王都での生活が始まって、二週間が経った。
リオンは魔術局の一室に与えられた執務室で、辺境から持ち込んだ手順書のファイルを並べていた。水浄化魔法陣の定期メンテ手順、防壁障害の緊急対応、通信魔法陣のリソース監視。これまで辺境で積み上げてきた運用ノウハウの蓄積だ。
王都にも同じものが必要になる。いや、規模が桁違いに大きい分、もっと必要だ。
「リオンさん、お茶持ってきました」
ミーナが手に木製のトレイを持って入ってきた。彼女もまた王都での滞在が始まって以降、リオンの生活サポートを一手に引き受けている。
「ありがとう、ミーナ」
「ところで、午後の魔術局との会議の準備はできてますか?」
「……会議か」
リオンは手元の資料を見下ろした。
今日の議題は『インシデント対応訓練の導入』。辺境で学んだ最も重要な教訓の一つだ。障害が起きてから慌てるのではなく、障害が起きる前に訓練しておく。誰がどう動くか、どのリソースを優先するか、判断基準をあらかじめ決めておく。
前世のインフラ運用では当たり前だった。
——問題は、この世界ではそうでないことだ。
午後、魔術局の会議室にリオンは立っていた。
長いテーブルの向かい側に、アルヴィス局長と魔術局の幹部が三人。その端にカティア王女が座っている。カティアが同席していることに、リオンは少し安堵した。少なくとも、話を最初から跳ねられる可能性は減る。
「では、辺境での実績をもとに提案いたします」
リオンは手元の手順書を開いた。
「障害が発生した際の対応フローを事前に訓練しておくこと——これが王都の魔法インフラ安定化の鍵になると考えています」
アルヴィスが険しい顔で腕を組んだ。
「訓練?」
「はい。実際に障害が発生したと仮定して、誰がどう動くか、誰に報告するか、判断基準はどこか。これをあらかじめシミュレーションしておくんです」
幹部の一人——白髭の老魔術師が顔をしかめた。
「障害が起きると『仮定』する、とな」
「はい。障害は必ず起きます。だから事前に訓練しておく。辺境のルーンフェル村では防壁障害を想定した訓練をして——」
「待て」
老魔術師が手を上げた。
「障害が『必ず起きる』だと?」
「ええ、まあ……魔法陣は経年劣化しますし、予期しない負荷もありますから」
「それは理解している。だが」
老魔術師は深く息を吐いた。
「障害が起きることを、わざわざ想定するというのは……不吉だ」
リオンは言葉を失った。
「……不吉、ですか?」
「そうだ。魔法陣は神聖なる古代の遺産。それが『壊れる』ことを前提にするなど、畏れ多い」
別の幹部——中年の女性魔術師も頷いた。
「訓練と称して『障害が起きた』と仮定すること自体が、魔法陣への冒涜ではないか。そのような想定をすれば、本当に障害が引き寄せられる」
リオンは深く息を吸った。
冷静になれ。これは技術の話ではない。信仰の話だ。
この世界では魔法陣は「古代の神聖な遺産」であり、壊れることを想定すること自体が不敬と見なされる——宗教的な抵抗がある。
前世でも似た経験があった。老舗企業の基幹システムが「絶対に落ちない」という神話を守るために、障害対応訓練を拒否した。結果、本当に障害が起きたとき、誰も動けずパニックになった。
「……落ちますよ」
リオンは静かに言った。
「失礼ですが、魔法陣は壊れます。古代の遺産であろうと、経年劣化は避けられない。それを神聖視して見て見ぬふりをしても、壊れるときは壊れる」
アルヴィスが鋭い視線を向けた。
「それはわかっている。だが、わざわざ訓練で『障害が起きた』と仮定することが問題だと言っているのだ」
「訓練しなければ、本番で混乱します。誰がどう動けばいいかわからなくなる」
「今まで混乱したことなどない」
「それは局長が一人で全部対処しているからです」
リオンはアルヴィスを真っ直ぐに見た。
「局長がいなくなったとき、誰がどうやって障害を直すんですか?」
静寂が落ちた。
アルヴィスの眉が僅かに動いた。
「……私がいなくなる?」
「いつかは引退するでしょう。病気で倒れるかもしれない。あるいは」
リオンは言葉を切った。言いすぎたかもしれない。だが、言わなければならない。
「複数の場所で同時に障害が起きたら、局長一人では対処できません。その時、訓練を受けていない部下たちが右往左往する姿が見えます」
アルヴィスの表情が険しくなった。
「小僧、言っていいことと悪いことがある——」
「アルヴィス」
カティアが静かに声を発した。
「リオンの提案は、一理ある」
一同がカティアに視線を向けた。
「障害を想定することが不吉だという気持ちはわかります。私も魔法陣は尊いものだと思っています。ですが」
カティアはリオンを見た。
「辺境でリオンが実践してきた取り組みは、実際に成果を上げています。防壁障害を想定した訓練を行ったルーンフェル村では、実際に障害が起きた際に、住民が冷静に避難し被害を最小限に抑えた」
「それは——」
「訓練をしていなければ、どうなっていたと思いますか?」
老魔術師は黙り込んだ。
「リオン、提案を具体的に聞かせてください。どのような訓練を想定していますか?」
リオンは資料を開いた。
「まず小規模なものから始めます。例えば、水浄化魔法陣が停止したと仮定して、誰が現場に駆けつけ、誰が住民への告知を行うか。所要時間はどれくらいか。これを実際にやってみる」
「実際に止めるのか?」
「いえ、最初は『止まったと仮定して』動くだけです。魔法陣は動かしたまま、紙の上で判断と行動のフローを確認する」
女性魔術師が少し安堵の表情を見せた。
「それなら……魔法陣を実際に止めるわけではないのだな」
「はい。ただし——」
リオンは続けた。
「最終的には、実際に計画的にシステムを止める訓練も必要です。事前に住民に告知し、短時間だけ停止させて、復旧の手順を確認する」
「それは——」
「計画的に止めるのと、突然壊れるのは全く違います。前者なら準備ができる。後者は混乱を招く。どちらがマシですか?」
老魔術師は唸った。
「……机上訓練までなら、許容してもよいかもしれん。だが実際にシステムを止めることは——」
「殿下」アルヴィスがカティアを見た。「これは王族の判断が必要です」
カティアは静かに頷いた。
「では、段階的に進めましょう。まずは机上訓練から。その結果を見て、次のステップを判断します」
リオンは小さく息を吐いた。
完全な承認ではないが、足がかりは得た。
会議の後、リオンはカティアと二人で廊下を歩いていた。
「ありがとうございます、殿下。あなたが後押ししてくれなければ、即座に却下されていました」
「当然です。あなたの提案は正しい」
カティアは歩みを止め、窓の外——王都の街並みを見た。
「この街の地下に、無数の魔法陣が走っています。水、灯火、通信、防壁……すべてが古代の遺産に依存している」
「……はい」
「それが壊れたとき、誰が直せるのか。私もずっと不安に思っていました」
カティアはリオンを振り返った。
「だから、あなたの方法論を王都に根付かせたい。属人化を解消し、誰もが対応できる体制を作る。それが王国の未来を守ることになる」
リオンはカティアの真剣な瞳を見て、頷いた。
「僕は政治には興味ありません。でも、インフラは守りたい。壊れたシステムを見て見ぬふりはできない」
「それで十分です」
カティアは微笑んだ。
「視察と称して、また伺ってもよろしいですか?」
「……視察ですか?」
「ええ、視察です」
その笑みには、政治的な計算以外の何かが混じっていた気がしたが——リオンは深く考えないことにした。
夕方、宿舎に戻ると、ミーナが夕食の準備をしていた。
「お疲れ様です、リオンさん。会議はどうでしたか?」
「……文化の壁は厚かった」
リオンはテーブルに座り、深く息を吐いた。
「障害を想定すること自体が不吉だと言われて。訓練の導入は机上演習までが限界」
「それでも一歩前進じゃないですか」
ミーナはスープを注ぎながら言った。
「辺境だって最初は大変でしたよね。村長さんたちを説得するのに、何度も説明して」
「……そうだな」
かつてでもそうだった。新しいやり方を導入するとき、最初は必ず抵抗がある。それでも一つずつ実績を積み上げて、信頼を得ていく。
「辺境と違って、王都は規模が大きい分、変えるのも時間がかかりますよ」
「わかってる。焦らずにやる」
ミーナは微笑んだ。
「リオンさん、昔より随分辛抱強くなりましたね」
「……そうか?」
「はい。前なら『面倒くさい』って投げ出してたかもしれません」
リオンは苦笑した。
確かに、以前の自分なら政治的な調整なんて真っ先に逃げ出していた。でも今はエルナがいて、ミーナがいて、ドルクがいる。辺境で築いた仕組みがある。
一人じゃない。だから、やれる。
「……でも、定時で帰りたい気持ちは変わらないけどね」
「それは変えないでください」
ミーナの笑い声が、部屋を温かく満たした。
【次回予告】
古代中枢魔法陣のメンテナンス——リーティアとの定期的な交流が始まる。無機質だった応答に、わずかな変化が現れ始める。
【あとがき】
第33話「障害想定は不吉」でした。「壊れることを前提に備える」という考えが、神聖視する文化と衝突する。技術と宗教の壁は根深い。