それは夜明け前に起きた。
王都各地から、同時に警報が鳴り響いた。
「管理者! 複数の魔法陣に攻撃。第三防壁、通信魔法陣第七ノード、水浄化魔法陣第二系統、灯火魔法陣東区画、同時発生!」
リーティアの声が、緊迫していた。
リオンは監視室に飛び込んだ。魔力盤に、無数の赤い警告が点灯している。
「同時多発攻撃か」
エルナが駆けつけてきた。
「リオンさん、これ」
「帝国の新しい戦術だ」
リオンは歯噛みした。
「一箇所じゃない。同時に複数を攻撃して、対応を分散させる気だ」
アルヴィスが杖を握って入ってきた。
「状況は!」
「四箇所同時攻撃。すべて深刻です」
リオンは魔力盤を見た。
「第三防壁、魔力パスに亀裂。このままでは三十分で崩壊。通信魔法陣第七ノード、中継機能が停止して東部の通信が途絶。水浄化魔法陣第二系統、浄化機能が低下して住民に汚染水が供給される恐れ。灯火魔法陣東区画、出力ゼロ。東区の住民が真っ暗の中にいる」
アルヴィスの顔が強張った。
「全部、同時に対処できるのか」
「無理です」
リオンは静かに答えた。
「人手が足りない。全部は救えません」
沈黙が落ちた。エルナが、震える声で言った。
「全部、救えない?」
「ああ」
リオンは深く息を吐いた。
「今ここにいるのは、僕とエルナ、アルヴィス局長。運用チームは他の拠点に配置されてる。呼び戻すにも時間がかかる」
「じゃあ」
「優先順位を決める」
リオンは魔力盤を見つめた。
「全部は救えない。だからどれを優先するか、決めないといけない」
ミーナが羊皮紙を抱えて飛び込んできた。
「リオンさん! 東区から救援要請が」
「わかってる」
リオンは目を閉じた。深呼吸。冷静に。感情を切り離して判断する。前の世界で、何度もやったこと。障害対応のトリアージ。全部は救えない。だから、救う順番を決める。
目を開けた。
「優先度A。水浄化魔法陣第二系統」
「え」
エルナが驚いた声を上げた。
「防壁じゃなくて、水浄化を?」
「防壁は三十分保つ。でも、水浄化は今すぐ止めないと、汚染水が住民に届く」
リオンは冷静に言った。
「人命に直結する。だから最優先だ」
「優先度B。第三防壁」
リオンは続けた。
「三十分の猶予がある。その間に水浄化を修復して、それから防壁に取り掛かる」
「優先度Cが通信魔法陣と灯火魔法陣?」
「ああ」
ミーナが声を上げた。
「でも、東区の人たちが真っ暗で困ってるんですよ!」
「わかってる」
リオンは静かに答えた。
「でも灯火がなくても、人は死なない。通信が途絶えても、すぐには死なない」
「人命に直結するものから。それ以外は後だ」
リオンの声が、監視室に響いた。
「これがトリアージだ」
アルヴィスが前に出た。
「わかった。お前の判断に従う」
「局長」
「私は第三防壁に向かう。三十分、保たせてみせる」
「お願いします」
リオンはエルナを見た。
「エルナ、水浄化魔法陣に向かってくれ」
「はい」
エルナは少し震えていたが、頷いた。
「リオンさんは?」
「僕はここで全体を監視する。状況が変わったら、優先度を変更する。だからリーティアと一緒に、全体を見る」
エルナが水浄化魔法陣に到着した。
魔法陣の浄化層が、劣化している。帝国の攻撃で、魔力パスに不正術式を注入されたらしい。
「リオンさん、浄化層が」
「診断結果を送る。今から」
リオンの【診断】データが、エルナの魔力盤に届いた。
「浄化層の第三回路と第五回路が汚染されてる。そこを切り離して、予備回路に切り替えて」
「了解です」
エルナが魔力を練る。汚染された回路を切り離し、予備回路を起動させる。
「切り替え成功。浄化機能、復旧しました!」
「よし。そのまま第三防壁に向かって。アルヴィス局長を支援してくれ」
「はい!」
第三防壁では、アルヴィスが一人で魔力を注ぎ込んでいた。亀裂が入った魔力パスを、自分の魔力で無理やり繋いでいる。
額に汗が浮かぶ。もう若くはない。魔力の総量は衰えていないが、持久力が落ちている。三十分、保てるか。
「局長!」
エルナが駆けつけてきた。
「補助に入ります!」
「助かる」
アルヴィスは少し安堵の表情を見せた。
「亀裂部分に魔力を流し込んでくれ。私が構造を保つ」
「了解です!」
二人の魔力が、防壁を支える。
監視室では、リオンとリーティアが状況を監視していた。
「水浄化魔法陣、復旧完了。第三防壁、アルヴィス局長とエルナで維持中」
「通信魔法陣と灯火魔法陣は、まだ手が回せない」
「管理者」
リーティアが言った。
「東区から苦情が入っている」
「わかってる」
「灯火魔法陣の復旧を求める声、多数」
「わかってる」
リオンは拳を握った。
その瞬間、ミーナが入ってきた。
「リオンさん! 東区の代表者が来てます!」
「今は無理だ」
「でも」
「後だ!」
リオンは声を荒げた。
「今、防壁が崩壊寸前なんだ。灯火は後回しにするしかない!」
ミーナが、ビクッと震えた。
リオンは自分の声の大きさに気づいて、深く息を吐いた。
「ごめん、ミーナ」
「いえ」
ミーナは少し泣きそうな顔で、でも頷いた。
「わかってます。リオンさんが一番辛いって」
リオンはミーナを見た。彼女の茶色の目が、涙を堪えながらこちらを見つめている。
「東区の人たちには、僕が後で説明する」
「はい」
「今は防壁を守らせてくれ」
「わかりました」
ミーナは部屋を出て行った。
リオンは一人、魔力盤の前に座った。全部は救えない。わかっている。でもそれを決めるのは、いつも辛い。
第三防壁の修復が完了したのは、三十五分後だった。
アルヴィスとエルナの連携で、亀裂部分が完全に修復された。
「第三防壁、復旧完了。魔力パス、正常」
リーティアの報告に、リオンは安堵の息を吐いた。
「ありがとう、局長、エルナ。次は通信と灯火だ」
アルヴィスの声が、疲れていた。
「リオンは通信魔法陣に行くのか」
「はい。診断で原因を特定します。エルナは灯火魔法陣に向かってくれ」
「了解です」
通信魔法陣第七ノード。リオンは【診断】を発動させた。
中継機能が停止している。魔力パスが切断されている。
「これ、物理的に切られてる」
リオンは呟いた。
「帝国の工作員が直接侵入したのか」
切断部分を確認する。綺麗に切られている。魔術師の仕業だ。修復には、部品が必要だ。
リオンはミーナに連絡した。
「ミーナ、魔力パスの予備部品を持ってきてくれ」
「了解です!」
三十分後。部品が届き、リオンは魔力パスを修復した。通信魔法陣が再起動する。東部の通信が復旧した。
「通信魔法陣第七ノード、復旧完了」
リーティアの報告。
そして。
「灯火魔法陣東区画、エルナによって復旧完了」
「全部、終わった」
リオンは深く息を吐いた。夜明けから、もう昼過ぎだ。六時間。休む暇もなく、走り続けた。
魔術局に戻ると、東区の代表者が待っていた。
「あなたがリオン殿か」
中年の男性が、厳しい顔でリオンを見た。
「なぜ、灯火魔法陣の復旧を後回しにした」
「人命に直結する魔法陣を優先したからです」
リオンは静かに答えた。
「水浄化魔法陣が壊れていたら、汚染水が供給されていた。防壁が崩壊していたら、都市全体が危険に晒されていた」
「だからといって」
「灯火がなくても、人は死にません」
リオンは真っ直ぐに男性を見た。
「不便です。困ります。でも死なない。全部を同時に救うことはできなかった。だから人命に直結するものから、対処しました」
男性は、少し黙って、それから深く頭を下げた。
「わかりました」
「え」
「東区の住民は、不満を言っていました。でもあなたの判断は、正しかった」
男性は顔を上げた。
「私たちが不便だと騒いでいる間に、あなたは都市全体を守っていた」
「ありがとうございます。そして、すみませんでした」
リオンは少し驚いて、それから微笑んだ。
「いえ。お気持ちはわかります」
男性が去った後、リオンはその場に座り込んだ。疲労が、一気に押し寄せてきた。
「終わった」
エルナが隣に座った。
「リオンさん、お疲れ様です」
「エルナも」
「あの」
エルナは少し迷って、言った。
「リオンさん、辛かったですよね。優先度を決めるの、すごく辛かったですよね」
「ああ」
リオンは天井を見上げた。
「全部救えないってわかってても、やっぱり辛い」
ミーナが温かいスープを持ってきた。
「リオンさん、これ」
「ありがとう、ミーナ。さっきは怒鳴ってごめん」
「いえ」
ミーナは首を振った。
「あたし、わかってます。リオンさんが一番辛いって。技術はわからないけど、リオンさんの気持ちはわかります」
ミーナは微笑んだ。
「だからあたしは、リオンさんを支えます」
アルヴィスが部屋に入ってきた。
「お前の判断は間違っていなかった」
「局長」
「トリアージ。戦場の医者が使う方法だ」
アルヴィスは窓の外を見た。
「全員を救えないとき、誰を優先するか決める。それは誰もやりたくない、辛い判断だ」
「はい」
「だが誰かがやらなければならない。お前はその重荷を背負った」
「一人じゃありません」
リオンは微笑んだ。
「エルナも、局長も、ミーナも、みんながいたから、できました」
その夜、リオンはリーティアの部屋を訪れた。
「管理者。本日の稼働率、91.2%。同時多発攻撃により大幅に低下」
「うん。でも全部、復旧できた」
「管理者の判断は適切だった」
リーティアは静かに言った。
「トリアージ。最適な資源配分だ」
「最適、か」
リオンは苦笑した。
「最適だとしても、辛いよ」
リーティアは少し間を置いて、言った。
「管理者はシステムではない。人間だ」
「え?」
「システムなら冷静に優先度を判定できる。でも人間は感情がある。だから辛い」
リーティアの金色の目が、リオンを見つめた。
「でもそれは、弱さではない」
リーティアは続けた。
「感情があるから、人間は正しい判断ができる。システムは数値だけで判断する。でも人間は人の命の重さを理解できる」
リーティアの声が、ほんの少しだけ揺れた。
「だから——管理者の判断は、正しかった」
リオンは、リーティアを見た。彼女の投影体が、静かに揺れている。
「ありがとう、リーティア」
「礼はいい。ただ、データに基づいた事実を述べただけだ」
「そう?」
「ああ。別に、管理者を慰めたわけではない」
リオンは微笑んだ。
「わかった。ありがとう、リーティア」
リーティアの投影体が、ほんの少しだけ明るくなった。
窓の外、王都の夜景が広がっている。すべての魔法陣が、再び輝いている。
同時多発攻撃。全部は救えない、最も辛い戦い。だがリオンは冷静に判断し、優先度を決め、一つずつ対処した。
トリアージ。人命に直結するものから。それ以外は後だ。
それは正しい判断だった。辛くても、正しかった。
そして明日も、戦いは続く。
**あとがき**:全部は救えないとき、何を切り捨てるか。ミーナに怒鳴ってしまうリオンの人間味と、東区住民が最後に見せた理解が、トリアージという冷徹な方法論に体温を通わせる第57話です。