S03-P01 異世界SLA99.99% ~元SEは今日も魔法インフラを落とさない~

第23話: 動いてたものが止まった

第2アーク · 4,243文字 · revised

それは、穏やかな午後のことだった。

リオンは工房の診断室で、ルーンフェル村の水浄化魔法陣の定期点検レポートを書いていた。窓の外からは、ドルクが金槌を振るう規則的な音。秋の空に白い煙がたなびいている。
 平和だ。SLA契約のビジネスモデルも動き出した。仲間がいて、仕事があって、飯がある。前世では考えられなかった「定時で帰れる日」が、少しずつ増えてきていた。

だからこそ、リオンにはわかっていた。

こういう平穏は、長くは続かない。


最初に気づいたのは、エルナだった。

診断室の奥にある棚——各地の魔法陣に設置した簡易監視装置が並んでいる。魔力残留痕を定期的に記録する、前世でいう監視ダッシュボードの原始的なバージョンだ。

「リオンさん!」

エルナが棚の前から振り返った。声がいつもと違う。

「ベルクハルト領の防壁——魔力反応がゼロになってます」

リオンの手が止まった。
 立ち上がり、エルナの隣に並ぶ。

ベルクハルト辺境伯の館に設置した魔力モニタリング用の結晶石。あの訪問の後、執事のヘルベルトに頼んで設置させてもらった。領主には内緒で。

結晶石は真っ暗だった。
 光がない。明滅がない。完全に沈黙している。

「……来たか」

リオンは呟いた。声は、驚くほど静かだった。


「防壁が落ちた。完全に」

エルナの顔から血の気が引いた。

「シングル構成のコアが停止した。バックアップはない。フェイルオーバーもない。つまり」

「館も、周辺の集落も、何の防御もない状態……」

エルナは以前の報告書を読んでいた。リオンが診断結果を工房の共有棚に保管していたからだ。ドキュメントは共有する。属人化させない。前世の反省が、こういうとき生きる。

「行こう」

リオンはレザーエプロンを脱ぎ、外套を掴んだ。

「エルナ、魔力操作の道具一式を。ドルクさんにも声をかけて。応急修復用の刻印板と予備の魔力石を持ってきてもらう」

「はい!」


馬車を飛ばした。

ルーンフェル村からベルクハルト辺境伯の館まで、通常は半日の行程だ。最短経路を選び、馬に無理をさせて駆けた。
 御者台にドルク。荷台にはリオンとエルナ。工具箱と予備の魔力石の入った木箱。

「状況を整理する」

揺れる荷台の上で、リオンは言った。

「ベルクハルト領の防壁魔法陣は、シングル構成だ。中核のコアが一つしかない。そのコアが完全に停止した。館も周辺の五つの集落も、現在は一切の魔法防御がない」

「以前、冗長化を提案して断られた案件ですよね」

エルナが言った。

「ああ。領主のベルクハルト辺境伯は『動いてるものを触るな』と言って却下した」

リオンは一拍置いた。

「動いてたものが、止まった」

声に感情はなかった。「だから言ったのに」と言いたい気持ちがないわけではない。でも、前世でそれを言って何かが解決したことは一度もない。

「応急処置の方針は?」ドルクが前を向いたまま聞いた。

「まず【診断】でコアの停止原因を特定する。経年劣化による自然停止なら、魔力石を直接注入して一時的に再起動できるかもしれない」

「魔獣は」

「辺境伯領の東の森に角狼(つのおおかみ)の群れが三十頭前後。防壁が消えれば寄ってくる。急がないとまずい」

ドルクは無言で馬の速度を上げた。


日が傾き始めた頃、ベルクハルト辺境伯の館が見えてきた。

門の前に人が溢れている。衛兵、使用人、農民。みな不安げに空を見上げ、互いにひそひそ話をしている。

「魔法陣の保守要員です。領主様に取り次いでください」

衛兵は慌てて走っていった。

門の内側はさらに混乱していた。武装した兵士たちが配置されているが、その顔には焦りがある。防壁があることを前提にした配置だ。防壁がなければ、この人数で広域を守ることはできない。

館の正面玄関に——ベルクハルト辺境伯が立っていた。


最後に見たときより、老けた気がした。

白髪が増え、頬がこけている。そして何より目が虚ろだった。あの威厳に満ちた眼差しは消え、代わりにあるのは、信じられないものを見ている人間の目だ。

「なぜだ……昨日まで……動いていた……」

リオンは一瞬、前世のデジャヴに襲われた。

あの部長も同じ顔をしていた。深夜二時、基幹DBのディスクが吹っ飛んだとき。蒼白な顔で画面を見つめて、「昨日まで動いてたのに」と繰り返していた。

——動いてたものが止まる。それがインフラだ。

心の中でそう呟いて、リオンはベルクハルトの前に立った。

「防壁の停止を検知して参りました。すぐに調査させてください。地下の魔法陣室へ案内をお願いします」

ベルクハルトが何か言おうとした。しかし言葉にならなかった。

代わりに、横から執事のヘルベルトが進み出た。

「リオン殿、よく来てくださいました。こちらへ」


地下の魔法陣室。

以前来たときは、淡い青の光が満ちていた。直径十メートルの巨大な魔法陣が、静かに脈動していた。

今は暗かった。
 光がない。脈動がない。巨大な機械の残骸のように、ただそこに横たわっている。

「——【診断(ダイアグノーシス)】」

リオンは膝をつき、魔法陣の縁に手を置いた。
 視界が切り替わった。魔法陣の内部構造が展開される。

入力パス、正常。魔力の供給ラインは生きている。
 出力部、停止。防壁の出力はゼロ。
 そして中核のコア処理部。

「……完全停止(フルストップ)だ」

コアが死んでいる。経年劣化が限界に達し、コアの刻印パターンが崩壊している。魔力を受け取っても、処理できない。

前世の言葉で言えば、CPUが焼けた。ハードウェア障害。物理的に交換するしかない。

「コアの刻印パターンが崩壊してる。再起動じゃ直らない。コアそのものを作り直す必要がある。最低でも三日」

「三日も防壁なしで……」

エルナの顔が曇った。

リオンは立ち上がり、診断結果を頭の中で整理した。完全な修復には三日。だが、応急処置なら。

「エルナ、コアの代わりに魔力を直接注入して、出力部だけ動かせるか?」

「理論的にはできると思いますけど、それって」

「マニュアル運転だ。自動処理が死んでるから、手動で防壁を維持する。エルナが魔力を流し続けて、僕が【診断】でパラメータを読み上げ、出力を調整する」

「二人とも付きっきりじゃないですか」

「ああ。でも防壁がないよりマシだ。——ドルクさん」

ドルクは工具箱を開けていた。

「聞いてる。代替コアの刻印板を打てばいいんだな」

「お願いします。工房に置いてある冗長化設計書——あれの中に予備コアの仕様を書いてあります」

却下された提案書。机の引き出しに入れて、障害が起きた日に引っ張り出す。前世と同じことを、やっている。

「ドルクさん、一旦工房に戻って設計図を取ってきてください。そのまま鍛冶場で刻印板を打ってもらえますか」

「……ああ」

ドルクは立ち上がった。

「リオン。お前、あの巻物をずっと持ってたのか」

「却下された提案書は捨てないんです。いつか必ず使うから」

ドルクは鼻を鳴らした。笑ったのだと、リオンは思った。


地下から戻ると、ベルクハルトが待っていた。

応接間の椅子に座り込んでいる。あの傲然とした姿勢は消え、背中が丸まっている。

「領主様。コアが完全停止しています。経年劣化による崩壊です。再起動では復旧しません」

ベルクハルトの顔が強張った。

「恒久対策には三日かかります。ただし応急処置として手動で防壁を維持できます」

「……頼む」

その声は、以前の威厳ある低音ではなかった。ただの、怯えた老人の声だった。

「応急処置はします。ただし——条件があります」

ベルクハルトが顔を上げた。

「以前、僕はこの防壁の冗長化を提案しました。領主様はそれを却下された。今回の障害は、その結果です」

リオンの声に非難の色はなかった。淡々と、事実を述べている。

「以前お話した冗長化、今度こそ検討してください。同じことが二度起きたら、次は間に合わないかもしれない」

沈黙が落ちた。ベルクハルトの拳が震えている。

「……わかった。費用と工期を出せ」


日が暮れた。

地下の魔法陣室で、リオンとエルナは手動防壁の維持を始めていた。

「入力魔力、基準値の六割で。防壁範囲を館の敷地内に絞る。周辺集落までは無理だ。まずは中心部だけ守る」

「六割、了解」

エルナの指先から光が溢れた。魔力が出力部に流れ込み、刻印が淡く光り始める。

完全ではない。以前の青い光とは比べものにならない、弱々しい明滅。
 でも防壁が、薄く張られた。

「出力確認。防壁強度、通常の三割。範囲は館の敷地五百メートル圏内」

「三割か……」

「三割あれば角狼程度は弾ける。完璧じゃなくていい。止まっているよりマシだ」

全部守ろうとして全部落ちるより、捨てるところを決めて残りを守る。障害対応の鉄則だ。


夜が深まる。

エルナの額に汗が浮いている。継続的な魔力出力は、体力を削る。

そのとき——地上から、かすかな音が聞こえた。

遠吠え。

角狼の群れが、近づいている。

「……来たか」

前世の深夜二時を思い出す。障害対応中に、さらに別のアラートが飛んでくる瞬間。

リオンは【診断】の目を防壁の外に向けた。館の外周、東側の森の縁——無数の光点が蠢いている。

四十頭以上。報告より増えている。防壁の消失を感知して集まってきたのだ。

防壁に接触した一頭が弾かれ、怒りの咆哮を上げた。三割の出力でも、角狼を弾く程度の力はある。

だが群れは去らない。防壁の周囲をぐるぐると回り、弱い場所を探している。

「リオンさん……」

「大丈夫だ。弾けてる。ドルクさんが代替コアを持ってくるまで、持たせればいい」

「持たせます」

エルナの声には、震えがなかった。

地下の魔法陣室で、二つの光が揺れている。一つはリオンの【診断】の光。もう一つはエルナの魔力の光。
 その上では、四十頭の角狼が牙を剥いて唸っている。

——「動いてるものを触るな」。
 その言葉が招いた結果が、これだ。

でも、「だから言ったのに」では何も解決しない。解決するのは、手を動かすことだけだ。

リオンは【診断】の集中を維持したまま、小さく呟いた。

「……ドルクさん、急いでくれ」

代替コアができるまで、あと何時間かかるかわからない。
 それまで、この薄い防壁を二人で持たせる。

前世では、深夜のサーバールームで一人きりだった。
 今は——隣にエルナがいる。工房ではドルクが金槌を振るっている。

一人じゃない。
 それだけで、あの頃より——ずっとマシだ。

角狼の遠吠えが、夜の闇に響き渡った。


【あとがき】
「動いてるものを触るな」が招いた最悪のシナリオ。予防保全を怠ったツケは、必ずどこかで回収されます。

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