魔術局の時計が、深夜三時を指していた。
リオンは羊皮紙に埋もれた机で、また一つインシデントレポートを書き終えた。
「今日で、連続十四日目か」
呟いて、頭を抱える。
開戦から二週間。帝国の攻撃は止まらなかった。昼間は通信魔法陣への干渉。夜間は防壁への魔力飽和攻撃。早朝は水浄化魔法陣への破壊工作。パターンを変え、場所を変え、手法を変えて、帝国は容赦なく攻撃を仕掛けてくる。
「管理者。報告だ」
リーティアの投影体が現れた。
「第三防壁に異常魔力パターンを検知。DDoS的飽和攻撃の兆候」
「わかった。エルナを呼んで」
「エルナは現在、第一防壁の修復作業中。推定完了時刻、あと二時間」
「セラフィーナは?」
「王都南区の通信魔法陣で脆弱性診断実施中。こちらも推定完了時刻、あと一時間」
「じゃあ、僕が行く」
王都の夜風が冷たい。
第三防壁の魔法陣は、王都東区の地下にある。リオンは眠気と戦いながら階段を降りた。
「【診断】」
魔法陣の状態が見える。魔力の流れが異常だった。
「これ、飽和攻撃じゃなくて、入力パスを狙った集中攻撃だ」
前回の対処法が通用しない。帝国は学習している。
「くそ。手順書を更新しないと」
リオンは懐から羊皮紙を取り出し、対処手順を書き始めた。疲労で手が震える。文字が歪む。
対処が終わったのは、夜明け前だった。リオンは魔術局に戻ると、机に突っ伏した。
「前の世界と、同じだ」
鳴り止まないアラート。終わらない障害対応。削られていく睡眠時間。定時で帰る。そんな当たり前のことが、もう二週間できていない。
「約束したのに」
自分に、仲間に、約束したのに。「定時で帰る」。「一人で抱え込まない」。「無理をしない」。でも戦争は、そんな約束を許してくれない。
「リオンさん!」
エルナの声で目が覚めた。
「エルナ? 第一防壁の修復は」
「終わりました。でもリオンさん、また寝てないんですか!」
エルナの緑の目が、心配と怒りで揺れていた。
「いや、これは仮眠で」
「仮眠じゃありません! 三時間前に第三防壁の対処してたの、知ってます!」
「リーティアが告げ口したな」
「告げ口じゃなくて、報告です」
エルナは羊皮紙の束を抱えて、リオンの机に座り込んだ。
「リオンさん、このままじゃ倒れます」
「大丈夫。前の世界でも三日徹夜とかやってたから」
「その結果、どうなったんですか」
エルナの声が、静かに響いた。
リオンは黙った。前世の最期。サーバールームで倒れた記憶が、鮮明に蘇る。終わらない障害対応。鳴り止まない携帯。削られていく体力。そして意識が途切れる瞬間の、後悔。
「ごめん」
「謝らないでください。謝るくらいなら、ちゃんと休んでください」
エルナはリオンの顔を覗き込んだ。
「リオンさんが倒れたら、私たち全員困ります。だから定時で帰ってください」
「でも、帝国は待ってくれないんだ」
「知ってます。でも」
エルナは真剣な目で言った。
「リオンさんが倒れたら、意味がないんです」
その日の昼、ミーナが魔術局に現れた。
「リオンさん、昼ごはん持ってきました!」
「ありがとう、ミーナ。でも今、ちょっと手が離せなくて」
「手を離してください」
ミーナは珍しく強い口調で言った。
「昨日も、一昨日も、その前も、リオンさんまともにご飯食べてないでしょう」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、食べてないんです。リーティアさんから報告受けてます」
ミーナは羊皮紙の束を避けて、スープの椀を机に置いた。
「食べない人に、仕事する権利はありません」
「なんだそのルール」
「今決めました」
ミーナは微笑んだ。
「食べて、リオンさん」
スープを口に運ぶと、温かさが体に染み渡った。
「美味い」
「でしょう? あたし、料理だけは自信あるんです」
ミーナは椅子に座って、リオンを見つめた。
「ねえ、リオンさん。このままじゃ、本当に倒れますよ」
「わかってる」
「じゃあ、なんで無理するんですか」
「僕がやらないと、誰も」
「います」
ミーナは即答した。
「エルナさんがいます。セラフィーナさんがいます。アルヴィス局長もいます。リーティアさんもいます。そして、あたしもいます」
「でも」
「リオンさんは、前の世界で一人だったんですよね」
ミーナの声が、優しく響いた。
「でも今は違います」
夕方、セラフィーナが報告に来た。
「王都南区、脆弱性診断完了。重大な問題は三箇所。詳細はここに」
セラフィーナはリオンの顔を見て、眉をひそめた。
「リオン。顔色が悪い」
「自覚はある」
「休め」
「休めないんだよ。帝国の攻撃が」
「私たちがいる」
セラフィーナは冷静に言った。
「リオン、お前が全部やる必要はない」
「でも」
「お前が倒れたら、誰が全体を見る?」
セラフィーナの琥珀色の目が、リオンを見つめた。
「お前の仕事は、全部を把握して指示を出すこと。現場対応じゃない。だから休め。それが、お前の仕事だ」
深夜、リオンは一人でリーティアの部屋を訪れた。
「管理者。報告だ。本日のインシデント、七件。うち重大」
「リーティア。一つ聞いていい?」
「なんだ」
「僕、ちゃんとできてる?」
リーティアの投影体が、わずかに揺れた。
「質問の意図が不明だ」
「みんな、疲れてる。エルナもセラフィーナもアルヴィス局長も、みんな限界が近い。でも僕は止められない」
リオンは拳を握った。
「前の世界と同じだ。仕事を優先して、大切な人を壊してる。だから聞きたいんだ。僕のやり方、間違ってる?」
リーティアは少し間を置いて、答えた。
「管理者の判断は、論理的には正しい」
「でも?」
「人間は、論理だけでは動けない。そう、管理者が教えてくれた」
リーティアの金色の目が、リオンを見た。
「管理者。提案がある」
「なに?」
「交代制を敷け」
リオンは目を見開いた。
「交代制?」
「現在の体制は全員が全時間対応している。これは非効率だ。冗長構成を人員にも適用すべきだ」
「管理者が昼、エルナが夜、セラフィーナが深夜。三交代で監視と対応を回せば、全員が休息時間を確保できる」
リーティアは淡々と続けた。
「管理者が倒れたら、システム全体が停止する。それは最大のリスク要因だ」
リオンは、ゆっくりと息を吐いた。
「そうか。人員も、冗長化すればいいのか」
「そうだ」
「なんで、それに気づかなかったんだろう」
「管理者は疲労している。判断力が低下している。だから私が提案した」
リーティアは小さく頷いた。
「これは、合理的判断だ」
「ありがとう、リーティア」
「別に。システムの安定稼働のためだ」
リーティアの投影体が、わずかに明るく輝いた。
翌朝、リオンはチーム全員を集めた。
「これから、交代制を敷きます」
全員が驚いた顔でリオンを見た。
「今の体制は持続可能じゃない。全員が疲弊して、いつか誰かが倒れる」
リオンは羊皮紙を広げた。
「だからシフトを組みます。昼は僕とアルヴィス局長。夜はエルナとミーナ。深夜はセラフィーナとリーティア」
「リオンさん、深夜は」
「僕は入りません」
リオンは即答した。
「僕が倒れたら全体が止まる。だから僕はちゃんと休みます」
エルナが驚いた顔で言った。
「リオンさん、それ本気ですか?」
「本気だよ。前の世界で、僕は大切なものより仕事を優先してすべてを失った」
リオンは全員を見た。
「今回は違う。仕事もみんなも両方守る。そのために、無理はしない。倒れたら意味がないから」
リオンは微笑んだ。
「前世で学んだことだ」
アルヴィスが口を開いた。
「リオン。それでいい」
「局長」
「私も、昔は一人で全部やっていた。だがそれでは、いつか必ず限界が来る」
アルヴィスはリオンの肩に手を置いた。
「お前は賢い。自分の限界を認められる。それがお前の強さだ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。シフトを回すぞ」
その夜、リオンは三日ぶりに工房のベッドで眠った。魔術局を離れる。通信魔法陣は持っているが、深夜シフトのセラフィーナを信頼して目を閉じた。
不安だった。前の世界では、常に携帯が鳴る恐怖で眠れなかった。でも今は一人じゃない。エルナがいる。セラフィーナがいる。ミーナがいる。アルヴィス局長がいる。リーティアがいる。みんなが支えてくれている。
リオンは、深く眠った。
朝、リオンは八時間ぶりの睡眠から目覚めた。体が軽い。頭がクリアだった。
「そうか。これが、休息か」
通信魔法陣を確認する。深夜のインシデント、二件。セラフィーナが対処済み。
「大丈夫だったんだ」
安堵と、少しの寂しさ。自分がいなくても回る。それが本当の意味での安定稼働。
魔術局に出勤すると、エルナが笑顔で迎えた。
「リオンさん、おはようございます! 今日は顔色がいいですね!」
「八時間寝た」
「すごい! リオンさんが八時間寝るなんて!」
エルナは本気で驚いていた。
「いや、そんな驚くことじゃないだろ」
「驚きます。この二週間、リオンさんが三時間以上寝たこと、一度もなかったんですから」
「そうだったかな」
「そうだったんです」
エルナは真剣な顔で言った。
「だからこれからも、ちゃんと寝てください」
昼、ミーナが報告に来た。
「リオンさん、交代制の評判、いいですよ。みんな、安心して休めるって。誰かが見ててくれるから、って」
ミーナは微笑んだ。
「これが、リオンさんが言ってた『冗長化』なんですね」
「うん。人間も、魔法陣も、同じだ。一人に頼らない」
リオンは頷いた。
「それがずっと動き続けるための秘訣だから」
夕方、セラフィーナが深夜シフトの準備をしていた。
「リオン、昨夜のインシデント、対処手順を更新しておいた」
「ありがとう」
「お前の手順書、よくできてる。あれがあれば、誰でも対応できる」
セラフィーナは羊皮紙の束を渡した。
「だから安心して休め」
「うん」
「それと」
セラフィーナは少し間を置いて、言った。
「私、初めてチームで働くのが楽しいと思った」
「帝国では、いつも一人だった。でもここは違う」
セラフィーナの琥珀色の目が、穏やかだった。
「だからお前が倒れたら困る。ちゃんと休め」
深夜、リオンはまたリーティアの部屋を訪れた。
「管理者。シフト外の時間だ。なぜここに」
「ちょっと気になって」
「深夜シフトはセラフィーナが担当だ。管理者は」
「わかってる。でもやっぱり心配なんだよ」
リーティアは少し間を置いて、言った。
「管理者。それは信頼の欠如か?」
「違う。信頼してる。でも」
リオンは窓の外を見た。
「前の世界で、僕は全部一人で抱えて失敗した。だからまだ、怖いんだ」
リーティアの投影体が、リオンの隣に現れた。
「管理者。データを示す」
「なに?」
「交代制導入後、インシデント対応速度、平均23%向上。対処ミス、ゼロ。チーム全体の疲労指数、推定40%低下」
「つまり管理者の判断は正しかった」
リーティアは静かに続けた。
「管理者が休むことで、システム全体が安定した。これは合理的な結果だ。だからもう、一人で抱える必要はない」
リーティアの金色の目が、優しく光った。
「私たちがいるから」
リオンは深く息を吐いた。
「ありがとう、リーティア」
「礼はいい。これはシステムの安定稼働のためだ」
「本当に?」
リーティアの投影体が、わずかに揺れた。
「……管理者が、心配だから」
「うん。ありがとう」
リオンは微笑んだ。一人じゃない。前の世界と今は、違う。
工房への帰り道、リオンは星空を見上げた。
定時で帰る。それがまた少しずつできるようになってきた。完璧じゃない。まだ無理をすることもある。でも前よりは、良くなってる。
「前世の自分に、伝えたいな」
呟いた。
「一人で全部やらなくていいんだよ、って。信頼できる仲間がいれば、無理しなくても守れるんだよ、って」
風が吹く。
リオンは前を向いて、歩き出した。
**あとがき**:「人員の冗長化」というリーティアの提案が光る第60話。前世で過労死した男が交代制を敷く決断に至るまでに、エルナ・ミーナ・セラフィーナ全員が背中を押す構成です。