それは、穏やかな午後のことだった。
リオンは工房の診断室で、ルーンフェル村の水浄化魔法陣の定期点検レポートを書いていた。窓の外からは、ドルクが金槌を振るう規則的な音。秋の空に白い煙がたなびいている。
平和だ。SLA契約のビジネスモデルも動き出した。仲間がいて、仕事があって、飯がある。前世では考えられなかった「定時で帰れる日」が、少しずつ増えてきていた。
だからこそ、リオンにはわかっていた。
こういう平穏は、長くは続かない。
最初に気づいたのは、エルナだった。
診断室の奥にある棚——各地の魔法陣に設置した簡易監視装置が並んでいる。魔力残留痕を定期的に記録する、前世でいう監視ダッシュボードの原始的なバージョンだ。
「リオンさん!」
エルナが棚の前から振り返った。声がいつもと違う。
「ベルクハルト領の防壁——魔力反応がゼロになってます」
リオンの手が止まった。
立ち上がり、エルナの隣に並ぶ。
ベルクハルト辺境伯の館に設置した魔力モニタリング用の結晶石。あの訪問の後、執事のヘルベルトに頼んで設置させてもらった。領主には内緒で。
結晶石は真っ暗だった。
光がない。明滅がない。完全に沈黙している。
「……来たか」
リオンは呟いた。声は、驚くほど静かだった。
「防壁が落ちた。完全に」
エルナの顔から血の気が引いた。
「シングル構成のコアが停止した。バックアップはない。フェイルオーバーもない。つまり」
「館も、周辺の集落も、何の防御もない状態……」
エルナは以前の報告書を読んでいた。リオンが診断結果を工房の共有棚に保管していたからだ。ドキュメントは共有する。属人化させない。前世の反省が、こういうとき生きる。
「行こう」
リオンはレザーエプロンを脱ぎ、外套を掴んだ。
「エルナ、魔力操作の道具一式を。ドルクさんにも声をかけて。応急修復用の刻印板と予備の魔力石を持ってきてもらう」
「はい!」
馬車を飛ばした。
ルーンフェル村からベルクハルト辺境伯の館まで、通常は半日の行程だ。最短経路を選び、馬に無理をさせて駆けた。
御者台にドルク。荷台にはリオンとエルナ。工具箱と予備の魔力石の入った木箱。
「状況を整理する」
揺れる荷台の上で、リオンは言った。
「ベルクハルト領の防壁魔法陣は、シングル構成だ。中核のコアが一つしかない。そのコアが完全に停止した。館も周辺の五つの集落も、現在は一切の魔法防御がない」
「以前、冗長化を提案して断られた案件ですよね」
エルナが言った。
「ああ。領主のベルクハルト辺境伯は『動いてるものを触るな』と言って却下した」
リオンは一拍置いた。
「動いてたものが、止まった」
声に感情はなかった。「だから言ったのに」と言いたい気持ちがないわけではない。でも、前世でそれを言って何かが解決したことは一度もない。
「応急処置の方針は?」ドルクが前を向いたまま聞いた。
「まず【診断】でコアの停止原因を特定する。経年劣化による自然停止なら、魔力石を直接注入して一時的に再起動できるかもしれない」
「魔獣は」
「辺境伯領の東の森に角狼の群れが三十頭前後。防壁が消えれば寄ってくる。急がないとまずい」
ドルクは無言で馬の速度を上げた。
日が傾き始めた頃、ベルクハルト辺境伯の館が見えてきた。
門の前に人が溢れている。衛兵、使用人、農民。みな不安げに空を見上げ、互いにひそひそ話をしている。
「魔法陣の保守要員です。領主様に取り次いでください」
衛兵は慌てて走っていった。
門の内側はさらに混乱していた。武装した兵士たちが配置されているが、その顔には焦りがある。防壁があることを前提にした配置だ。防壁がなければ、この人数で広域を守ることはできない。
館の正面玄関に——ベルクハルト辺境伯が立っていた。
最後に見たときより、老けた気がした。
白髪が増え、頬がこけている。そして何より目が虚ろだった。あの威厳に満ちた眼差しは消え、代わりにあるのは、信じられないものを見ている人間の目だ。
「なぜだ……昨日まで……動いていた……」
リオンは一瞬、前世のデジャヴに襲われた。
あの部長も同じ顔をしていた。深夜二時、基幹DBのディスクが吹っ飛んだとき。蒼白な顔で画面を見つめて、「昨日まで動いてたのに」と繰り返していた。
——動いてたものが止まる。それがインフラだ。
心の中でそう呟いて、リオンはベルクハルトの前に立った。
「防壁の停止を検知して参りました。すぐに調査させてください。地下の魔法陣室へ案内をお願いします」
ベルクハルトが何か言おうとした。しかし言葉にならなかった。
代わりに、横から執事のヘルベルトが進み出た。
「リオン殿、よく来てくださいました。こちらへ」
地下の魔法陣室。
以前来たときは、淡い青の光が満ちていた。直径十メートルの巨大な魔法陣が、静かに脈動していた。
今は暗かった。
光がない。脈動がない。巨大な機械の残骸のように、ただそこに横たわっている。
「——【診断】」
リオンは膝をつき、魔法陣の縁に手を置いた。
視界が切り替わった。魔法陣の内部構造が展開される。
入力パス、正常。魔力の供給ラインは生きている。
出力部、停止。防壁の出力はゼロ。
そして中核のコア処理部。
「……完全停止だ」
コアが死んでいる。経年劣化が限界に達し、コアの刻印パターンが崩壊している。魔力を受け取っても、処理できない。
前世の言葉で言えば、CPUが焼けた。ハードウェア障害。物理的に交換するしかない。
「コアの刻印パターンが崩壊してる。再起動じゃ直らない。コアそのものを作り直す必要がある。最低でも三日」
「三日も防壁なしで……」
エルナの顔が曇った。
リオンは立ち上がり、診断結果を頭の中で整理した。完全な修復には三日。だが、応急処置なら。
「エルナ、コアの代わりに魔力を直接注入して、出力部だけ動かせるか?」
「理論的にはできると思いますけど、それって」
「マニュアル運転だ。自動処理が死んでるから、手動で防壁を維持する。エルナが魔力を流し続けて、僕が【診断】でパラメータを読み上げ、出力を調整する」
「二人とも付きっきりじゃないですか」
「ああ。でも防壁がないよりマシだ。——ドルクさん」
ドルクは工具箱を開けていた。
「聞いてる。代替コアの刻印板を打てばいいんだな」
「お願いします。工房に置いてある冗長化設計書——あれの中に予備コアの仕様を書いてあります」
却下された提案書。机の引き出しに入れて、障害が起きた日に引っ張り出す。前世と同じことを、やっている。
「ドルクさん、一旦工房に戻って設計図を取ってきてください。そのまま鍛冶場で刻印板を打ってもらえますか」
「……ああ」
ドルクは立ち上がった。
「リオン。お前、あの巻物をずっと持ってたのか」
「却下された提案書は捨てないんです。いつか必ず使うから」
ドルクは鼻を鳴らした。笑ったのだと、リオンは思った。
地下から戻ると、ベルクハルトが待っていた。
応接間の椅子に座り込んでいる。あの傲然とした姿勢は消え、背中が丸まっている。
「領主様。コアが完全停止しています。経年劣化による崩壊です。再起動では復旧しません」
ベルクハルトの顔が強張った。
「恒久対策には三日かかります。ただし応急処置として手動で防壁を維持できます」
「……頼む」
その声は、以前の威厳ある低音ではなかった。ただの、怯えた老人の声だった。
「応急処置はします。ただし——条件があります」
ベルクハルトが顔を上げた。
「以前、僕はこの防壁の冗長化を提案しました。領主様はそれを却下された。今回の障害は、その結果です」
リオンの声に非難の色はなかった。淡々と、事実を述べている。
「以前お話した冗長化、今度こそ検討してください。同じことが二度起きたら、次は間に合わないかもしれない」
沈黙が落ちた。ベルクハルトの拳が震えている。
「……わかった。費用と工期を出せ」
日が暮れた。
地下の魔法陣室で、リオンとエルナは手動防壁の維持を始めていた。
「入力魔力、基準値の六割で。防壁範囲を館の敷地内に絞る。周辺集落までは無理だ。まずは中心部だけ守る」
「六割、了解」
エルナの指先から光が溢れた。魔力が出力部に流れ込み、刻印が淡く光り始める。
完全ではない。以前の青い光とは比べものにならない、弱々しい明滅。
でも防壁が、薄く張られた。
「出力確認。防壁強度、通常の三割。範囲は館の敷地五百メートル圏内」
「三割か……」
「三割あれば角狼程度は弾ける。完璧じゃなくていい。止まっているよりマシだ」
全部守ろうとして全部落ちるより、捨てるところを決めて残りを守る。障害対応の鉄則だ。
夜が深まる。
エルナの額に汗が浮いている。継続的な魔力出力は、体力を削る。
そのとき——地上から、かすかな音が聞こえた。
遠吠え。
角狼の群れが、近づいている。
「……来たか」
前世の深夜二時を思い出す。障害対応中に、さらに別のアラートが飛んでくる瞬間。
リオンは【診断】の目を防壁の外に向けた。館の外周、東側の森の縁——無数の光点が蠢いている。
四十頭以上。報告より増えている。防壁の消失を感知して集まってきたのだ。
防壁に接触した一頭が弾かれ、怒りの咆哮を上げた。三割の出力でも、角狼を弾く程度の力はある。
だが群れは去らない。防壁の周囲をぐるぐると回り、弱い場所を探している。
「リオンさん……」
「大丈夫だ。弾けてる。ドルクさんが代替コアを持ってくるまで、持たせればいい」
「持たせます」
エルナの声には、震えがなかった。
地下の魔法陣室で、二つの光が揺れている。一つはリオンの【診断】の光。もう一つはエルナの魔力の光。
その上では、四十頭の角狼が牙を剥いて唸っている。
——「動いてるものを触るな」。
その言葉が招いた結果が、これだ。
でも、「だから言ったのに」では何も解決しない。解決するのは、手を動かすことだけだ。
リオンは【診断】の集中を維持したまま、小さく呟いた。
「……ドルクさん、急いでくれ」
代替コアができるまで、あと何時間かかるかわからない。
それまで、この薄い防壁を二人で持たせる。
前世では、深夜のサーバールームで一人きりだった。
今は——隣にエルナがいる。工房ではドルクが金槌を振るっている。
一人じゃない。
それだけで、あの頃より——ずっとマシだ。
角狼の遠吠えが、夜の闇に響き渡った。
【あとがき】
「動いてるものを触るな」が招いた最悪のシナリオ。予防保全を怠ったツケは、必ずどこかで回収されます。