S03-P01 異世界SLA99.99% ~元SEは今日も魔法インフラを落とさない~

第7話: 定時で帰りたいだけなのに

第1アーク · 6,105文字 · revised

朝日が昇る前に、ノックの音で目が覚めた。

リオンは布団の中で身じろぎした。まだ外は暗い。鶏も鳴いていない。窓の隙間から覗く空は、紺色から濃紫へ移り変わる途中だった。

「リオン! リオン、起きてるか!」

男の声だ。慌てた様子の、低い声。
 リオンは布団を被り直した。

「……まだ、始業前なんですが」

誰にも聞こえない声で呟く。だがノックは止まらない。むしろ激しくなっている。

仕方なく起き上がり、寝癖のついた黒髪を掻きながら戸を開けた。


立っていたのは、三つ隣の村カルスの農夫だった。名前は確かヨーゼフ。四十がらみの、日焼けした大柄な男だ。
 息を切らしている。馬を飛ばしてきたのだろう。

「悪い、朝早くに! だが大変なんだ! うちの村の灌漑魔法陣(かんがいまほうじん)が止まっちまった! このままだと畑が——」
「落ち着いてください。いつから止まってますか」
「昨日の夕方からだ。最初は出力が弱くなって、深夜にはまったく動かなくなった」

リオンは目を瞑った。
 症状を聞くだけで、いくつか原因の仮説が浮かぶ。出力低下から完全停止と段階的に悪化しているなら、突発障害ではなく劣化系の可能性が高い。

「わかりました。朝食を食べたら向かいます」
「朝食!? 今すぐ来てくれ!」
「空腹で診断すると集中力が落ちます。誤診のリスクが上がる。急がば回れです」

ヨーゼフは不満そうだったが、リオンの落ち着いた態度に押されて、渋々頷いた。


パンと干し肉を噛みながら、リオンは壁に掛けた板を見た。
 薄い木の板に、炭で文字が書き連ねてある。前世でいうタスクボードのつもりだった。

内容はこうだ。

【本日の予定】
 ・カルス村:灌漑魔法陣の停止対応(緊急)
 ・ホルン村:防壁魔法陣の定期診断(約束済み)
 ・ルーンフェル村:水浄化魔法陣の経過観察
 ・ブラント村:土壌管理魔法陣の出力調整(依頼済み)

四件。

一ヶ月前は、ゼロだった。
 二週間前は、一件か二件だった。
 それが今は毎日四件から五件。

リオンは炭筆を置いた。
 干し肉の味が、急にしなくなった。


カルス村までは馬で半刻ほどかかる。
 ヨーゼフが連れてきた馬の背に揺られながら、リオンは朝靄(あさもや)の中を進んだ。

辺境の景色は美しい。麦畑が朝露に光り、遠くの森から鳥の声が聞こえる。前世では考えられなかった通勤風景だ。満員電車もなければ、排気ガスもない。

でも、通勤している時点で同じじゃないか。

そんな思考が、頭の隅を掠めた。

カルス村に着くと、畑の前に村人たちが集まっていた。不安そうな顔。当然だ。灌漑魔法陣が止まれば水が来ない。水が来なければ作物が枯れる。作物が枯れれば——飢える。

リオンは馬から降り、魔法陣に歩み寄った。
 膝をつき、手を置く。

「【診断(ダイアグノーシス)】」

視界が切り替わる。魔力の流れ、構造、負荷、すべてが情報として流れ込んでくる。

「……やっぱり」

刻印の摩耗だ。魔法陣の核にあたる部分の刻印が、長年の使用で削れている。魔力の変換効率が落ち、閾値(いきち)を下回った時点で安全装置が作動して停止した。
 ハードウェア障害。前世でいうなら、ディスクのセクタ不良に近い。

「刻印の摩耗です。核の部分を彫り直せば復旧します」
「彫り直す!? そんなことできる奴は——」
「僕が図面を描きます。あとは腕のいい石工がいれば」

三時間かけて、リオンは魔法陣の修復設計図を作った。
 カルス村には幸い石工がいた。リオンの指示通りに刻印を彫り直し、午後には灌漑魔法陣が復旧した。

村人たちの歓声。感謝の言葉。握手。
 リオンは曖昧に微笑みながら、次の目的地のことを考えていた。

ホルン村の防壁診断が、まだ残っている。


ホルン村に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。

防壁魔法陣の定期診断。これは緊急ではないが、約束した以上は守らなければならない。前世で学んだことがある。運用の信頼は、約束を守ることで成り立つ。SLAとは、つまるところ約束だ。

診断の結果、ホルン村の防壁には大きな異常はなかった。ただし、一部の魔力パスに軽微な劣化が見られた。今すぐ問題にはならないが、半年以内に対処が必要だ。

リオンは村長に報告書を渡した。木の板に炭で書いた、簡素だが正確な診断結果。

「ここに書いた箇所を、次の巡回魔術師が来たときに補修してもらってください。放置すると冬までに防壁の出力が二割落ちます」
「ありがとう、リオン殿。しかし……巡回魔術師は年に一度しか来ないんだ」
「……年に一度」
「ああ。それも、来ない年もある」

リオンは黙った。
 年に一度。しかも来ない年もある。

前世に置き換えれば、年に一回しかパッチを当てない本番サーバーだ。しかもベンダーが来ないこともある。
 背筋が冷えた。


ルーンフェル村に戻ったときには、とっくに日は沈んでいた。

夕食は母が温め直してくれた麦粥と根菜の煮物。美味しいはずなのに、疲れすぎて味がわからない。

「リオン、最近帰りが遅いね」
「……うん」
「無理しないでね」
「してないよ」

嘘だ。
 今日だけで二つの村を回り、魔法陣の修復設計図を一枚描き、診断報告書を一枚書いた。移動時間を含めれば、十二時間以上働いている。

定時って、何時間だっけ。

リオンは食器を片付け、自室に戻った。
 薄暗い部屋。窓からは月明かりが差している。机の上には、明日以降の依頼をまとめた板が置いてある。

明日の予定。
 ・ブラント村:土壌管理魔法陣の出力調整
 ・ルーンフェル村:水浄化魔法陣の経過観察
 ・ノイエ村:照明魔法陣の不具合調査(新規依頼)

明後日の予定。
 ・リーデン村:通信魔法陣の遅延問題
 ・カルス村:修復した灌漑魔法陣の経過確認

その先にも、依頼は溜まっている。

リオンは机に突っ伏した。


深夜のサーバールーム。

青白い光。ファンの轟音。冷たい空気。
 携帯が鳴っている。バイブレーションが止まらない。

「九条さん、Aシステムが落ちました」
「九条さん、Bの応答が返ってきません」
「九条さん、顧客から問い合わせが——」

画面には障害チケットが並んでいる。赤い文字。赤い文字。赤い文字。全部赤い。

エスカレーション。対応。報告。エスカレーション。対応。報告。
 終わらない。

携帯を見る。着信履歴。仕事、仕事、仕事。
 その中に、一件だけ違う名前があった。

彼女からの不在着信。

今日は約束の日だった。
 二人の記念日。半年前から予約していたレストラン。
 「今度こそ行こうね」と笑った、あの顔。

時刻は23時47分。

リオン——いや、九条諒は携帯を握りしめた。
 電話をかけ直す。コール音が鳴る。一回、二回、三回——。

「……もしもし」
「ごめん。また障害対応で——」
「うん」
「来月、必ず——」
「りょうくん」

彼女の声は、穏やかだった。怒ってはいなかった。それが、余計に痛かった。

「もういいよ」

通話が切れた。
 ツー、ツー、ツー。

サーバールームのファンだけが、回り続けている。


「——っ!」

リオンは跳ね起きた。
 机に突っ伏したまま、眠ってしまっていた。頬に木目の跡がついている。

窓の外は、まだ暗い。深夜か、未明か。
 心臓がうるさい。額に汗が浮いている。

夢だ。
 前世の記憶。もう取り返しのつかない、あの日の記憶。

リオンは両手で顔を覆った。

「……僕は」

声が震えていた。

「僕は、この世界では定時で帰るんだ」

自分に言い聞かせる。何度も。何度も。

ここは前世じゃない。携帯は鳴らない。上司もいない。SLAも、エスカレーションも、顧客対応もない。

でも。

依頼は来る。
 魔法陣は壊れる。
 村人たちは困る。

断ればいい。自分のペースを守ればいい。そう思っていた。実際、最初の頃はそうしていた。

でも、灌漑が止まれば作物が枯れる。防壁が落ちれば村が危険に晒される。浄化が止まれば水が飲めなくなる。
 魔法陣の障害は、人の生活を直撃する。

前世のインフラと同じだ。
 止めてはいけない。止まったら、人が困る。

だから、断れない。

リオンは手を下ろし、天井を見上げた。

「……また、同じことしてる」

前世の九条諒は、「断れない」人間だった。
 頼まれれば引き受ける。自分しかできないから。代わりがいないから。ドキュメントがないから。属人化しているから。
 そうやって、一人で全部を背負い込んで壊れた。

今のリオンは、どうだ。

この辺境で、魔法陣を診断できるのは自分だけだ。
 巡回魔術師は年に一度。来ない年もある。
 手順書はない。引き継ぎ資料もない。後任もいない。

完全な属人化。

「笑えないな……」

前世で最も嫌った状態に、自分がなっている。


翌朝。

リオンはいつも通り朝食を食べ、いつも通り依頼をこなしに出かけた。
 ブラント村の土壌管理魔法陣。出力パラメータの調整。これは比較的簡単な作業だ。診断して、数値を最適化して、検証する。二時間で終わるはずだった。

「あの、リオン殿」

作業中に、ブラント村の村長が声をかけてきた。

「何でしょう」
「実はうちの村、井戸の魔法陣も最近おかしくて……ついでに見てもらえないかね」
「……ついでに」

リオンは作業の手を止めた。
 「ついで」。前世でもよく聞いた言葉だ。「ついでにこれもお願い」「ついでにあっちも見て」。ついでが積み重なって、工数が倍になる。

「診ますけど、別件として扱わせてください。今日は土壌管理の対応で来てるので、井戸は後日改めて」
「そこをなんとか。遠いところから来てもらってるんだし」

善意の圧。悪意はない。ただ、困っている。そして、目の前にリオンがいる。

リオンは小さく息を吐いた。

「……わかりました。土壌管理が終わったら、見ます」

断れなかった。


結局、ブラント村を出たのは夕方近くだった。
 井戸の魔法陣は、入力パスに異物が詰まっていた。魔力を通す地下水脈に堆積物が溜まり、流量が減っていた。物理的な問題だから、リオンの手には負えない。村人に掘削を指示し、その間にルーンフェル村の水浄化魔法陣の経過観察もこなさなければならなかった。

村に戻り、水路沿いの魔法陣を診断する。異常なし。安定稼働。
 ほっとする。一つでも正常に動いているものがあると、心が楽になる。

前世でもそうだった。ダッシュボードの全面グリーンは、運用者にとって最高の景色だ。

でも、今日はまだ終わらない。
 ノイエ村から来た使者が、照明魔法陣の不具合を訴えている。「夜になると暗くなる」。当たり前では、と思ったが、魔法陣制御の照明が本来の半分の出力しか出ていないらしい。

明日、対応しなければ。

リオンは自室の机に向かい、今日の作業記録を書いた。
 木の板に、炭で。一件ずつ、丁寧に。

何をした。何が原因だった。どう対処した。経過はどうか。

前世で叩き込まれた習慣だ。作業記録を残せ。でなければ、二度目に同じ障害が起きたとき、また一からやり直しになる。

書き終えたとき、指先が炭で真っ黒になっていた。


板を重ねて棚に置く。
 棚には、この一ヶ月で書き溜めた板が二十枚以上並んでいた。

リオンは、それを眺めた。

二十枚。二十件以上の対応。すべて一人で。

「……一人じゃ、無理だ」

口に出したのは、初めてだった。

わかっていた。最初からわかっていた。前世でもそうだった。
 インフラの保守運用は、一人でやる仕事じゃない。チームで回すものだ。シフトを組み、役割を分担し、知識を共有し、手順書を整備して、誰が対応しても同じ結果が出る体制を作る。

それが、運用の基本だ。

なのに今のリオンは、一人だ。
 診断できるのは自分だけ。設計図を描けるのも自分だけ。原因を特定して対処方針を出せるのも自分だけ。

一人に依存するのがリスクなんですよ、と自分で言った言葉が、ブーメランのように返ってくる。

「手順書を作る。人を育てる。体制を組む……」

理想はわかっている。
 でも現実は毎日の依頼に追われて、そこまで手が回らない。

目の前の障害を直さなければ、人が困る。
 でも目の前の障害だけを直し続けていたら、いつまでも一人のままだ。

前世と、まったく同じジレンマ。


リオンは窓を開けた。
 夜風が頬を撫でる。月が高い。虫の声が聞こえる。

前世にはなかった、穏やかな夜だ。
 この風を感じるために転生したはずだった。この静けさの中で、穏やかに暮らすために。

なのに。

「定時で帰りたいだけなのに」

呟きは、夜風に溶けた。

リオンは窓枠に肘をついた。
 考える。

このままではいけない。前世と同じ結末を迎える。
 過労で倒れるか、あるいは倒れる前に心が折れるか。

どちらにしても、誰も得をしない。

自分が倒れれば、この辺境の魔法陣を診る人間がいなくなる。
 今よりもっと悪い状態になる。

だったら。

「仲間が、いるんだよな……」

リオンは呟いた。

前世の九条諒には、チームがあった。部下がいた。同僚がいた。
 でも、九条諒は一人で抱え込んだ。「自分がやった方が早い」「説明する時間がもったいない」「ミスされると困る」。
 そうやって属人化を加速させ、自分で自分の首を絞めた。

同じ(てつ)を、踏むわけにはいかない。

この世界で、仲間を見つけなければ。
 自分の知識を共有して、手順書を作って、一人じゃなくても回る体制を作らなければ。

それが——本当の意味で「定時で帰る」ための、唯一の方法だ。


翌朝。

リオンはいつもより早く起きた。
 朝食の前に、一枚の板を取り出す。新しい板だ。

炭筆を握り、書き始めた。

【やることリスト(長期)】
 1. 手順書の作成:診断手順、よくある障害パターン、対処方法
 2. 人材の確保:魔法陣の基礎知識がある人間を探す
 3. 教育体制:自分がいなくても診断・対処ができるように
 4. 定期巡回の仕組み化:依頼が来てから動くのではなく、予防保守

書き終えて、リオンは板を見つめた。

前世でも同じことを考えた。考えただけで、実行する前に倒れた。
 今度は実行する。

そのとき、戸を叩く音がした。

「リオン! リオン、いるか!」

また、朝早い訪問者だ。

「ノイエ村の照明魔法陣、昨夜ついに完全に消えちまったんだ! 子どもたちが怖がって——」

リオンは板を机に置いた。

長期計画は、また後だ。
 目の前に、困っている人がいる。

「……わかりました。朝食を食べたら向かいます」
「頼む!」

リオンは、また一つ依頼を引き受けた。

でも今日は、少しだけ違う。
 帰ったら、手順書を書き始めよう。一枚でいい。
 自分じゃなくても、照明魔法陣の簡単な不具合なら直せるように。

小さな一歩だ。
 でも、ゼロと一は違う。

前世のSEは、それを知っている。


リオンは家を出た。
 朝日が、彼の背中を照らしている。

依頼は止まらない。
 一人では限界がある。

だから、変えるしかない。
 一人で全部やる体制を、チームで回す体制に。

それは前世でできなかったことだ。
 でも、この世界なら、できるかもしれない。

定時で帰りたい。
 そのために——まず、一緒に働く仲間を見つけなければ。

リオンは歩きながら、この辺境に魔法陣の知識を持つ人間がいないか、考え始めた。
 誰かいるはずだ。この世界にも、インフラを守ろうとする人間が。

——その答えは、思ったより早く見つかることになる。
 だが、それはまだ少し先の話だ。


【あとがき】
前世のフラッシュバックを初めて本格的に描きました。定時退勤を願いながら依頼に追われるジレンマは、転生しても変わらない人間の性かもしれません。

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