帳簿が合わない。
ミーナは工房の事務机に向かい、三ヶ月分の収支記録を睨んでいた。隣の診断室からはリオンが小型魔法陣を修理する気配。窓の向こうではドルクの金槌の音。
いつもの朝だ。平和で、穏やかで、そして帳簿は赤字だった。
収入の部。修理依頼四件で銀ゼル36枚。支出の部。資材費と人件費で銀ゼル38枚。差し引きマイナス2枚。
「赤字じゃないですか……」
原因は明白だった。今の工房は「壊れたら直す」で動いている。壊れなければ仕事がない。仕事がなければ収入がない。しかもリオンが直すと壊れにくくなるから、リピートも減る。
技術的には最高。経営的には最悪。
ミーナは帳簿をぱたんと閉じ、立ち上がった。
「リオンさん、お仕事の話です。大事な話」
診断室に入ると、リオンは作業台の魔法陣を【診断】で調べていた。目が微かに光っている。
「ちょっと待って。この刻印、パスの分岐点にクラックが」
「リオンさん!」
「……なに」
「今月の収支、赤字です。このままだと半年で資金が底をつきます」
リオンは診断の光を消し、困った顔をした。技術の話では冷静沈着な男が、お金の話になるとてんでダメになる。
「えっと……もっと依頼を受ければ」
「壊れないと来ないんです」
「……いいことなのに」
「技術的にはね。商売としては成り立ってません」
ミーナは帳簿の空白ページを開いた。
「前の世界では、こういう問題をどうやって解決してたんですか?」
リオンは腕を組み、前世の記憶を辿った。
運用保守の収益化。ITサービスのビジネスモデル。自分はエンジニアだったから営業の仕事は詳しくないが、骨格は知っている。
「……保守契約っていうのがあった。お客さんと契約を結んで、毎月決まったお金をもらう。その代わり定期的にシステムを点検して、壊れたら優先的に直しに行く」
ミーナの顔がぱっと輝いた。
「それです! 毎月決まったお金! 定期点検! 優先対応! 今のあたしたちの仕事にそのまま使えるじゃないですか!」
ペンが走り始めた。
「月額固定で保守料をいただく。定期的に魔法陣を点検する。障害が起きたら契約村を優先で駆けつける。——あと、稼働率って概念ありましたよね」
「……よく覚えてるな」
「数字に関わる話は忘れません。稼働率を保証するんです。年間でこれだけの時間は魔法陣が動いてることを約束して、下回ったらペナルティを払う」
リオンは目を見開いた。
「それ、SLAだ」
「えすえるえー?」
「Service Level Agreement。サービス品質保証契約。前世で散々やったやつだ……」
ミーナがペンを止め、首を傾げた。
「散々って、嫌な思い出なんですか?」
「……いや。道具自体は悪くない。使い方が悪かっただけだ」
「どういう意味です?」
リオンは少し迷ってから、口を開いた。
「前の世界には四九っていう数字があった。稼働率99.99%。一年間で許される停止時間が——」
「52分33秒」
即答だった。ミーナの暗算速度に、リオンは思わず笑う。
「……正解。たった52分半。それを守るために、僕は自分の人生の稼働率を全部差し出した。夜中に叩き起こされて、休日も呼び出されて。0.01%を守るために、100%を失った」
ミーナは黙ってリオンの顔を見つめていた。数字には強い彼女だ。その「割に合わなさ」を、正確に理解している。
「でも」
リオンは静かに言った。
「あのときの失敗があるから、今の契約をまともに設計できる。99%でいい。一人で守らなくていい。チームで回す前提で組めば、四九じゃなくても十分に価値がある」
ミーナは頷き、ペンを走らせた。その目が少し潤んでいたことに、リオンは気づかなかった。
昼過ぎまでかけて、ミーナが契約書の素案をまとめた。
稼働率99%保証——年間で許される停止時間は約三日半。「99.9%だと?」と聞けば「8.76時間。丸一日も止められない」と即答する。商人の計算速度は、前世のExcelより速い。
月額銀ゼル15枚。定期点検は月一回。障害対応は連絡から半日以内。稼働率未達の月は保守料を半額。
「ペナルティまで入れるのか」
「契約は双方に公平じゃないと長続きしませんから」
ミーナが胸を張った。横で聞いていたエルナが感心したように呟く。
「ミーナちゃん、すごいね……」
「エルナさんは魔法がすごいじゃないですか。あたしは数字と契約が担当です」
二人が笑い合う光景を見て、リオンはふと思った。前世では技術と営業はいつもぶつかっていた。でもここでは互いの仕事を認め合っている。チームとは、本来こういうものだ。
午後、リオンとミーナはルーンフェル村の村長グラムを訪ねた。
グラムは囲炉裏端に座り、渋茶を啜っていた。白い顎鬚をしごきながら、二人を迎え入れる。この村で五十年以上を過ごしてきた老村長だ。
「おう、二人揃って珍しいな。何の用だ」
「村長、ご相談があります」
ミーナが契約書の巻物を広げた。グラムが目を細める。
「——魔法陣保守運用契約。何だこりゃ」
「壊れる前に見つけて直します。壊れたらすぐ行きます。一年のうち三日半以上は止めません。月々銀ゼル15枚で全部やります」
グラムは巻物を持ち上げ、ひっくり返すように眺めた。それから囲炉裏の火を見つめ、渋い顔で言った。
「こんな紙切れ一枚で、何が変わるんだ」
ミーナは動じなかった。
「紙切れ一枚で変わるんです。今まで壊れてから慌てて駆け込んでたのが、壊れる前に見つけて直せるようになる。それだけで村の暮らしが全然違います」
「魔法陣はゴルドが見とる。五十年、大きな問題は起きとらん」
「ゴルドさんは素晴らしい技術者です。でも、ゴルドさんが風邪を引いたらどうしますか? 腰を痛めて動けなくなったら?」
グラムの表情が僅かに揺れた。急所を突かれた顔だ。
「月々銀ゼル15枚は高いと思うかもしれません。でも」
「高いな」
「高くないです」
ミーナは即答した。
「去年ハーゼル村で水浄化魔法陣が壊れたとき、きれいな水を他所から買うのに銀ゼル200枚以上かかりました。ルーンフェル村でも同じことが起きてたかもしれない」
グラムの目が細くなった。
「月々銀ゼル15枚。年間で180枚。壊れてから200枚払うのと、壊れないように180枚払うの、どっちがお得ですか?」
「……ふむ」
グラムは顎鬚をしごき、契約書を読み返した。
「稼働率99%か。下回ったら保守料が半額になると」
「はい。契約は公平じゃないと続きませんから」
グラムは渋茶を一口啜り、リオンに目を向けた。
「お前さんはどう思う。本当にできるのか」
「できます」
リオンは静かに、しかし迷いなく答えた。
「魔法陣の状態は僕の【診断】で事前に把握できます。壊れてから直すんじゃなくて、壊れそうなところを先に見つけて対処する。予防保全です」
グラムは長い沈黙の後、ゆっくり頷いた。
「三ヶ月、試しにやってみろ。ちゃんと動いて問題がなければ、正式に村の予算として契約する」
「お受けします。ただしトライアル期間中も保守料は正規でいただきます」
グラムが眉を上げた。
「無料にはしません。無料だとあたしたちの仕事に値段がないことになっちゃいますから」
グラムは一瞬驚いた顔をして——大きく笑った。
「はっはっは! 商人の娘だな。気に入った。きっちり払うから、きっちり仕事してみせろ」
「もちろんです!」
ミーナが頭を下げ、リオンも続いた。
グラムはリオンに目を向け、穏やかに言った。
「安心を金で買えるなら、安いもんだ。——いい仲間を見つけたな、リオン」
村長の家を出ると、ミーナが両手を握りしめた。
「やった……! 契約第1号です!」
「ミーナがいなかったら、僕は一生タダ働きしてたかもしれない」
「ほんとですよ。お金の話になるとふわふわするんですから」
秋の風が心地よかった。畑ではルーンフェル村の農夫たちが作業をしている。農地魔法陣が正常に動いているおかげで、今年の作物は順調だ。この日常を、契約で守っていく。
工房に戻ると、エルナとドルクが待っていた。
「取れました! ルーンフェル村、月額銀ゼル15枚で保守契約です!」
エルナが駆け寄ってミーナの手を取った。
「ミーナちゃん、すごい! 本当に取ってきたんだ!」
「エルナさんの力もあってこそですよ。リオンさんの【診断】とエルナさんの修復があるから、保証できるんです」
エルナは嬉しそうに笑ったが、すぐに真剣な顔になった。
「でも、月一回の定期点検ってことは、毎月必ずルーンフェル村まで行くんだよね。結構大変じゃない?」
「大変だけど、それが『壊れる前に直す』の基本だから」
リオンが答えると、エルナは力強く頷いた。
「わかった。私、点検手順をしっかり覚えるね。リオンさんが行けないときでも対応できるように」
鍛冶場からドルクが顔を出した。腕を組み、ぶっきらぼうに聞く。
「……で、俺の仕事は増えるのか」
「定期点検で部品の劣化が見つかったら、交換部品の製造をお願いします。急な障害対応で部品が必要になることもある」
「納期は」
「通常は一週間。緊急時は三日で」
「三日か」
ドルクは短く息をつき、それから口の端をわずかに上げた。
「……まあ、暇よりはいい」
それはドルクなりの賛同だった。リオンにはわかる。
「定期点検のスケジュールを組みます」
リオンが答えた。
「月一回の全魔法陣診断。僕が【診断】で確認して、異常があればエルナが修復、部品交換はドルクさんに発注。ミーナが記録と報告書」
「手順書は?」
ドルクが聞いた。その口から「手順書」が出てくることに、リオンは少し驚いた。
「書く。点検チェックリストと障害時の対応手順。僕がいなくてもエルナだけで点検できるようにする」
「私だけで?」
「属人化させない。僕一人に依存するのがリスクだから」
エルナの目に、決意の光が灯った。
「……はい! 頑張ります!」
夕方。リオンが手順書を書いていると、ミーナが湯気の立つカップを持ってきた。
「お茶です。あと、そろそろ切り上げてください」
「もうちょっとだけ」
「定時で帰るんでしょう?」
自分の口癖を返されて、反論のしようがなかった。ペンを置き、カップを受け取る。
「今日の件、本当に助かった。僕だけじゃ絶対にまとめられなかった」
「技術はわからないけど、お金の流れならわかります。——あたし、思うんですけど」
ミーナは少し真剣な顔になった。
「リオンさんたちの仕事って、すごく大事なのにみんな気づいてない。水が出て当たり前、明かりが灯いて当たり前。でもそれを『当たり前』にしてるのは、誰かが裏で面倒を見てるからで——その仕事にちゃんとお金が回る仕組みを作らないと、前の世界みたいになっちゃう」
リオンは言葉を失った。技術はわからないと言いながら、この子は——技術者の苦しみを、ちゃんと見ている。
「……ありがとう、ミーナ」
「え? 何がですか?」
「いや、なんでもない」
ミーナは不思議そうに首を傾げて、それから笑った。その笑顔に込められた別の感情には——リオンは、やはり気づかなかった。
夜。自宅の机で、リオンは今日のことを振り返っていた。
SLA契約。前世で散々やったやつだ。
あの頃、SLAは自分を縛る鎖だった。99.9%の稼働率を守るために、自分の稼働率が0%になるまで働いた。四九——99.99%を求める顧客もいた。年間52分半しか止められない。深夜3時のアラート、休日のエスカレーション、恋人との約束を何度も破った夜。
0.01%のために、人生を捧げた。
でもこの世界では——SLAは工房を守る盾になる。契約があれば報酬がもらえる。報酬があれば人を雇える。人がいれば交代で休める。休めれば——定時で帰れる。
道具は使い方次第だ。SLAに殺されたのは、一人で全部守ろうとした自分が悪い。
今度は違う。チームで守る。仕組みで守る。
リオンは蝋燭を吹き消した。
「前世の失敗を、今世の武器にする」
窓の外で、虫の声が穏やかに響いていた。
【あとがき】
前世では自分を縛る鎖だったSLA契約を、今度はチームを守る盾として設計し直す。道具は使い方次第、がこの話のテーマです。