ゴルドが倒れた。
その知らせが村に走ったのは、朝靄がまだ畑の上に漂っている時刻だった。
リオンが自宅で朝食の麦粥を食べていると、隣家のおばさんが血相を変えて飛び込んできた。
「大変だよ、リオン! ゴルドのじいさんが高熱で寝込んじまった!」
「ゴルドさんが……?」
「昨晩から具合が悪かったらしいんだけど、今朝になって起き上がれなくなったんだって!」
リオンは匙を置いた。
ゴルド。村で唯一の魔法陣メンテナンス担当。前回、手順書を作ろうとしたときには「見ればわかる」と一蹴された相手だ。
しかしそのゴルドが倒れたとなると、問題は体調だけではない。
「……今週、農地魔法陣の定期メンテの日じゃなかったですか」
おばさんの顔から、さらに血の気が引いた。
村長の家に人が集まっていた。
村長を筆頭に、農家の代表、鍛冶屋のおやじ、水路管理の老人。みな一様に不安げな顔をしている。
「定期メンテは明日だ」村長が腕を組んで言った。「ゴルドに聞いたら、最低でも三日は動けんと」
「三日後じゃ間に合わん」農家の代表が声を荒らげた。「もう二週間延ばしとるんだ。これ以上先送りにしたら、麦が駄目になる」
「しかし、ゴルド以外に魔法陣をいじれる者はおらんぞ」
「だから言ったんだ、誰か若いのに教えとけって——」
「ゴルドに言ってくれ。あの頑固じじいに何度言っても聞かんのだから」
議論が堂々巡りを始めた。
リオンは隅の椅子に座って、黙って聞いていた。
前世で何度も見た光景だった。担当者が一人しかいないシステム。その担当者が倒れる。誰も代わりができない。
属人化の典型的な障害パターンだ。
リオンは立ち上がった。
「村長、一つ提案があります」
「なんだ、リオン」
「僕がゴルドさんに作った手順書、覚えてますか」
村長が眉をひそめた。ゴルドが突き返したあの巻物のことは、村中の噂になっていた。
「あれ……ゴルドが『こんなもの要らん』と言ったやつか?」
「はい。でも、僕の手元に写しがあります」
リオンは懐から、丸めた巻物を取り出した。
ゴルドが農地魔法陣のメンテナンスを行う様子を横で観察し、手順を書き起こしたもの。ゴルド本人には拒否されたが、リオンは自分用の控えを残していた。
前世の癖だ。ドキュメントは必ず手元にも保存する。
「これに沿って作業すれば、ゴルドさんじゃなくてもメンテナンスができるはずです」
「……本当か?」
「少なくとも、定期メンテレベルの作業は網羅してあります。ただし」
リオンは村人たちを見回した。
「僕じゃ駄目なんです。僕のスキルは【診断】だけで、魔力を注入したり、刻印を整えたりする作業ができない。魔力操作ができる人が必要です」
沈黙が落ちた。魔力操作ができる者は何人かいるが、魔法陣に触った経験のある者はゴルド以外にいない。
「……俺じゃ、駄目ですか」
部屋の入口に、背の高い青年が立っていた。日焼けした肌、短く刈った茶色の髪。トマスだ。村で一番真面目な若者で、魔力適性もそこそこある。
「トマス?」村長が目を丸くした。
「俺、魔力操作は一応できます。ゴルドのじいさんに昔ちょっとだけ教わった。基本だけですけど」
「でもお前、魔法陣のメンテなんて——」
「やったことないです」トマスは正直に言った。「でも、手順書があるなら……」
リオンはトマスを見た。
不安げな目。でも、逃げていない。
「トマスさん、やってみてくれますか」
「……リオンが横についてくれるなら」
「もちろん。僕が【診断】で状態を確認しながら、トマスさんが作業する。手順書に全部書いてあるから、順番通りにやれば大丈夫です」
村長が腕を組んだまま、しばらく考え込んだ。
そして、深く息を吐いた。
「やってくれ。他に手はない」
翌朝。
村の東側、麦畑の中央に埋め込まれた農地管理魔法陣の前に、リオンとトマスは並んで立っていた。
直径2メートルほどの円形の石板。表面には細かい紋様が刻まれ、薄い緑色の光を放っている。麦畑全体の土壌管理、水分調整、害虫除けを担う、村の食糧生産の要だ。
「……でかいな」
トマスが呟いた。声が微かに震えている。
「大丈夫。一つ一つの作業は単純です」
リオンは巻物を広げ、トマスの前に置いた。
手順書。
ゴルドの作業を観察して書き起こした、農地魔法陣の定期メンテナンス手順。
手順1:魔法陣の外周に手を置き、全体の魔力残量を確認する。
手順2:残量が基準値(石板の光が薄緑色)以上であれば次へ。基準値未満(光が黄色以下)であれば、魔力を注入する。
手順3:刻印の摩耗箇所を目視で確認する。欠けや薄れがあれば、魔力を指先に集めて上からなぞる。
全部で12の手順が、順番に記されている。
各手順には「正常な状態」と「異常な場合の対処」が併記されている。
「これ……すごく丁寧に書いてあるな」
トマスが巻物を読みながら言った。
「当然です。手順書は、初めてやる人が読んでわかるように書くものなので」
「リオン、こういうの好きだろ」
「好きというか……前の……いや、昔からの癖です」
リオンは危うく「前の世界では」と言いかけて、口をつぐんだ。
「じゃあ、始めましょう。手順1からお願いします」
トマスが魔法陣の外周に手を置いた。
ぎこちない動作。普段は鍬を握っている手だ。
「……何も起きないんだけど」
「手のひら全体を石板に密着させてください。手順書にも書いてあります」
「あ、ここか」トマスは巻物をちらりと見て、手の置き方を修正した。「……お。なんか、流れてくる感じがする」
「それが魔力の流れです。色はどうですか?」
「薄い……緑? たぶん」
「なら基準値以上です。手順2はスキップして、手順3に進んでください」
トマスはほっとした顔で巻物を見た。
リオンは横から【診断】を発動し、魔法陣の状態を確認する。
魔力残量72%。正常範囲内。トマスの判断は合っている。
「手順3……刻印の摩耗箇所を目視で確認、か」
トマスは魔法陣の表面を丁寧に見て回った。石板の上を這うように、一つ一つの紋様を確認していく。
「リオン、ここ。線が薄くなってる気がする」
「どこですか?」
「この……渦巻きみたいな模様の、右下のあたり」
リオンは【診断】で確認した。刻印の一部が摩耗している。魔力伝導率が周囲より8%低下。
「正解です。手順書の通り、魔力を指先に集めて、薄くなった刻印の上をなぞってください」
トマスは手順書を再度確認し、深呼吸した。
右手の人差し指に、淡い光が灯る。魔力の集中。基本中の基本だが、トマスの手は少し震えていた。
「……失敗したら、どうなる?」
「手順書に書いてあります。『力を入れすぎない。刻印をなぞるだけ。新しい線を描かない』。この三つを守れば、壊れることはありません」
「……わかった」
トマスは指先を刻印に当て、ゆっくりとなぞり始めた。
リオンは【診断】で魔力の流れを監視する。
トマスの魔力が刻印に沿って流れていく。摩耗した部分が、少しずつ修復されていく。
伝導率、回復中。5%……6%……7%……。
「いい感じです。そのまま」
「こ、こう?」
「はい。ゆっくりで大丈夫」
8%。正常値に復帰。
「完了です。次の箇所を探してください」
トマスが息を吐いた。額に汗が浮いている。
でも、その表情はさっきまでの不安とは違っていた。
「……できた」
「できましたね」
それから二時間。
トマスは手順書に従って、一つ一つの作業を進めていった。
魔力パスの確認。刻印の補修。排出口の詰まり除去。フィルタリング機能の再調整。
リオンは横で【診断】を続けながら、必要に応じてアドバイスを出した。でもほとんどの場合、トマスは手順書を読み直すだけで正しい作業ができた。
手順12まで完了したとき、トマスは魔法陣の前にへたり込んだ。
「……終わった」
「お疲れさまです」
リオンは最終確認の【診断】を行った。
農地管理魔法陣。
全機能正常。刻印修復完了。魔力パス安定。フィルタリング機能正常。
次回定期メンテナンスまでの推定安定稼働期間、四週間。
前回ゴルドがメンテナンスしたときと、ほぼ同等の結果だった。
「トマスさん、完璧です」
「……マジで?」
「マジです。ゴルドさんがやったのと同じレベルの仕上がりです」
トマスは自分の両手を見つめた。
さっきまで震えていた手。今は——少しだけ、誇らしげに見える。
「手順書がなかったら、絶対無理だった」
「そのための手順書です」
リオンは静かに笑った。
前世で、何百回と書いたドキュメント。誰にも読まれず、サーバーの奥に埋もれていった手順書たち。
でも今日、この世界で初めて手順書が「使われた」。
三日後。
ゴルドが回復した。
まだ本調子ではないようで、杖をつきながらではあったが、自分の足で歩けるようになっていた。
リオンがゴルドの家を訪ねると、老魔術師はベッドの縁に腰掛け、窓の外を睨んでいた。
「ゴルドさん、具合はどうですか」
「……悪くはない。で? わしが寝ている間に、誰が魔法陣を触ったんじゃ」
やはり気づいている。魔法陣の状態が変わったことを、ゴルドは感覚で察知したのだろう。さすがに長年メンテナンスを担ってきた人間だ。
「トマスさんです。僕が横について、手順書を見ながらやってもらいました」
「……あの農家の小僧がか」
「はい」
ゴルドの眉間の皺が深くなった。
「勝手なことを」
「定期メンテを延ばせる状況じゃなかったんです。麦が駄目になるところでした」
「わしが復帰してからやればよかったんじゃ」
「三日以上の遅延は、農地への影響が出ると判断しました。実際、土壌の魔力循環が低下し始めていました」
ゴルドは黙り込んだ。
それが正論であることは、長年の経験からわかっているはずだ。
「……出来はどうじゃった」
ぶっきらぼうに聞いてきた。
「僕の【診断】では、ゴルドさんの前回メンテと同等の結果でした」
「ほう」
ゴルドの目が、微かに動いた。怒りではない。驚き——いや、信じられないという顔だ。
「……見せろ。手順書とやらを」
リオンは巻物を差し出した。
ゴルドは受け取り、無言で読み始めた。
最初は荒い鼻息を立てていたが、途中で口をつぐんだ。目が巻物の上を行ったり来たりしている。
長い沈黙の後——ゴルドが口を開いた。
「……手順5。刻印の補修圧の記述が甘い。『軽く』ではなく、具体的な魔力量を書け。素人は加減がわからん」
「なるほど。修正します」
「手順8。排出口の詰まり除去の前に、必ず入力を絞れ。逆流するぞ。わしは体で覚えとるが、知らん者がやったら事故になる」
「確かに……ゴルドさんの作業を見たときには気づきませんでした」
リオンは巻物を受け取り、すぐに書き込んだ。
ゴルドは腕を組み、その様子をじっと見ていた。
「……お前、わしの作業を見て、これを書いたのか」
「はい」
「わしが要らんと言ったのに」
「はい。すみません」
「謝るところではないわ、馬鹿者」
ゴルドは窓の外に目をやった。
東の畑が見える。トマスが麦の世話をしている姿が、小さく見えた。
「……あの小僧が、本当にこれだけでやったのか」
「手順書を読みながら、一つ一つ。時間はかかりましたが、ちゃんとできました」
「わしなら半分の時間でできる」
「でも、ゴルドさんが倒れたとき、半分の時間でできる人が他にいなかった。それが問題なんです」
ゴルドが——ほんの一瞬、苦い顔をした。
図星だったのだろう。
「……わしは、いつまでも元気でおれるとは限らんな」
その言葉は、独り言のように小さかった。
リオンは黙って聞いていた。
老魔術師は長い息を吐き、再びリオンを見た。
「手順書に、二箇所追記しろ。わしが口で言う。お前が書け」
「……いいんですか?」
「悪いとは言っておらん。不完全なものを放置する方が、よほどまずい」
それは——ゴルドなりの、譲歩だった。
いや。譲歩よりもっと大きなものかもしれない。
リオンは新しい巻物を取り出し、ゴルドの言葉を一字一句書き取った。
追記が終わった頃、ゴルドは杖を突いて立ち上がった。
「見に行くぞ」
「え? まだ安静に——」
「見るだけじゃ。触りはせん」
二人は畑の中央まで歩いた。ゴルドの足取りは遅い。でも止まらない。
農地管理魔法陣の前に立ったゴルドは、石板をじっと見下ろした。
手は出さない。ただ、長年の経験で——感じ取っている。
「……魔力の流れは安定しとる。刻印の補修も、まあ悪くはない」
ゴルドは振り返らずに言った。
「トマスに伝えておけ。次の定期メンテもやれ、と」
リオンは一瞬、耳を疑った。
「それは……ゴルドさんが回復したら、ゴルドさんがやるんじゃ——」
「わしが監督する。作業はあの小僧がやれ。手順書を見ながらな」
ゴルドの背中は、相変わらず頑固そうだった。
でも——その声には、前回リオンを追い返したときの棘がなかった。
「……まあ、悪くはないな。お前の巻物は」
それだけ言って、ゴルドは杖を突きながら家に戻っていった。
夕方。
リオンは自室の机に向かい、手順書の清書をしていた。
ゴルドの追記を反映し、曖昧な表現を修正する。
巻物の最後に、リオンは一行書き加えた。
——初版作成:リオン。監修:ゴルド。初回実行:トマス。
三人の名前が並んだ手順書。
前世では、手順書の作成者欄に自分の名前しか書いたことがなかった。一人で書いて、一人で回して、一人で更新する。
でも今は違う。書く人がいて、直す人がいて、使う人がいる。
リオンは巻物を丸め、窓の外を見た。
夕陽に染まった麦畑が、風に揺れている。
「……仕組みは、一人じゃ作れない」
前世の自分に教えてやりたい。
手順書は、書くだけじゃ意味がない。使われて、直されて、育っていくものだ。
窓の下を、トマスが通りかかった。リオンに気づいて、手を振る。
「リオン! じいさんに『次もやれ』って言われた!」
「聞きました。よろしくお願いします」
「正直まだ怖いけど……手順書があれば、なんとかなる気がする!」
トマスは笑って走っていった。
リオンは小さく息をついた。
属人化を崩すのは、技術だけじゃない。人の意識を変えること。「自分にしかできない」を、「誰にでもできる」に変えること。
ゴルドも、トマスも、そしてリオン自身も——今日、その一歩を踏み出した。
翌日、村長が訪ねてきた。
「リオン、聞いたぞ。トマスがメンテを成功させたそうだな」
「はい。手順書があれば、ゴルドさん以外でもできることが証明されました」
「……それでな」村長は少し言いにくそうに切り出した。「領主様のところの防壁魔法陣なんだが——あれも、最近調子が悪いらしい。ゴルドに見てもらおうにも、あの体調だろう。お前に相談したいことがあるんだが」
リオンの脳裏に、【診断】で見た防壁魔法陣の構造が蘇った。
シングル構成。冗長化なし。あれが落ちたら、村の防御がゼロになる。
「……詳しく聞かせてください」
定時で帰りたい。でも——このインフラを放置したら、誰かが困る。
次の仕事が、もう始まろうとしていた。
【あとがき】
手順書が初めて「使われた」回。書くだけでは意味がない、使われて育つのがドキュメント。ゴルドの「悪くはないな」は、最大級の賛辞だと思っています。