。
厨房の扉の前で——足が止まった。
「リーゼちゃん、おいで(^^)」
中から、魔王の声。
「……見えてるのか」
「見えてへんで。匂いで気づいたやろ思って」
「…………」
バレてる。
扉を開けた。
厨房の中。魔王が鍋の前に立っている。
湯気が上がっている。白い、とろりとした液体。
お粥だ。
「お腹空いてへん?」
「……問題ない」
「そっか。でもな、これ作りすぎてもうてん(^^) 一人じゃ食べきれへんねん」
「…………」
「ちょっとだけでも、食べてくれへん?」
魔王が器に盛った。
湯気が立つ。赤い木の実の塩漬けが一粒、真ん中に乗っている。酸味のある匂い。
器の縁に、刻んだ香草が散らしてある。
——匂い。
穀物の甘さ。生姜の爽やかさ。出汁の旨味。
全部が調和している。雑味がない。一つ一つの素材が正直に香っている。
……お腹が鳴った。
「……恥ずかしいな」
「ふふ(^^) 正直でええやん」
魔王が椅子を引いた。
「座り(^^)」
「…………」
座った。
器の前。湯気が顔にかかる。温かい。
スプーンを持った。
一口。
——口の中に、優しさが広がった。
「…………」
何これ。
お粥なんて、病人の食べ物。味なんてない。
孤児院では薄い粥が出た。あれは水に穀物が浮いているだけだった。味なんてなかった。
そう思っていた。
でも——
甘い。穀物の甘さ。出汁の旨味。生姜がほんの少しだけ効いている。
赤い木の実の酸味が、全体を引き締めている。
とろりとした舌触り。穀物の粒が残っていて、噛むとまた甘みが出る。
温かい。
胃に染み込んでいく。
冷えていた体の奥に、じわりと温度が広がる。
「……」
二口目を食べた。
三口目。
止まらない。
「美味しい?」
「……」
答えなかった。
答えられなかった。
——美味しい、なんて。
美味しいって言ったら——
生きたいって、認めることになる。
◆よしこ視点
リーゼちゃんがお粥を食べとる。
黙って。
表情を変えずに。
でも——
止まってへん。
スプーンを置いてへん。
——ああ、この子。
お腹空いてたんやな。
「リーゼちゃん」
「……」
「なんで食べへんかったん?」
「……」
「怒ってへんよ。ただ、知りたいだけ」
リーゼちゃんがスプーンを止めた。
器を見つめたまま、小さく呟いた。
「……癖」
「癖?」
「……食べなくても、動けるから」
「いつからそうなん?」
「……八歳」
八歳。
——ああ。
ヴェルザが調べてくれた勇者パーティの報告書に書いてあった。没落貴族の娘。両親が夜逃げ。八歳で路上に放り出された。
食事が不規則な生活。
空腹を感じにくい体になった。
「……食べなくても、大丈夫だった」
リーゼちゃんが続けた。
「……孤児院にいた時も。教会にいた時も。『食べなさい』なんて、誰も言わなかった」
「……うん」
「……だから、食べなくてもいいと思ってた」
声が震えてへん。
淡々としとる。
感情を出さない。
——でも。
この子は、寂しかったんや。
「リーゼちゃん」
「……」
「食べなくても動けるんは、すごいことやで」
「……」
「でもな」
わてはリーゼちゃんの隣に座った。
「食べるのは、生きたいってことやで」
「…………」
リーゼちゃんの手が、止まった。
「食べへんかったら、動けるかもしれへん。でもな、それは『動けるだけ』や。『生きてる』とは、ちゃうねん」
「…………」
「生きるっていうのはな。ごはん食べて、美味しいなって思って、明日もまた食べたいなって思うことやねん」
リーゼちゃんが、ゆっくりとこっちを見た。
薄い青の瞳。
感情を出さない、冷たい目。
——でも。
その奥に、何かが揺れとった。
「……私は、生きたいなんて——」
「思うてええんやで」
「……」
「生きたいって思うてええし、ごはん食べたいって思うてええし、美味しいって言うてええんやで」
「…………」
「誰も言うてくれへんかったかもしれへんけど、わては言うで」
リーゼちゃんの肩に手を置いた。
「ちゃんと食べなさい」
「…………」
「あんたは生きてええんやで」
リーゼちゃんが——
泣かなかった。
表情も変えへんかった。
でも——
スプーンを持つ手が、小さく震えとった。
「……このお粥」
「うん」
「……全部、食べていい?」
「ええよ(^^) おかわりもあるで」
「…………」
リーゼちゃんが、また食べ始めた。
今度は——
少しだけ、ゆっくりやった。
味わうみたいに。
◆リーゼ視点
夜。
ベッドに横になった。
お腹が、温かい。
お粥を二杯食べた。
赤い木の実の塩漬けも食べた。
生姜湯も飲んだ。
——お腹がいっぱいで、眠い。
こんな感覚、いつぶりだろう。
「……食べるのは、生きたいってこと」
——あの人の言葉が、頭の中で繰り返される。
魔王。
いや。
……よしこ。
あの人は自分のことを「よしこ」と言った。魔王なのに。名前で呼んでくれと言わんばかりの、あの力の抜けた笑顔で。
いつからだろう。あの人のことを「魔王」ではなく「よしこ」と思うようになったのは。
多分——「ちゃんと食べなさい」と言われた時だ。
魔王の命令ではなかった。名前を持った誰かの、ただの言葉だった。
生きたい。
……そんなこと、思っちゃいけないと思っていた。
生きたいって思ったら——
失った時に、辛いから。
でも——
よしこは言った。
「生きたいって思うてええんやで」
……本当に?
本当に、私は——
——眠くなってきた。
お腹がいっぱいで、体が温かくて、眠い。
明日の朝ごはんは——
……パンと、スープ。
ちゃんと、食べようかな。
そんなことを思いながら——
眠りに落ちた。
◆よしこ視点
翌朝。
食堂にリーゼちゃんが来た。
いつも通り、無表情。
いつも通り、静か。
でも——
パンを半分残さへんかった。
スープを全部飲んだ。
「……おかわり、ある?」
「あるで(^^)」
おかわりを注いだ。
リーゼちゃんが二杯目を飲んだ。
レオンくんとガルくんが、びっくりした顔で見とった。
「……リーゼ、食ってる……」
「よかった……えへへ……」
ガルくんが嬉しそうに笑った。
リーゼちゃんが小さく呟いた。
「……このスープ。……昨日のお粥と、出汁が同じ」
「よう気づいたな(^^) 同じ出汁やで」
「……」
「鼻、ええんやな」
「……分析魔法の副産物」
「便利やなぁ」
リーゼちゃんが——
ほんの少しだけ。
口の端が、上がった。
——笑った。
初めて、笑った。
ほんの一瞬やったけど、確かに笑った。
「……ヴェルちゃん、見た? リーゼちゃん笑うたで」
「ヴェルザです、魔王様」
「うん(^^)」
ヴェルザが深く溜息をついた。
でも——
その顔も、少しだけ嬉しそうやった。
——ふと、ガルくんの手元が目に入った。
パンを千切って、スープに浸している。一口ずつ、丁寧に。美味しそうに食べとる。
でも——スープの器を持つ手が、小さく震えとった。
誰も気づいてへん。レオンくんはリーゼちゃんの方を見て安心しとるし、リーゼちゃんは二杯目のスープに集中しとる。
ガルくんだけが、静かに震えとった。
……何やろ。
嬉しいんか。それとも——
ガルくんが顔を上げた。わてと目が合った。
「……あ、すみません、ぼく……何でも、ないです……」
笑おうとした。でも、その笑顔がちょっと歪んどる。
「……えへへ……」
——あぁ。
この子、何か抱えとるな。
リーゼちゃんの次は——
食卓を囲む五人。
今日も、ごはんが美味しい。
それだけで、ええんや。
それだけで——
この子らは、ちゃんと生きてるんや。
【あとがき】
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第7話はリーゼの話です。
リーゼは食事を抜いていました。「食べなくても動ける」——それは本当です。彼女は八歳から、食べなくても動ける体になっていた。でも、それは生きているとは言えない。よしこは気づきました。「動ける」と「生きてる」は違うんです。
「食べるのは、生きたいってことやで」——よしこの言葉です。これは命令じゃありません。許可です。「生きたいって思うてええんやで」。リーゼは今まで、生きたいと思っちゃいけないと思っていた。生きたいって思ったら、失った時に辛いから。でも、よしこは言いました。思ってもいいんだよ、と。
お粥のシーンは、この作品の核です。ごはんは「生きる許可」なんです。リーゼが初めて「おかわり、ある?」と聞いた瞬間が、彼女の変化の始まりでした。
そして朝食の食卓で、リーゼが笑いました。ほんの一瞬。でもよしこは見逃しませんでした——保育士ですから。そしてもうひとつ、見逃さなかったものがあります。ガルドの手の震え。嬉しいのか、辛いのか。この子は何を抱えているのか。
次回、第8話「あんたはあんたでええ」。戦えない自分を責めるガルドに、よしこが向き合います。
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