工房の扉を開けた瞬間、小麦粉と焼けた薪の匂いが鼻を突いた——そこに混じる、かすかな秋の冷気。まだ日が昇りきっていない。
レンは木材の束を肩に担ぎ、エルナのパン工房の裏口をくぐった。窓の外の空が、青灰色からうっすらと橙に変わり始めている。昨日の夕方、丘の上でエルナに言われた言葉がまだ耳に残っている。
——棚増やすの手伝って。ゴーレムじゃなくて、あんたが。
正直なところ、最初は意味がわからなかった。ゴーレムに指示を出せば三十分で完璧な棚が仕上がる。寸法は正確、仕上がりは均一、釘の打ち込み角度まで最適化された棚だ。
それを、わざわざ自分の手でやれと言う。
非効率の極みだ。
「来たの」
エルナが工房の奥から顔を出した。いつものエプロン姿。小麦色の髪を後ろで束ねて、手には採寸用の紐を持っている。
「来た」
「木材、そこに置いて。あと、これ」
渡されたのは、金槌と釘の入った木箱。それから、手書きの設計図——というか、落書きに近い図面だ。棚の形と寸法が、エルナの丸い字で書かれている。
「……これ、仕様書?」
「仕様書って何」
「設計図のことだ」
「じゃあ設計図って言いなさいよ」
レンは図面を見た。三段の棚。高さ百五十。幅は窓の下に合わせて百二十。奥行き三十。寸法は明確で、エルナなりに考え抜いた形だった。
「ここにパンの冷却棚を置きたいの。焼き上がったパンを並べて、粗熱を取る場所。風通しがいいように、背板は要らない」
「了解。構造的には——」
「難しい話はいいから、とりあえず板を切って」
レンは鋸を手に取った。
——十分後。
「曲がってる」
エルナが切った板を持ち上げて、目の高さで確認した。切断面が微妙に斜めだ。
「……手の安定性が足りない」
「手ぶれね。あたしでもまっすぐ切れるのに」
「鋸のインターフェースが——」
「道具のせいにしない」
レンは黙って、もう一枚切り直した。今度は少しマシだが、まだ完璧とは言えない。三枚目で、ようやくエルナが頷いた。
「まあ、これでいいでしょ。……別にあんたのためにやり直してるわけじゃないんだから。棚が歪んだら困るのはあたしよ」
「わかってる」
「次、釘」
釘を打つ。
レンは金槌を握り、板を合わせ、釘の頭に金槌を振り下ろした。
釘が曲がった。
「あっ」
「力入れすぎ」
もう一本。今度は金槌が滑って、指を打った。
「いっ——」
「ほら、言わんこっちゃない」
エルナが呆れた顔でレンの手を取り、赤くなった指を確認した。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「大丈夫って言う時のあんた、だいたい大丈夫じゃないけど」
エルナの手のひらが温かい。パン生地をこねてきた手だ。薄いタコがあって、指先が少しだけ硬い。
レンは一瞬、その手の感触に意識を持っていかれた。
エルナが手を離す。
「こうやって持つの。金槌は端じゃなくて、もう少し上を握って。釘は最初だけ軽く叩いて、板に噛ませてから本打ち」
見本を見せてくれた。軽く、軽く、——コンッ。釘が板に食い込む。そこからぐっと力を入れて、三打で頭まで打ち込んだ。
「……うまい」
「当たり前。棚くらい自分で作るもの」
レンは教えられた通りにやってみた。
軽く、軽く——コンッ。釘が板に噛む。力を入れて——コンッ、コンッ。
曲がらなかった。
「お。できたじゃない」
エルナの声が、ほんの少し明るい。
「一本だけどな」
「一本できれば十本できる。十本できれば棚ができる」
その論理には反論できなかった。
***
一時間かけて、棚の骨組みが完成した。
ゴーレムなら十五分。エルナ一人でも四十分くらいだろう。レンの不器用さのせいで、余計に時間がかかっている。
だが——不思議と、悪い気はしなかった。
「板、そっち押さえてて」
「ここ?」
「もうちょい右。……そう、そこ」
二人で棚板を水平に合わせ、レンが釘を打つ。エルナが反対側から板を支える。
手が離せない体勢で、自然に距離が近くなった。
エルナの肩が、レンの腕に触れた。
レンは気づかなかった。釘の頭に集中していたからだ。板がずれないように慎重に打ち込む。一本、二本、三本——よし、固定できた。
「できた」
顔を上げると、エルナが横を向いていた。耳が赤い。
「……どうした?」
「なんでもない。次の板」
エルナの声が少し硬い。レンは首を傾げたが、深く考えずに次の板を手に取った。
***
棚が完成したのは、昼前だった。
三段の冷却棚。背板なし。風通し良好。切断面は少し粗いし、釘の打ち方にもムラがあるが——立っている。パンを並べても倒れない。
「……悪くない」
エルナが棚を押したり引いたりして、強度を確認している。
「何点だ?」
「採点制にしないでよ」
「前回20点だったから、比較したい」
エルナが渋い顔をした。棚をもう一度見て、指で表面を撫でた。
「……35点」
「上がった」
「棚は棚でしょ。パンと基準が違うの」
「じゃあパン基準で」
「パン基準なら0点。これパンじゃないし」
「それはそう」
エルナが少し笑った。すぐに真顔に戻ったが、口の端がまだわずかに上がっている。
「じゃあ、棚も作ったし——パン、手伝って」
「……またか」
「何よ、嫌なの」
「嫌じゃない」
レンは自分の返事の速さに、少し驚いた。
エプロンを借りて、生地をこねる。前にパンを初めて教わった日以来、何度かエルナの工房で手伝いをしている。最初は20点だった腕前が、少しずつ上がっている。
押して、畳んで、また押す。エルナに教わったリズム。生地の下から立ちのぼる小麦の香り。窓の外では、風に乗った枯葉がかさかさと通りを転がっていく。秋の午後の、柔らかい光が工房に差し込んでいた。
「力加減、ちょっとマシになったわね」
「練習した」
「嘘でしょ。いつ」
「ゴーレムの制御が空いてる時に、こっそり」
エルナが目を丸くした。
「……あんた、ゴーレムの合間にパンこねてたの?」
「問題ある?」
「ない。ないけど……」
エルナは何か言いかけて、やめた。代わりに自分の生地に視線を落とした。
「成形、やってみて」
丸パン。前回は歪な楕円しか作れなかった。
レンは生地を手のひらで丸める。回して、押して、形を整える。エルナの動きを何度も見てきたから、手順は頭に入っている。でも、頭と手は別だ。
出来上がった丸パンは——前回よりは丸い。でもエルナのものと比べると、どこか歪で、大きさも不揃いだ。
「前よりマシ」
「何点?」
エルナが生地を手に取り、重さを確かめ、形を見た。
「30点」
「20点から昇格した」
「10点分しか上がってないけど」
「10点は大きい。前世なら——」
「前世の話はいいから」
エルナがレンの生地を窯の近くに並べた。発酵を待つ間、二人は工房の片隅に座った。
窯の薪がぱちぱちと爆ぜる音。生地がゆっくり膨らんでいく気配。小麦粉の匂いと、かすかなイースト菌の酸味。窓の外の木々が揺れるたびに、赤や黄の葉が一枚、二枚と舞い落ちていく。
静かだった。
「ねえ」
「ん?」
「あんた、最近ゴーレムの数減らしたでしょ」
レンは少し驚いた。気づいていたのか。
「……減らしたんじゃない。配置を変えた。村の外周の開拓に回して、中心部は人手でやるようにした」
「なんで?」
「なんでって……」
レンは言葉を探した。効率の話ではない。ガルドじいさんの畑の件、エルナのパンの話、イグニスの忠告——いろいろなものが積み重なって、自然とそうなった。
「……わからない。ただ、そのほうがいい気がした」
エルナは何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ——本当にほんの少しだけ、笑ったように見えた。
見間違いかもしれない。
窯の炎が揺れて、エルナの横顔に影を落としている。小麦色の髪が耳にかかっている。エプロンの紐がほどけかけている。
レンの胸の奥で、何かが静かに動いた。
名前のない感覚だ。効率とは無関係で、最適化の対象にもならない。ただ、エルナの隣にいるこの時間が——心地いい。
それだけのことなのに、うまく言語化できない。
「焼けたわよ」
エルナが立ち上がった。
窯から出したパンは、レンのものが少し焦げて、エルナのものは完璧な狐色だった。
エルナがレンのパンをちぎって、口に運ぶ。噛む。もう一度噛む。
「……前より、ちょっとだけ味が出てきた」
「味が出るって、何が変わるんだ」
「わかんない。でも、変わった」
レンも自分のパンを食べた。焦げた部分は苦いが、中はふわりとしている。前よりも——確かに、何かが違う気がする。
その「何か」が、手の温度なのか、経験なのか、それとも——
「おーい!」
工房の入口から、でかい声が飛び込んできた。
カイルだ。金髪を逆立てた大柄な戦士が、入口に体をねじ込むようにして顔を出している。
「何やってんだ、お前ら。おー、デート?」
時間が止まった。
レンは特に何も感じなかった。「デート」という単語の意味は知っているが、今の状況に適用される理由がわからない。棚を作って、パンを焼いた。それだけだ。
一方、エルナは——
「デ……っ!」
顔が赤くなった。耳まで赤い。それから——
工房の壁にかかっていたフライパンを手に取った。
「違うわよバカ! 覗くな! 出てけ!」
「うおっ!」
フライパンがカイルの頭を直撃した。鈍い金属音が工房に響く。カイルが廊下に吹っ飛んだ。
「いってえ! 何すんだエルナちゃん!」
「エルナちゃん言うな! あんたのせいで変な空気に——とにかく出てけ!」
カイルが「すまんすまん」と笑いながら退散していく。エルナはフライパンを壁に戻し、荒い呼吸を整えた。
「……まったく」
レンは首を傾げた。
「なんで怒った?」
エルナがレンを見た。疲れた目だ。
「……あんたって本当に、そういうとこ鈍いわよね」
「何が?」
「もういい」
エルナは背を向けて、焼き上がったパンを棚に並べ始めた。さっき一緒に作った、あの棚に。
不揃いの釘が打たれた、少し粗い棚。その上に、エルナのパンが並んでいく。
その光景が、妙に——よかった。
レンにはまだ、その感覚に名前をつけられなかった。
***
夕方。
レンが工房の片付けを終え、エルナと一緒に入口に立った時だった。
「レンさん!」
通りの向こうから、息を切らせた声が聞こえた。
メイラだ。薄い金髪のロングヘアが揺れ、丸眼鏡が夕日を反射している。白いローブの裾を両手で持ち上げ、小走りで駆けてくる。インクの染みが袖についている。いつも通りだ。
「メイラ、どうした」
「あ、あの、レンさん、大変なんです!」
メイラが目を輝かせている。頬が紅潮して、息が上がっている。純粋な興奮——学術的な発見をした時の、あの顔だ。
「落ち着け。何があった」
「新しい発見です! レンさんの生成魔法の構造を分析していたら、既存の理論では説明できない共鳴パターンが——今すぐ見てほしいんです!」
メイラの目が、きらきらと光っている。レンに向けられたまっすぐな視線。知的好奇心と、それだけではない——もう少し柔らかい何かが混じっているように見えた。
レンは気づかない。
「共鳴パターン? それは面白い。データはどこに——」
「こっちです! 研究室に置いてあります。急ぎましょう!」
メイラがレンの袖を引いた。
レンは「じゃ、エルナ、今日はありがとう」と振り返った。
エルナは工房の入口に立っていた。
さっきまでの柔らかい空気は、もうなかった。
エルナの口元は笑っているが、目が笑っていない。何かを飲み込んだような——そんな表情に見えた。右手が無意識にエプロンの裾を握りしめている。
「……うん。お疲れ」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
レンは一瞬、足を止めた。何か引っかかる。エルナの声のトーンが、さっきまでと違う。でも何が違うのか、それがわからない。
メイラが「レンさん、こっちです!」と先を急いでいる。
「——また明日」
レンはそう言って、メイラの後を追った。
通りを歩きながら、メイラが早口で共鳴パターンの概要を説明している。レンはそれに応えながらも、頭の隅でエルナの表情を反芻していた。
あの、エプロンの裾を握る癖。怒っている時でもなく、呆れている時でもなく——もっと別の、名前のない感情の時に出る仕草。
なんだったんだろう。
答えが出ないまま、レンはメイラの研究室に向かった。棚の上のパンが、まだ温かい湯気を上げていたことを——もう忘れていた。