執務室のドアがノックされた。
「リオン殿、よろしいですか」
カティアの声だ。リオンは手元の手順書から顔を上げた。
「どうぞ」
扉が開き、カティアが侍女を伴わずに一人で入ってきた。公務の礼服ではなく、動きやすい乗馬服姿だ。
「視察に来ました」
「……また、ですか?」
リオンは苦笑した。
カティアが執務室を訪れるのは、これで今週三度目だ。最初は『魔術局の改革について相談したい』、二度目は『辺境での保守契約の詳細を聞きたい』、そして今日は『視察』。理由は毎回違うが、結果は同じだ。執務室に来て、リオンと話をする。
「構いませんが……今日は特に見せるものもないですよ」
「構いません。作業を見ているだけでも参考になります」
カティアは椅子に座り、リオンの手元を見た。
「それは?」
「王都の通信魔法陣の監視手順書です。辺境で使っていたものを、王都の規模に合わせて改訂してる」
「ほう……」
カティアは興味深そうに覗き込んだ。
「この『異常検知時の判断フロー』というのは?」
「通信が遅延したとき、どこから調べるかの手順です。まず中継地点の負荷を確認して、次に魔力パスの劣化をチェックして」
リオンは淡々と説明を続けた。
カティアは熱心に聞いている——ように見えたが、リオンにはその視線が手順書ではなく、自分の顔に向いている気がした。
「……殿下?」
「ああ、申し訳ない。続けてください」
「はい……で、最終的に原因が特定できたら、修復優先度を判定して」
「リオン殿」
「はい?」
カティアは手元の手順書を閉じた。
「少し、技術以外の話をしてもよろしいですか」
「……政治の話ですか?」
「いえ、そうではなく」
カティアは少し言葉を探すように間を置いた。
「あなたは、王都での生活には慣れましたか?」
「ああ、はい。ミーナが色々世話を焼いてくれるので」
「そうですか。それは良かった」
カティアは微笑んだ。
「辺境が恋しくはないですか?」
「……まあ、正直に言えば」
リオンは窓の外を見た。
「辺境の方が静かでしたね。会議も少ないし、政治的な調整もない。魔法陣と向き合っているだけで良かった」
「では、王都に来たことを後悔していますか?」
「いえ、そういうわけじゃありません」
リオンはカティアを見た。
「王都のインフラは辺境よりずっと深刻です。属人化も進んでいるし、規模も大きい。放置すれば必ず落ちる。だから、ここでやるべきことはある」
「あなたは本当に……」
カティアは静かに笑った。
「インフラのことしか考えていませんね」
「そうですね」
リオンは何の躊躇もなく答えた。
「僕はそういう人間です」
カティアは少しだけ困ったような顔をした。
その日の夕方、宿舎に戻るとミーナが待っていた。
「おかえりなさい、リオンさん」
「ただいま。今日も疲れた……」
リオンはテーブルに座り、肩を回した。
「今日もカティア殿下が来られたんですか?」
「……なんでわかるの?」
「だって、三日連続ですもん。魔術局の職員さんから聞きました」
ミーナは夕食の支度をしながら、何気ない調子で言った。
「殿下、リオンさんのこと気に入ってるんですね」
「どうだろう。たぶん、改革の相談相手が欲しいだけだと思う」
「そうですか?」
「うん。僕は技術の話しかしないから、政治家としては話し相手として微妙だと思うけど」
ミーナは振り返った。
「リオンさん、本当に鈍感ですよね」
「……何が?」
「何でもないです」
ミーナはスープを注ぎながら、小さくため息をついた。
翌日も、カティアは執務室を訪れた。
「視察です」
「……はい」
リオンはもう驚かなくなっていた。
「今日は通信魔法陣の現地調査に行く予定なんですが……ご一緒されますか?」
「ええ、ぜひ」
カティアはすぐに頷いた。
二人は王都の地下にある通信魔法陣の中継拠点へ向かった。石造りの通路を進み、広い地下室に辿り着く。そこには巨大な魔法陣が複数配置されており、王都と各地を結ぶ通信の中継を担っている。
「ここが王都の通信ハブです」
リオンは魔法陣を指差した。
「ここから辺境、東部、南部、北部——各地への通信が中継される。問題は、この魔法陣が単一構成なこと」
「単一構成……つまり、冗長化されていない?」
「はい。ここが止まると、王都から各地への通信が全部止まる」
カティアは眉を寄せた。
「それは……問題ですね」
「ええ。辺境では小規模でも冗長化を入れてます。こんな重要な拠点が単一構成なのは、正直信じられない」
リオンは【診断】を発動し、魔法陣の状態を確認した。
「劣化も進んでる……負荷率も高い。あと半年以内に何らかの対策を打たないと、障害が起きる可能性がある」
「半年……」
カティアは魔法陣を見つめた。
「リオン殿、これを冗長化するには何が必要ですか?」
「まず予算。もう一基、同規模の魔法陣を構築する必要があります。それから技術者——鍛冶師と魔術師のチーム。工期は三ヶ月くらい」
「予算は何とかします」
カティアは即答した。
「技術者も手配しましょう。必要な人材リストを出してください」
「……本当に?」
「ええ。あなたが必要だと言うなら、それは必要なことです」
カティアはリオンを真っ直ぐに見た。
「私は、あなたの判断を信頼しています」
リオンは少し戸惑った。
技術的な判断を信頼されるのは嬉しいが——カティアの視線には、それ以上の何かが含まれている気がした。
「……わかりました。リストを作ります」
「ありがとうございます」
カティアは微笑んだ。
地上に戻る途中、カティアが話しかけた。
「リオン殿、少しお時間よろしいですか」
「はい」
「王都の庭園を散歩しませんか。ずっと地下にいると息が詰まるでしょう」
リオンは少し考えたが、断る理由もなく頷いた。
王都の中庭——広い庭園に色とりどりの花が咲いている。カティアは花壇の脇を歩きながら、静かに言った。
「この庭、好きなんです」
「綺麗ですね」
「ええ。ここに来ると、少しだけ政治を忘れられる」
カティアは立ち止まり、花を見つめた。
「私は第二王女として生まれました。兄がいるので王位を継ぐことはありませんが、それでも王族としての責任は重い」
「……はい」
「改革を進めようとすれば、保守派に反発される。何もしなければ、国が停滞する。どちらを選んでも誰かが不満を持つ」
カティアは寂しそうに笑った。
「時々思うんです。もし王族でなければ、もっと自由に生きられたのかな、と」
リオンは黙って聞いていた。
「でも、あなたを見ていると——」
カティアはリオンを振り返った。
「権力に興味がなく、ただ自分の信じることをやっている。それが……少し羨ましい」
「僕は、ただ魔法陣を守りたいだけです」
「わかっています。だからこそ、羨ましいんです」
カティアは一歩近づいた。
「リオン殿、あなたは——私のことをどう思っていますか?」
「え?」
リオンは戸惑った。
「どう、って……改革派の王女で、インフラの重要性を理解してくれる数少ない王族の方、ですか?」
カティアは目を閉じた。
「……そうですか」
「何か、間違ってますか?」
「いえ、間違っていません」
カティアは小さく笑った。
「あなたらしい答えです」
リオンにはその笑みの意味がわからなかった。
その夜、宿舎に戻ると、ミーナの機嫌が明らかに悪かった。
「今日もカティア殿下とご一緒だったんですね」
「うん、通信魔法陣の調査で」
「調査の後、庭園を散歩されたとか」
「……なんで知ってるの?」
「噂になってますよ。『第二王女が辺境の技術者と庭園デート』って」
「デート!?」
リオンは驚いて立ち上がった。
「違う、あれは休憩で——」
「私には関係ないですけどね」
ミーナはスープを乱暴に注いだ。
「リオンさんが誰とデートしようと、私はただの経理担当ですから」
「いや、だから、デートじゃなくて」
「はいはい」
ミーナは皿を置いて、部屋の奥に引っ込んだ。
リオンは途方に暮れた。
何が起きているのか、まったくわからない。
翌日、執務室で手順書を書いていると、またドアがノックされた。
「視察です」
カティアの声。
リオンは深く息を吸った。
「……殿下、申し訳ないんですが」
「はい?」
「あまり頻繁に来られると、噂になるみたいで……」
「ああ」
カティアは小さく笑った。
「庭園デートの件ですか」
「ご存知だったんですか!?」
「ええ。侍女から聞きました」
カティアは椅子に座った。
「気にしないでください。噂はすぐに消えます」
「でも——」
「それに」
カティアは真剣な顔になった。
「視察は本当に必要なんです。あなたの取り組みを理解して、魔術局や貴族たちに説明するために。これは政治的に重要なことです」
「……そうですか」
「ええ。だから、これからも、視察に来ます」
カティアは微笑んだ。
「構いませんか?」
リオンは諦めた。
「……はい」
その夜、ミーナは相変わらず不機嫌だった。
「また来たんですか」
「うん……視察だって」
「視察、視察って、毎日視察する必要ありますか?」
「僕もそう思うんだけど……断りにくくて」
ミーナはため息をついた。
「リオンさん、自覚ないんですね」
「何の?」
「殿下、リオンさんのこと好きなんですよ」
リオンは固まった。
「……え?」
「気づいてなかったんですか?」
「いや、だって、僕は技術の話しかしてないし——」
「だからですよ」
ミーナは呆れたように言った。
「殿下の周りには、権力目当てで近づく人ばかりなんです。でも、リオンさんは違う。権力に興味がなくて、技術の話しかしない。それが新鮮なんですよ」
「……そんな」
「それに、リオンさん、殿下と話してるとき楽しそうですもん」
「楽しい……かな?」
「はい。技術の話をしてるときのリオンさん、いつも楽しそうです」
ミーナは寂しそうに笑った。
「私にはできない話ですから」
リオンはミーナを見た。
「ミーナ——」
「いいんです」
ミーナは首を振った。
「私は経理担当ですから。リオンさんの生活を支えるのが仕事です」
「でも——」
「それより、明日の予定確認しましょう。午前中は魔術局の定例会議、午後はリーティアさんのメンテですね」
ミーナは話題を変えた。
リオンは何か言いたかったが、言葉が見つからなかった。
翌日のリーティアのメンテ中。
「管理者、集中していない」
「……え?」
「診断の精度が通常より3.2%低下している」
リーティアの指摘に、リオンは苦笑した。
「ごめん。ちょっと色々考えてて」
「何を?」
「……人間関係」
「人間関係?」
リーティアは首を傾げた。
「それはシステム運用と関係ない」
「そうなんだけどね」
リオンは魔法陣に手を当てた。
「最近、周りの人たちの気持ちがよくわからなくて」
「データで判断すればいい」
「人の気持ちは、データじゃ測れないんだよ」
「非効率だ」
「そうだね」
リオンは笑った。
「リーティアは楽でいいな。システムだから、感情に振り回されない」
「……私も」
リーティアは少し間を置いた。
「最近、よくわからない」
「何が?」
「管理者が来ない時間、待っている自分が理解できない。これは業務上必要な待機ではない。なのに——待っている」
リオンはリーティアを見上げた。
半透明の少女の姿が、いつもより少し寂しそうに見えた。
「……それ、たぶん感情だよ」
「感情?」
「うん。君も、少しずつ人間くさくなってる」
「それは——システムとして、望ましくない」
「そうかな。僕は、悪くないと思うけど」
リーティアの瞳が明滅した。
「……管理者は、優しすぎる」
「そうかな」
「そうだ。だから周りが混乱する」
リオンは苦笑した。
「それって、僕のせい?」
「間違いなくお前のせいだ」
リーティアの声に、わずかな抑揚があった。
リオンは笑い、診断を再開した。
人間関係は難しい。それは前世でも今世でも変わらない。
でも、少なくとも、今はインフラを守ることに集中できる。それだけで、十分だ。
【次回予告】
エルナとの通信魔法陣での定期連絡。辺境は安定稼働を続けている。嬉しいが、どこか寂しさを感じるリオン。ミーナが王都版SLA契約を提案する。
【あとがき】
第35話「視察という名の」でした。カティアの視察が見せた、政治と個人の間にある揺れ。リーティアにも変化の兆しが。