ドルクは、人を観察する男だった。
口数は少ない。余計なことは言わない。だが、火床の前に四十年も座っていれば、炎の色で鉄の温度がわかるようになる。同じように、人の顔色で何を考えているかくらいは読めるようになる。
だからこそ、あいつのことが信じられない。
夕暮れ時。工房の一日が終わろうとしていた。
ドルクは鍛冶場の火を落とし、額の汗を革手袋で拭った。今日の仕事はミルデ村向けの刻印板の仕上げだ。悪くない出来だった。
工房の窓越しに、診断室の明かりが見える。
毎日同じ光景が繰り広げられている。
「リオンさん、この数字なんですけど」
ミーナの声だ。明るくて、少しだけ甘い。
ドルクは鍛冶場の入り口に寄りかかり、腕を組んだ。ここからだと、診断室の中がよく見える。
ミーナが帳簿を広げて、リオンの隣に座っている。
帳簿を見せるという名目だ。だが、あの座り方は帳簿を見せる距離じゃない。肩が触れるか触れないかの間合い。栗色のツインテールが揺れるたびに、リオンの肩に毛先がかすめている。
「ああ、先月と比較すると修理依頼の件数が」
リオンは帳簿の数字を追っている。
数字だけを。
「ミーナ、ここの数字、前月比で12%増えてるね。ルーンフェル以外の契約が入ったからか」
「は、はい。ブラント村とミルデ村からの修理依頼が」
「いいペースだ。このまま行けば、来月には資材の先行発注ができる。発注サイクルを月次から隔週にしたいんだけど、在庫管理のコストと比較してどう思う?」
ミーナの表情が、一瞬だけ曇った。
ほんの一瞬。すぐに笑顔を貼り直したが、ドルクには見えた。
あれは、「また仕事の話か」という顔だ。
「……在庫管理のコストですね。えっと、計算してみますね」
ミーナは帳簿に視線を落とした。その横顔は笑っていたが、睫毛の影が目元に落ちていた。
ドルクは鼻を鳴らした。
日が完全に落ちた頃、エルナが工房に戻ってきた。
「お疲れ様です! カーレン村の灯火魔法陣、定期点検終わりました」
エルナは作業着のまま診断室に入り、報告書を棚に入れた。報告は口頭だけでなく書面で残す。リオンが決めたルールだ。
「お疲れ、エルナ。異常は?」
「なかったです。出力は安定してて、刻印の摩耗率も許容範囲内でした。次回点検は三ヶ月後で」
「ちゃんと手順書に沿ってやれた?」
「はい! 全チェック項目、確認しました。……リオンさん、少しは信用してくださいよ」
「信用してるから任せてる。確認してるのは手順書の精度のほうだ。現場で使いにくい箇所があったら教えてほしい」
エルナが口をつぐんだ。
頬がわずかに赤い。「信用してる」の一言が嬉しかったのだろう。だが当のリオンは、すでに巻物に何かを書き始めている。手順書の改訂メモだ。
ドルクは、また鼻を鳴らした。
夜。
リオンとドルクは、工房の裏手にある薪置き場に腰を下ろしていた。
ドルクが持ってきた蒸留酒の瓶が、二人の間に置いてある。辺境産の安い酒だが、悪くない味だ。火床の後にはこれがいい。
星が出ていた。前世では見られなかったという星空を、リオンはいつも眩しそうに見上げる。
「今日も平和だったな」
リオンが木の椀に酒を注ぎ、一口飲んだ。
「ああ」
ドルクも椀を傾けた。
しばらく、虫の音だけが聞こえていた。
「ドルクさん、明日の刻印板の件なんだけど」
「待て」
ドルクは酒を口に含み、ゆっくりと嚥下した。
「仕事の話は明日にしろ。定時で帰るのがお前のルールだろう」
「……それもそうだ」
リオンが苦笑した。こいつは放っておくとすぐ仕事の話を始める。前世の癖だと本人は言うが、ドルクに言わせれば癖ではなく性分だ。
酒を二杯ほど飲んだところで、ドルクは切り出した。
「リオン」
「はい」
「お前、何とも思わねぇのか」
「……何がですか?」
リオンが首を傾げた。本当にわかっていない顔だった。
ドルクは空を仰いだ。この星空よりも果てしない鈍さだ。
「ミーナだよ」
「ミーナ? ああ、今日の帳簿の件なら」
「帳簿じゃねぇ」
ドルクは椀を薪の上に置いた。
「あいつが毎日帳簿を持ってお前の隣に座ってるの、帳簿のためだと思ってんのか」
沈黙。
虫の音。
リオンが真顔で答えた。
「……え、違うんですか? 数字の確認は対面でやったほうが正確だし、紙の資料は並んで見たほうが」
「阿呆か」
ドルクの声が低くなった。鍛冶場で弟子に駄目出しするときの声だ。
「お前、あれだけ女に囲まれてて何とも思わねぇのか。ミーナだけじゃねぇぞ。嬢ちゃん——エルナもだ」
「エルナ? エルナがどうかしたんですか。まさか体調でも」
「体調じゃねぇ!」
ドルクは頭を掻いた。こいつと話していると、鉄を打つより疲れる。
「いいか、よく聞け。ミーナは帳簿を口実にお前の隣にいたいんだ。嬢ちゃんは、お前が夜中に無茶してないか毎晩工房の明かりを確認してから寝てる。それがわからねぇのか」
リオンは目を瞬かせた。
「……それは、仕事仲間として心配してくれてるんだと思いますけど」
「仕事仲間」
「はい。大事な仲間です。だからこそ、僕は」
「リオン」
ドルクは溜息をついた。
「お前さ、ログを見てエラーを見つけるのが前世の仕事だったんだろう」
「ええ、まあ」
「今のお前は——ログにでかでかと『エラー』って書いてあるのに、読み飛ばしてる状態だぞ。しかも二つ同時にだ」
リオンの手が止まった。
リオンは椀の中の酒を見つめた。
ドルクの言葉が、妙に引っかかった。
ログの中のエラーを読み飛ばしている。前世の九条諒がそんなミスをしたら、始末書ものだ。
でも、それとこれとは話が違う。
「ドルクさん。僕は……仕事仲間を、仕事仲間として大事にしてるだけです」
「それはわかってる」
「前の世界で、僕は大事なものの優先順位を間違えた。仕事を優先して、人を後回しにした。だから」
「だから今度は人を大事にしてるんだろ? それは見てりゃわかる。お前は仲間を大事にする男だ」
ドルクは酒を一口飲んだ。
「だがな、リオン。『仲間として大事にする』と『女として見ない』は、別の話だ」
リオンが黙った。
ドルクは続けた。
「お前が恋愛を後回しにしてるのは、なんとなくわかる。前の世界で痛い目を見たんだろう。順番を間違えたくないっていう気持ちも、まあ、わかる」
「……ドルクさん」
「だが——順番を間違えたくないって言いながら、また仕事を先にしてねぇか?」
星空の下、沈黙が落ちた。
虫の音だけが、二人の間を流れている。
リオンは何か言おうとして、口を閉じた。
「……返す言葉がないです」
「だろうな」
ドルクは椀を持ち上げ、ぐいっと飲み干した。
「まあ、俺がどうこう言うことじゃねぇ。お前の人生だ。ただ——嬢ちゃんもミーナも、待ってくれるのは永遠じゃねぇぞ」
「……覚えておきます」
「覚えるだけじゃなくて——ログに書いとけ。お前、そういうの得意だろう」
リオンが思わず噴き出した。
「ログに書くのは得意ですけど、こういうのはドキュメントにしづらいな……」
「知るか」
同じ頃。
工房の二階、エルナとミーナに割り当てられた部屋。
エルナが髪を下ろし、寝台の端に腰かけている。ミーナは向かいのベッドに座り、計算道具を鞄にしまったところだった。
窓の外から、微かに男二人の話し声が聞こえる。リオンとドルクが薪置き場で飲んでいるのだろう。何を話しているかまでは聞こえないが、時折リオンの笑い声が風に乗ってくる。
「ミーナちゃん」
「はい?」
「今日も……帳簿の件、お疲れ様」
エルナの声には、微妙な含みがあった。
ミーナは一瞬だけ固まり、それから困ったように笑った。
「エルナさん、もしかしてバレてます?」
「バレてるもなにも……。毎日、帳簿を見せるのに隣に座る必要ないでしょ。向かいの席でもいいはずなのに」
ミーナは頬を膨らませた。
「……向かいだと数字が逆さまになるじゃないですか」
「嘘つき」
「嘘じゃないです。半分は本当です」
「半分って」
「半分は仕事。もう半分は……まあ、その」
ミーナは栗色の髪をくるくると指に巻きつけた。
「リオンさんの隣って、落ち着くんですよ。あの人、いつも同じ温度じゃないですか。慌てないし、怒鳴らないし。お父さんのお店は毎日怒号が飛び交ってたから……安心するっていうか」
「……わかる。どんな障害が起きても声が変わらないんですよね。あの落ち着きが——」
二人は同時に口をつぐんだ。同じ人のことを語っていると気づいたからだ。
気まずい沈黙の後、先に口を開いたのはミーナだった。
「……エルナさん、あたしたちって、ライバルなんですかね」
「えっ」
「いや、だって。あたしもエルナさんも、リオンさんのことが」
「ちょ、ちょっと待って! 私は別にそういうんじゃなくて! 師匠として尊敬してるだけで!」
エルナの声が裏返った。顔が耳まで赤い。
「師匠として尊敬してる人の夜間作業を毎晩チェックする弟子って、いますかね」
「それは! あの人が無茶するから! 過労で倒れたら困るのは工房全体なんだから!」
「はいはい」
ミーナは笑った。エルナの取り乱し方で、十分わかった。
「まあ、どっちにしても——」ミーナは窓の外に視線を向けた。薪置き場の方角。「あの人には、全然伝わってないですよね」
エルナの肩が落ちた。
「……うん。全然」
「今日も帳簿の話の最後、あたしが『リオンさん、たまにはあたしの話も聞いてくださいね』って言ったら、『もちろん。業務改善の提案はいつでも歓迎だよ』って」
「業務改善……」
「業務改善って返されたんですよ!? あたしの気持ちは業務改善じゃないんですけど!」
エルナが思わず吹き出した。
「ふふ……ごめん、笑っちゃいけないんだけど……」
「笑っていいですよ。あたしも笑うしかないですから」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。同じ人を想って空振りしている者同士の、不思議な連帯感だった。
「でも」ミーナが言った。「あたし、諦めないですよ」
「……私も」
エルナが小さく、でもはっきりと言った。
「仕事の話しかしないなら、仕事で認めてもらう。いつかあの人が仕事以外にも目を向けたとき、一番近くにいるのは私だって思ってもらえるように」
「それ、あたしの台詞なんですけど」
「先に言ったもの勝ちです」
ミーナが目を細めた。
「……エルナさんって、たまにずるいですよね」
「ミーナちゃんほどじゃないよ。毎日帳簿で隣に座る子には負けるもん」
二人は再び笑い合い、それぞれの寝台に潜り込んだ。
窓の外から、リオンの声がかすかに聞こえた。何かの数字を、ドルクに話しているようだった。
ミーナは布団の中で呟いた。
「……リオンさんのログには、あたしのことちゃんと記録されてるのかな」
エルナは天井を見つめ、同じことを考えていた。
翌朝。
工房の診断室で、いつもの朝が始まった。
リオンは机に向かい、昨日の点検レポートを整理している。エルナは棚の監視装置をチェックし、各地の魔法陣の稼働状態を確認する。日課だ。
「おはようございます、リオンさん!」
ミーナが入ってきた。手に帳簿と、もう片方の手にパンとスープの乗った盆。
「おはよう。ミーナ、朝ごはんまで用意してくれたの?」
「リオンさんが自分で用意すると、パンだけかじって終わりでしょう。栄養管理も経営資源の維持管理です」
「……それは確かに正論だ」
リオンはスープを受け取り、一口すすった。
「うまい。ありがとう」
ミーナの頬がほんの少し上気した。が、リオンはもう巻物に目を落としている。
「それで、帳簿の件なんだけど」
「はい!」
ミーナが嬉々として隣に座る。帳簿を広げ、肩が触れるか触れないかの距離に。
その光景を、鍛冶場の入り口からドルクが見ていた。
昨夜の会話を思い出す。
「仕事仲間として大事にしてるだけです」
お前、本当に見えてねぇのか。
ドルクは腕を組み、首を振った。
「ドルクさん? どうかしました?」
エルナが不思議そうに声をかけてきた。棚の前で監視装置のメモを取っている。
「いや、なんでもねぇ」
「変な顔してましたよ」
「鍛冶師は火を見すぎるとこういう顔になるんだ」
「嘘っぽいですけど……」
エルナは首を傾げつつ、作業に戻った。
ドルクは視線を診断室に戻した。
ミーナが数字を指さしながら説明している。リオンは真剣な顔で帳簿を覗き込んでいる。二人の距離は近い。だがリオンの目に映っているのは、帳簿の数字だけだ。
「……やれやれ」
ドルクは鍛冶場に戻り、火床に薪をくべた。
鉄は熱すれば応える。打てば形になる。単純で、正直だ。
人の心は、そうはいかない。
夕方。
工房の一日が終わり、片付けが始まる。
リオンが道具を棚に戻し、エルナが床を掃き、ミーナが帳簿を閉じる。ドルクは鍛冶場の火を落とし、最後の検品を済ませる。
いつもの光景。いつもの動き。
よく回るチーム。それぞれが自分の役割を理解して、無駄なく動いている。
リオンが窓の外を見て、呟いた。
「……いいチームだな」
その言葉を、三人がそれぞれ聞いた。
エルナは嬉しそうに微笑んだ。
ミーナは複雑な顔をした。
ドルクは——また鼻を鳴らした。
いいチームだ。そこは間違いない。
だが——チームの半分がリーダーに片想いしていることに気づかないリーダーは、果たして「いいリーダー」と言えるのか。
このエラーログ、放置するとそのうち重大障害に発展する。だがドルクにできるのは、警告を出すことだけだ。
やれやれ。
「じゃあ、お疲れ様でした。定時です」
リオンが宣言し、工房の看板を裏返した。
『本日の業務は終了しました——夜間の緊急連絡はご遠慮ください』
エルナとミーナが並んで二階に上がっていく。途中でくすくす笑っているのが聞こえた。
リオンがドルクに言った。
「今日も一日、いい仕事でしたね」
「ああ」
「ドルクさん、明日の刻印板——」
「仕事の話は明日だ」
「……はい」
リオンは苦笑して、自室に向かった。
ドルクは一人、薪置き場に腰を下ろした。
瓶の残りを椀に注ぎ、一口飲む。
星空が広がっている。
二階の窓に明かりが灯った。嬢ちゃんとミーナの部屋だ。今夜もきっと、あの男の話で盛り上がっているのだろう。
一階の窓にも——明かり。
「……また仕事してやがるな」
定時で帰ると宣言しておいて、自分は守れない。
二階の窓から、エルナがそっと顔を出した。リオンの部屋の明かりを確認して、小さく溜息をついている。
明日の朝、嬢ちゃんが「昨夜何時に寝ましたか?」と問い詰める光景が目に浮かぶ。
ドルクは椀を空にし、立ち上がった。
「明日も、同じ光景だろうな」
辺境の夜は静かだ。工房の灯りが三つ。一つはエラーに気づかない男。一つは監視を続ける弟子。一つは帳簿の裏で想いを隠す経理。
そして鍛冶場の灯りが消え、四つ目の存在は闇に溶けた。
——ログは溜まる一方だ。対応する気配は、まだない。
【あとがき】
ドルク視点のラブコメ回。「ログにエラーが出てるのに読み飛ばしてる」は、鈍感主人公への最高のIT的ツッコミだと自負しています。